第5話~5月、エメラルド~
五月の森は、若葉が風にそよぎ、陽の光をゆらゆらと透かしていた。
新緑の香りが小道をくすぐり、露を含んだ葉が朝の光を弾いている。
宝飾店フェアリーダストの屋根には、朝露がまだわずかに残り、葉陰からこぼれる光がガラス窓を虹のように彩っていた。
その日の店内では、朝から妖精たちが羽をぱたつかせながら窓辺を掃き、埃一つない床に光の粒がきらきらと舞い落ちていた。
奥の棚には、昨晩磨かれたばかりの宝石たちが、静かに息を潜めて出番を待っている。
扉の鈴が、りん、と優しい音を立てて揺れたのは、まだ午前の早い時間。
レイがカウンターで帳簿にペンを走らせていた手を止め、顔を上げると──
扉の向こうには、まるで風に乗ってやってきたような、小さな訪問者が立っていた。
「……こんにちは」
震えるように小さく、けれど、真っすぐな声音だった。
入り口に立つ少女は、8歳ほどだろうか。
肩まで伸びた明るい栗色の髪は、三つ編みにされていたものの、片方は途中でほどけかけている。
日焼けした頬と、土埃にまみれたワンピースの裾──
履き慣れた靴は濡れた草の跡を残し、靴紐も片方がほどけていた。
その姿は、旅人というより、迷い込んできた小鳥のようだった。
「いらっしゃい。ひとりで来たの?」
レイの声は、春の光と同じく、やわらかく。
少女は、少しだけためらったあと、こくんと小さくうなずき、胸元にしっかり抱えていた小さな布包みを、両手で大切そうに差し出した。
その動きには、ぎこちなさと覚悟が入り混じっている。
「…あの…この石を、きれいにしてもらいたくて……」
そっと開かれた布の中には──
深い緑色をたたえた、小さな原石がひとつ。
葉の影に潜むような色合い。
小さな欠けと、かすれた傷が残るその石は、まだ磨かれてはいないものの、どこか温もりを湛えている。
レイはそれをそっと受け取り、掌にのせたまま、少女の顔を見た。
彼女の瞳には、幼いながらに強く固めた決意が宿っている。
「……お母さんが、病気になってしまったの。
だから──元気になってほしくて。森で拾った、この石にずっとお願いしてたの。これで、魔法の石を作れるんでしょう?」
風が、小さな身体の周りをくるりと巡る。
少女の言葉に、妖精たちがそっと気配を寄せた。
レイは、受け取った原石を丁寧に布で包み直すと、棚からルーペと、銀縁の細長い片眼鏡のような道具を取り出す。
その片眼鏡には、ゆっくりと魔力が灯る──鑑定士だけが持つ『見極めの魔眼』
「ちょっとだけ、見てみてもいい?」
レイの問いかけに、少女──ユゥリは小さくうなずく。
ルーペを片目にあて、魔眼を通して石の奥を覗き込んだレイは、しばらく静かに観察していた。
やがて微かに眉を上げ、ふっと柔らかく笑う。
「……うん。これは、とてもいい石だ。
緑柱石の一種──“エメラルド”だね」
「えめ……るど……?」
ユゥリがぽかんと呟くように繰り返す。
「うん。大切な人の健康や、心を守るって言われてる石だよ。
古くから、癒しの力や、悪いものを遠ざける“厄除け”の力があるって、言われてるんだ」
「じゃあ……お母さん、元気になるかな……?」
その小さな声に、レイは少しだけ目を細めて──
うん、と、ゆっくりうなずいた。
「その願い、ちゃんと届くように。きれいに磨いて、おまじないもかけよう」
──そのおまじないが、少女の祈りをほんの少しでも守ってくれるように。
「お母さん、喜んでくれると、いいな」
少女の声は小さく震えていたが、その瞳には一片の曇りもなかった。
少女ユゥリ。八歳。
近くの町で、小さなパン屋を営む家のひとり娘だ。
父親は、数年前の戦に駆り出されたまま、ついに帰らなかった。
残された母は、ひとりで店を守り、朝も夜もなく働き続け──その身体に無理が重なり、とうとう床に伏してしまったという。
ユゥリは、まだ幼い手でできる限りのことをしながら、母の枕元で寄り添う日々を過ごしていた。
そんなある日、森の外れ──風の通り道で、ふと緑に光るものを見つけたのだという。
「……ずっと大事にしての。森で見つけて。
落とし物だと思うけど、誰にも見つからなくて……
神様が、私に元気になる石をくれたんだって思ったの」
淡く染まった頬がほんのり赤くなり、口元が恥ずかしげに揺れた。
少女はそれを、薄布のようなハンカチに包み、胸に抱えて持ってきた。
毎晩、眠るときにはそれを手のひらに握りしめ、
「おかあさん、よくなりますように」と、声にならない祈りを重ねていたという。
レイは、小さな原石をそっと両手に受け取る。
指先で包みこむと、石は体温に応えるように、わずかにしっとりとした重みを伝えてきた。
緑の結晶を光にかざす。
朝の窓から差し込む日差しが、原石の角に触れ、ゆらゆらと揺れる光がレイの頬を撫でる。
淡く、深く──森を映したような翠のひかり。
芯には、まるで水脈のような繊細な模様が通っており、ほんの少しだけ欠けた縁が、幼い手のぬくもりを物語っていた。
「……いい石だ。少し欠けはあるけど、よく守っていたんだね」
レイがそっと微笑むと、ユゥリは照れたように、くしゃりと顔をほころばせた。
「えへへ……毎晩、一緒に寝てたの。
朝になったらお日様にあてて、夜は、お月様にあてて。
なんだか……それだけで、ちょっとだけ、お母さんが笑ってくれる気がして」
その声には、歳月を知る者には眩しすぎるほどの、まっすぐな信じる力があった。
その瞬間、どこからともなく舞い降りてきた妖精たちが、ひとつ、またひとつと羽音を立てながら集まってきた。
翡翠色の羽をした小さな妖精が、ユゥリの肩にちょこんと降り立つと、くすりと笑って、ほどけかけた三つ編みをそっと指先で整えはじめた。
別の妖精は、エメラルドを包んでいた布を丁寧に畳み、少女の両手を包むように、温かな魔力のきらめきを送りこんでいく。
その様子に、ユゥリの目がぱちくりと見開かれた。
「……すごい……」
「妖精たちもね、君の想いに気づいてるんだよ」
レイが静かにそう告げると、ユゥリはほんの少し背筋を伸ばし、ふふっと笑った。
その笑顔は、春の若葉のように、やわらかくて、まっすぐだった。
──その石が、祈りを叶えるものとなるように。
レイはゆっくりと腰を上げ、作業台に道具を並べ始めた。
あのエメラルドに、魔法細工師としての技と、ほんの少しの魔術を込めて──
少女とその母に、ささやかな奇跡を届けるために。
レイは店の奥、光がよく入る作業台に腰を下ろすと、改めてエメラルドの原石を手に取った。
少女の小さな祈りと、掌のぬくもりがまだ宿っている気がして、いつになく慎重に、石と向き合う。
欠けのある端は、粗野に削れば簡単に取り除けるが──レイはそこに、月の雫のような内包の煌きを見出していた。
「……このまま、使える」
そう呟いて、小さなルーペを覗きながら、工具を取る。
回転研磨台が、微かに石に触れた瞬間。
キュィン──という繊細な音が、森の静けさに響いた。
金属でもガラスでもない、宝石ならではの特有の響き。
それは森の風に溶け、木々の葉を震わせ、遠くまでゆっくりと流れていく。
レイの手元では、ほんの小さな振動が、寸分の狂いもなく石をなぞっていく。
かつて、名匠たちが「神の指先」と評した緻密な研磨技術──
だがレイは、それを技術とは思っていない。
石に寄り添い、話を聞き、微笑んで一歩だけ背中を押すような、そんな感覚だった。
エメラルドの芯が、翡翠の湖のように現れる。
そこに、細い魔力の糸を一筋──
──厄災を避け、心身を鎮める、小さな魔術。
子どもが持つには、強すぎない方がいい。
それでも、想いがまっすぐであるほど、魔法の届く距離は伸びる。
誰かの心の奥深くに触れるような、やさしい祈りの魔術。
レイは指先で魔力を整えながら、そっとその光を石へ吹き込んだ。
すると、石は一瞬だけふわりと光を返した。
森の中で、朝露が一粒、葉を跳ねるような──
そんな、ほんのりとした輝き。
そのあいだ、妖精たちはにぎやかに動いていた。
ティーカップに森の花の香るお茶を注ぎ、ユゥリの前にちょこんと置くと、別の妖精は棚の中から紙箱を引っぱり出し、小さな焼き菓子を運んできた。
(……そレ、レイのおヤつ……)
けれど、少女が嬉しそうに目を輝かせるのを見ると、誰も咎める者はいなかった。レイはおやつが無くなってたのであとでちょっぴりへこんだ。
またひとりは、ユゥリの髪にそっと手を伸ばし、ゆるく乱れた毛先を細く編み込みはじめた。
少し照れたように、でも楽しそうに身を任せる少女の姿に、妖精たちもふわふわと笑い合う。
やがて──
「できた」
レイがそう呟いたときには、石は完全に目覚めていた。
原石の荒さは消え、翡翠の湖底から光が湧くような、静かで深い輝きを宿している。
ほんのわずかに残した欠けも、角度によって虹のように光を返す──世界に一つだけの、少女の石。
妖精たちが手際よく透明なケースを整え、内側に薄い緑の布を敷く。
そして最後に、レイがそっと翠のリボンをひと結び。
小さな両手にぴったりの、森の宝石箱ができあがった。
「……できたよ」
レイが微笑みながら、そっと差し出したのは──
掌にすっぽり収まる、小さな宝石のケースだった。
淡い光を反射する透明な蓋。その内側には、楕円に優しく磨かれたエメラルドが一粒、静かに鎮座していた。
深い森を閉じ込めたような翠緑。けれどそれは、ただの自然の色ではない。
──ケースの底には、レース模様のような繊細な花の細工。
その上に、ごく小さな銀の文字で刻まれていたのは──
“ママが元気になりますように”
くるんとした、少しだけ不器用な字。
ユゥリの筆跡に似せて、妖精たちが魔法のささやきを彫りこんだのだ。
ほんのわずかな光の魔力が込められたその一文は、ふわりと香るような温もりを放っていた。
「──わあ……!」
ユゥリは思わず、両手で口元をおさえた。
瞳をまんまるに見開き、エメラルドと花の細工を交互に見つめる。
頬が真っ赤に染まり、やがて、まるで朝顔が一気に咲くような笑顔がぱっと広がった。
「すごい……!ほんとに宝物みたい!」
小さな肩が震えるほどに、胸いっぱいの喜びがあふれていた。
そして──ユゥリはそっと、くたびれた布の袋を差し出すと、
中には、パンパンに詰まった小銭の山。
磨り減った銅貨や小さな銀貨が、ごそごそと音を立てて顔をのぞかせた。
「……あの、おこづかい、ずっと貯めてたの。 ぜんぶじゃないけど、使っていいから……」
レイは優しく目を細めた。
そして何も言わずにその中から、たった一枚の銀貨をすっと指先で抜き取った。
残りの硬貨は、そっと袋に戻してやる。
「この一枚だけ、いただこう。あとの分は──
いつかジュエリーに仕立てる時のために、ちゃんと貯めておいて」
ユゥリは一瞬、目をぱちぱちと瞬かせた。
子供でも、それが“サービス”だとわかってしまうのだろう。
戸惑うようにレイとルースを見比べて、それでも、やがてふっと頬をゆるませる。
「……うん。ありがとう、おねえさん」
「レイだよ」
中性的なレイの容姿と声は、見るものが希望する性別寄りに映る。母が病に倒れ、不安な少女の瞳には、レイは女性に見えたのだろう。
宝石を大事そうに胸元に抱いたとき──ふと、ユゥリの瞳が、レイの瞳に留まった。
「ねえ……レイの目も、エメラルドなの?」
「ふふ。そうかもしれないね」
──春の光が、窓辺から差し込み、棚の水晶の器に反射して店の中を照らした。
その光の道を受けるようにして、エメラルドがきらりと、ひときらめき。
宝石の輝きに包まれながら、ユゥリは両腕にその小さな奇跡を抱いて、店の扉へと駆けていった。
「ありがとう!」
振り返りざま、はじけるような笑顔とともに。
扉の鈴がりいん、と鳴って、春の森の匂いがふわりと入り込んだ。
レイと妖精たちは、その残り香を感じながら、そっと見送った。
小さな足音と笑い声が、緑のトンネルの向こうに吸い込まれていくまで。
──その後。
ユゥリの母親はゆっくりと快復し、ふたりでパン屋を再開したという。
あのエメラルドの効果かどうかは、誰にもわからない。
けれど今も、町の一角にあるそのパン屋の窓辺には、
深い翠のルースが、小さな光とともに飾られているという。
それが「幸せを呼ぶ石」だと、子どもたちの間で噂されていることは、レイの耳にはまだ届いていない──
やがて時が流れ、ユゥリは成長し、町で一番のパン屋を継ぐことになる。
それでもフェアリーダストのことを忘れることはなかった。
朝一番に焼いたパンを届けに、
少女は笑顔と一緒に、毎日のように森を訪れるようになるのだが──
それは、また別のお話。