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第3話~3月、アクアマリン~

その日、フェアリーダストの扉が開いたのは、昼下がりの穏やかな時間だった。


早春の光はまだ淡く、けれど確かに、冬の気配を後ろへ追いやりながら森に降り注いでいた。

三月の風は冷たさをわずかに残しつつも、頬を撫でる感触には、どこか草花の芽吹きを感じさせる優しさがあった。


エルフの森を抜けてきたその風が、小道の若草や、まだ柔らかな苔をふわりと揺らす。

風が運んでくるのは、森の湿った土と新芽の青さ、そして遠くで咲き始めた花の香り。

木々の枝先では、小さなつぼみが朝露を含みながら、光の粒を抱いていた。


店の中にも、そのやわらかな気配はそっと入り込んでくる。

光は木枠の窓からゆるやかに射しこみ、棚の上に並ぶ石たちを照らして、反射する光が床に淡い虹を描いていた。

薄い金色の光の筋に誘われるように、宝石の妖精たちが羽虫の舞に合わせて、くるくると楽しげに旋回する。


静かで、騒がしさひとつない時間──けれどそこには、たしかな命の営みがあった。


「こんにちは……」


そっと開かれた扉の隙間から、一陣の風が吹き込んだ。

それとともに現れたのは、深い海のような青髪を三つ編みにして束ねた若い娘だった。陽の光に濡れたその髪は、潮を含んだようなわずかな光沢を帯びている。

彼女は一歩、また一歩と慎重に足を踏み入れ、店内の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


おずおずと店内を見渡しながら、並べられた宝石たちをひとつひとつ、まるで物語を読み解くように興味深そうに眺めている。

その視線には戸惑いと期待が同居していた。緊張の混ざる手元は、長い旅路を物語るかのように少しかさつき、指の節々には薄く塩の痕が残る。


袖口のほつれた旅着は、日に焼けて少し褪せた色合いをしていたが、繕われた跡からは丁寧に着られてきたことが伺える。

ふわりと漂ってくるのは、潮風の残り香。海辺の町に特有の、木材と魚の混ざった温かい匂いが、ほのかに衣の端から滲み出ている。

それに混ざる埃と草の匂いは、彼女が幾日もの旅路を歩いてきた証だった。


フェアリーダストは内陸の、それも山の奥深く──エルフの古い里の近くにひっそりと構える小さな宝石店。

峠を三つ越えなければたどり着けないこの店に、潮の香りを纏って訪れる者は少ない。

彼女がここに辿り着くまでに費やした時間と想いが、ただその姿だけで静かに語られていた。


「いらっしゃい。……ずいぶん遠くから来たんだね」


レイは手元のポットから、紅茶を一杯注ぎ、笑みと共に差し出す。

湯気が立ち上るカップからは、ハーブとベリーをブレンドした優しい香りが漂い、旅人の身体にじんわりと沁みていく。


娘──ミーナと名乗った──は小さく礼をして、両手で紅茶を受け取り、胸に抱えた小包をそっとカウンターに置いた。


「……この石を、ジュエリーにしたくて。

 ここは、素敵なお仕立てをしてくれると……街の方々に教えていただいたので、伺いました」


声は控えめながら、芯のある響きがあった。

彼女が差し出した小さな布包みを開くと、その中には一粒のアクアマリンのルースが、薄い布に大切に包まれていた。


まるで朝の浅瀬に降りた光──

透明度の高いその石は、淡く揺れる青と緑を閉じ込めたかのようで、ほんの少し角度を変えるだけで、陽射しを吸い込んではまた零すように、きらりと輝いた。


レイの指先が布越しにそっと石へ触れる。

その瞬間、店内にいた宝石の妖精たちが、ぴたりと動きを止め、棚の影からじっとその石を見つめた。

──何か、特別な“記憶”を宿している。そんな気配が、空気にうっすらと溶け込んでいく。


レイはカウンターの引き出しから、古びた銀のルーペを取り出した。

それは長年の使用を物語る細かな擦り傷に覆われていたが、丁寧に磨かれたレンズには一点の曇りもない。

彼はゆっくりと顔を寄せ、そっとアクアマリンのルースを覗き込む。


小さな石の奥、淡い青と緑が溶け合い、光を透かすたびに海の浅瀬のような波紋が広がる。

微細なインクルージョンすらも愛おしげに眺めながら、レイは静かに息を吐いた。


「……綺麗な石だ。これはアクアマリン、だね。透明度も高い。……どこで手に入れたの?」


淡々とした語り口ではあったが、そこには確かに、石の過去に寄り添うような柔らかさがあった。


ミーナは少し唇を噛み、目を伏せる。

宝石に反射した光がその頬に揺れ、小さな影を落とした。


「……恋人の、遺品です。──でも」


その一言に、レイはわずかに視線を上げたが、顔色は変えず、石をそっと布の上に戻した。

棚の影に身を潜めていた宝石の妖精たちも、はばかるように羽音を静め、空気がふっと張りつめる。


「彼は航海士でした。……三年前、東の群島に向かう航海に出たまま、嵐に巻き込まれて行方不明になって。  船も見つからなかったし、誰も“もう生きていない”と言いますけど……私は、どうしてもそう思えなくて」


その声は凪のように静かだったが、奥には波立つような痛みが隠れていた。

語るうちに、ミーナの指先が小さく震えていることにレイは気づく。

けれど、彼は口を挟まず、ただ黙ってその揺れを見守った。


やがてミーナは、胸元に手を伸ばす。

革紐に通されたペンダントをゆっくりと外し、両の掌で包み込むようにして差し出した。


そこには、長年身に着けていたことがすぐにわかるアクアマリンがひと粒、くすんだ銀の枠の中で静かに揺れていた。

潮風にさらされ、触れられ続けてきた石は角がわずかに丸みを帯び、光沢は鈍っていたが、それでも、先ほどのルースと呼応するような気配を放っていた。

大きさも色合いも、まるで兄弟のように寄り添っている。


「出航の前日──彼はこの石を私に託してくれました。  『もし帰れなくなったら、形を変えてお前に残せるように』って、冗談みたいに笑いながら……」


言葉を継ぎながら、ミーナの目が潤む。

けれど涙はこぼさず、喉奥にこみ上げる想いを堪えるように深く息を吐いた。


「……でも、こうしてずっと手元にあると、嬉しい反面、時々どうしようもなく苦しくなるんです。

 だから、ちゃんと形を変えて、前に進みたいって、思うようになって……」


レイは頷いた。

その頷きには、長い時を見守る者のような、静かな共感があった。


しばし思案するように二つの石を見つめていたレイは、やがて立ち上がる。

店の奥、施錠された棚へ向かい、鍵をひとつ選び取って静かに回した。

開かれた扉の奥から、薄絹に包まれた小さな桐箱をそっと持ち出し、カウンターに戻る。


箱の蓋を開けた瞬間──柔らかな光がふわりと漏れ出た。

そこには、ひときわ澄んだアクアマリンがひと粒、青のしずくのように静かに横たわっていた。

その透明感は、まるで雲ひとつない春の空をそのまま閉じ込めたようで、微かに冷たい気配さえ感じられる。


「……この石には、“離れていても心をつなぐ”力があると言われている。

 君の石と共鳴するように、この子を合わせてみよう。

 そうすればきっと、祈りに似た願いを込められるはずだから」


ミーナの目が、そっと細められる。

それは、安堵とも決意ともつかない、ひとしずくの感情だった。


「……お願いします。どうか、この想いが届きますように」


そして、ほんの少し声を落として言葉を添える。


「……死んだなんて、まだ思えないんです。

 あの人、“どんなに嵐が荒れても、海は俺を嫌いにならない”って笑ってたから……」


その言葉に、レイの手がふと止まる。

小さく息を吸い、静かに目を閉じた。


「……いい言葉だね。じゃあ、その信じる気持ちに応えられるよう、心を込めて作るよ」


その言葉に、妖精たちもそっと舞い降り、棚の陰から現れてカウンターの上に並ぶ。

空気がふわりと震え、小さな羽音が宝石たちの間にやさしく響きわたった。


それから数週間、フェアリーダストの店奥には、ひたすらに穏やかな時間が流れていた。

外では季節がゆっくりと進み、森の木々が日に日に淡い芽吹きをその枝先に宿してゆく。

午後の光は柔らかく、開け放たれた小窓から差し込む陽が、棚の水晶や翡翠に淡く反射して、床に微かな光の筋を描いていた。


レイは、昼も夜も黙々と作業台に向かっていた。

ランプの炎は小さく揺れ、作業台の上に琥珀色の温もりを落とす。

周囲には、磨かれた銀の道具が静かに並び、まるで楽器のように光を宿している。


その中央に置かれていたのは、ミーナが持ち込んだ、少しくすんだアクアマリン。

長年の海風に晒され、小さな傷と曇りを纏ったその石は──

それでもどこか、かすかな光を内側に灯していた。


ルーペ越しにその奥をのぞき込みながら、レイは静かに息を吐く。

手に取った研磨棒が、そっと石の表面を撫でると、キュッ、キュッ……と布越しの優しい音が店内に微かに響いた。


削るのではない。削ぎ落とすのでもない。

ただ、石が記憶している“時間”を、そっと撫でて、整えてゆく。


時折、妖精たちが羽音もなく舞い降り、石の上に一瞬とまっては、また舞い上がる。

レイの動きと、石の呼吸に合わせるように、その羽のきらめきが微かに揺れる。


──夜になると、作業はさらに慎重さを増した。


外の森からフクロウの鳴き声が遠く響くなか、レイは机に両手を添え、目を閉じる。

掌から、細い魔力の糸が、くすんだアクアマリンへとゆっくりと送り込まれてゆく。


石がわずかに震える。

微細な魔力が表層を滑り、内部へと染みていく。


空気が、ほんの少しだけ──湿るような、密度を増すような感覚になる。

店の空間が、まるで水中に沈むかのように、静かに、静かに沈降してゆく。


チリ……チリ……と、小さく石が鳴る。

それは、魔力が石の記憶に触れ、過去の“想い”を呼び起こす音。


 潮風の記憶。

 甲板で交わした言葉。

 あたたかな笑い声。

 夜明け前の約束──。


レイは息を殺し、その全てを乱さぬよう、慎重に魔力を織り込んでいく。


「……いい子だね」


思わず漏れた呟きに、肩にとまった妖精が、そっと頬に触れる。

その小さな羽が、まるで石に寄り添う者たちの祈りのように、静かに揺れた。


完成した指輪は、波のような滑らかな曲線を持った銀の細工に、澄んだアクアマリンがひと粒。

春の海の雫をそのまま指先に閉じ込めたように、どこかやわらかく揺れている。


ネックレスには、長い年月を共に過ごしたくすんだアクアマリンと、澄んだ石が二粒寄り添うように並び、一本の銀鎖に結ばれていた。

互いに反響し合うように、石の奥からほのかに光が揺れ、まるで心音のように淡く脈打っている。


──どちらも、呼び合うように。


それは、物質ではなく、「祈り」が形になった宝飾だった。


「……できた」


そう小さく呟いたレイの掌の中で、ふたつの宝石がわずかに、共鳴するように光を放つ。

その光は、ランプの灯とも、窓から差す自然光とも異なる──

それは、想いの色だった。



数週間後。


レイから「仕上がりました」との手紙を受け取ったミーナは、小さな背嚢を背負い、再び山道をたどってきた。

長旅の疲れは隠せないが、頬にはほんのりと紅が差している。

開店と同時にフェアリーダストの扉をそっと開いたとき、店内にはまだ朝の香りが残っていた。

それは木の匂いと、ほんの微かに香る紅茶、そして──まだ目覚めたばかりの妖精の羽の風。


「いらっしゃい」


レイの声は静かで、しかしあたたかかった。

ミーナは深く頭を下げたあと、少しおずおずとカウンターの前に立った。


「……あの、受け取りに来ました。あれを……」


椅子に腰かけるよう促されたミーナは、緊張を隠せないまま手を組み、胸元で指先を揃える。

どこか不安げで、それでいて、何か大切なものに触れる直前のような、淡い期待がその表情に浮かんでいた。


やがてレイは、奥の細工棚から、布張りの小箱をひとつ手に取り、慎重にカウンターへと置いた。

手のひらほどのその箱には、妖精の紋章が金糸で縫い込まれている。

蓋を開けると、朝の光を受けたアクアマリンが、そっとその姿をあらわした。


光を受けた瞬間、

淡い青と、深い青が、同時にきらめいた。


指輪には、澄みきったアクアマリンがひと粒、波のような曲線の銀の枠に抱かれて輝いている。

ネックレスには、寄り添うように並んだふた粒のアクアマリン。

一つはくすみを磨かれた、旅の記憶を宿す石。もう一つは、共鳴の魔力を込められた清冽な石。

どちらも、互いを呼び合うように、静かに微かな光の粒を放っていた。


ミーナは、壊れ物を扱うようにそっと両手で箱を受け取り、宝石たちをじっと見つめる。


「これは……」


小さく呟いた声に、レイはゆっくりと説明を添えた。


「お互いを“呼び合う”よう、細工してあるよ。

わずかな魔力だけど、もし彼がこの石の想いに気づけたなら……いつか、また会えるかもしれない」


沈黙がひとつ、間を流れる。

ミーナは唇をきゅっと噛みしめたが、すぐに顔を上げて、微笑んだ。


「──ありがとうございます。

この指輪たちを見るたび、ちゃんと信じていられる気がします」


その瞳には、確かな涙があったが、それは哀しみのものではなく、ようやく一歩を踏み出した人の、それだった。


レイは柔らかく微笑み、妖精たちが肩先から舞い降りるのを眺めながら言葉を続けた。


「アクアマリンには、“信じる者に勇気を与える”とも言われてる。

……想いはきっと、海の向こうにも届くよ」


 


ミーナが店を出たのは、ちょうど日が高くなりはじめたころだった。

木の扉を押して一歩外に出た瞬間、ふわりと春風が舞った。

風はミーナの三つ編みを揺らし、旅着の裾をそっとはためかせる。


空は、澄んだ青。

まるで海をそのまま空に映したかのような、深く静かな蒼が広がっている。


胸元のネックレスが、その光を受けて、かすかにきらめいた。

ミーナはそっとそれに触れ、もう一度、小さく微笑んだ。


 


店内では、レイが窓辺に立ち、その小さな背中を見送っていた。


視線を少し落とせば、木の棚の上にはひとつの珊瑚の飾り──

青く、繊細な枝をした、名もなき遺品。


「……君なら、どう言っただろうね。ノア」


ぽつりと呟いた声に、妖精たちがそっと肩へ舞い降り、音もなく羽をたたむ。


レイは微かに目を細めた。

朝の光が棚の宝石を照らし、床に小さな虹を描いている。

それはまるで、静かに、確かに、今日という日を祝福しているかのようだった。



──そして、春が過ぎ、夏が巡り、

森の葉がゆっくりと色づき始めるころ。


朝露を抱いた木々の葉は、ひとしきり陽を浴びて、ほんのりと金色を帯びていた。

フェアリーダストの前を歩く旅人たちの荷に、秋の果実と、潮の香りが混ざっている。


その日、レイは窓を拭いていた。

高くなった空を映すガラス越しに、柔らかな陽光が差し込み、店内の棚に並ぶ宝石たちに、ゆらりと七色の光を踊らせている。


扉の前に、ひとりの旅人が立ち止まった。

古びた外套の肩には枯葉が一枚、くっついたままだ。

旅の埃を払いながら、誰にともなくぽつりと呟くように言った。


「……港の方でな、何年ぶりかに帰ってきた船乗りがいるらしい。

 嵐に巻き込まれて行方不明だったのが、ようやく戻ってきたって。

 恋人が、ずっと指輪をして待ってたんだとよ。まるで、伝説の話みたいだ」


声が風に乗って、扉越しに店の中へ、ふと届いた。


レイはその手を止め、そっと目を伏せた。

長いまつ毛の影に、微かな笑みが浮かぶ。


胸の奥で、あの淡い海の色が──静かに、揺れた気がした。


思わず、指先を胸元へと添える。


窓の外、海を思わせる秋空が広がっていた。

風が木々の間を抜け、赤と金の葉をさらさらと揺らし、店先の風鈴が、小さく澄んだ音を立てる。


──ふたつの石が、遠くで呼び合うように。


ミーナの胸元のアクアマリンと、彼がもたらした指輪。

それが確かに“巡り逢い”を果たしたのだとしたら。


それとも、どこか別の誰かの願いが、奇跡を起こしただけなのかもしれない。


……けれど、真実は、もう確かめる必要もなかった。


ただ一つ言えるのは──

あのジュエリーに、確かな祈りが宿っていたということ。


磨かれた銀の枠に、想いの結晶が包まれたとき、

それはただの装飾ではなく、奇跡の種になるのだと。


レイはもう一度、窓越しに空を仰いだ。

青く澄んだその空は、どこか懐かしい海の色にも似ていた。


「……きっと、届いたんだね。ミーナ」


つぶやくように呟いて、微笑む。

肩に降りてきた妖精たちが、やわらかに羽を鳴らした。



──その続きは、

宝石と誰かの想いが出逢うときの…また別のお話。

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