第2話~2月、アメシスト~
霧の濃い朝だった。
エルフの森の入り口に広がる緑のトンネルには、まだ夜露が残り、葉のひとつひとつが陽光を待ちわびるようにしっとりと濡れていた。
まだ春には遠い2月の半ば。
朝の空気は冷たく、息をすればひやりと肺に染み渡る。
森の中にぽつんと現れる石造りの店「フェアリーダスト」
色とりどりのルースが並ぶ店の窓には、水滴が宝石のように光っている。
扉の上には木彫りの看板。
文字の下には、妖精を模した銀の飾りが踊っていた。
そんな店の前で、ひとりの若者が立ち止まっていた。
旅装のコートはところどころ擦れており、膝の革当てもくたびれている。
肩から提げた布袋は古く、使い古された剣の柄が背から少し覗いていた。
青年の名はカイ。
強い眼差しの中に、何かを堪えるような陰があった。
彼は躊躇するように扉に手をかけ、小さく息をついてから入ってきた。
カランカラン、と扉の鈴が鳴る。
店の中は、外の湿った空気とは打って変わって、柔らかく乾いた空気に満ちていた。
天井や壁にかけられたランプがほのかに灯る店内には、小さなルースや彫金されたジュエリーがずらりと並び、まるで静かな宝石の森のよう。
ガラスの棚の奥で、小さな妖精たちがきらきらと羽を震わせ、訪れた客人の姿を興味深げに覗いている。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から現れたのは、銀髪の中性的な人物──レイ・エルディアスだった。
淡い青の光を帯びた銀髪が、ランプの灯りを受けてきらりと光る。
深く澄んだエメラルドのような瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
カイは目深く被っていたフードをとり、少し頭を下げると、革袋を胸元からそっと取り出した。
「……この指輪を、見てほしいんです」
革袋の中から取り出されたのは、古びた銀の指輪だった。
中央には紫がかったアメシストが嵌められていたが、その表面には亀裂が走り、端には細かな欠けもあった。
長い間、大切に使われていたことが一目でわかる。
レイは指輪をそっと受け取り、ルーペを目元に当てる。
息を止めるようにして見入った後、静かに問いかけた。
「……これは、どなたのもの?」
「……俺の、剣の師匠の遺品です」
カイの声は、かすかに震えていた。
「最後の戦の前夜……一緒に酒を飲んだあと、くれたんです。“おまえが次を継げ”って。
そして……戻らなかった。俺が駆けつけたときには、もう……」
言葉はそこまでだった。
拳を握る音が、店内の静寂に重く響いた。
レイは指輪をそっと布の上に置き、静かに頷いた。
「とても、大切なものなんですね」
「はい。……修理できますか?」
その瞳は、強く、真っ直ぐだった。
誰かを偲ぶためでなくその意思を継ぐために、この指輪を“再び”身につけようとしているのだ。
レイはしばらく指輪を見つめていたが、やがて口元をほころばせた。
「難しい注文だけど……引き受けましょう。けれど、ちょっと手を借りたいな。今日、ちょうど“あの方”が来る予定なんだ」
「“あの方”?」
そのとき──
「レイ坊!開けとけっつったじゃろが!重いんだこの扉は!」
低く響くようなドワーフ訛りの声と共に、扉が勢いよく開いた。
小柄だが岩のようにごつい体格の老ドワーフが、大きな革袋を背負って入ってくる。
顔には幾本もの深い皺、だがその奥の目は、鋭く、曇りなき職人の目だった。
「やあ、ドラ爺」
レイが柔らかく呼びかけると、老ドワーフはどっかりとカウンターの前に座り込み、背中の荷をどさりと下ろした。
袋の口がほどけ、磨き上げられた宝石の詰まった小箱が覗く。
「まったく、最近の扉ってのはどこも軽すぎる。手ごたえがない。扉はな、もっと“ぎいぃぃ”とか“がたんっ”と鳴るべきだろう。おまえさんの店くらい重くあるべきだ」
「褒めたいのか文句なのか分からないよ、ドラ爺。手伝わなくたって1人で開けられるくせに─」
レイがくすりと笑いながらティーカップを差し出すと、ドラ爺、本名バルドランはふんと鼻を鳴らして受け取った。
そして、カウンターの端に置かれていた布の上の指輪を見つけると、眉をぴくりと動かした。
「……こりゃあ」
分厚い指でそっと持ち上げ、ルーペなど使わずに肉眼でじっと覗き込む。
レイが説明しかけるより早く、ドラ爺は静かに口を開いた。
「懐かしいじゃあないか、このカット……。アメシストの“微妙な紫”を活かすために、敢えて中心を少しずらして削ったんじゃ。細工が甘くなるが、光の入りがやさしくなる。……これは、ワシが削ったやつじゃよ。十五年以上前だったか…?」
カイが目を見開く。
「それって、もしかして……師匠がここで買った……?」
バルドランは、うむ、と頷いた。
「そのときの客は、寡黙な男だった。
“人を斬る剣に似合う石がほしい”
とだけ言うてな。滲み出る強さが見て分かるのに、まるで目立とうとしない、不思議な男だった」
カイの唇が、かすかに震える。
──やはり、あの人の想いは、本物だった。
指輪に、石に、誰にも見せぬ優しさを込めていたのだ。
「その石が割れたんだな?」
バルドランが言う。
カイはゆっくりと頷いた。
「戦場で、最後に渡されたときは無傷だったんです。でも……何度もつけて、剣の鍔にぶつけたり、荷に紛れたり……今朝、ふと見たら、亀裂が入っていて…」
バルドランは深くうなり、レイに目を向けた。
「素材はアメシストでも、これは上質なリオネア渓谷産。硬度はあるが衝撃には弱い。割れた面が深いな……どうする?」
レイは静かに答えた。
「接着や充填では、本来の光を取り戻せない。……だけど、“もうひとつのアメシスト”を内側に重ねて、芯を持たせれば──」
「──あの技か。やる気じゃのう、坊」
老ドワーフの口元が、にやりと持ち上がる。
「よかろう。ならワシの石を使え。見ろ、この粒ぞろいのアメシスト、どれも誇りを持って削ったもんじゃ!」
そう言って、革袋の中から小さな木箱を取り出し、カチリと蓋を開けた。
中には、さまざまな紫の輝きを持つルースが並んでいる。
透き通るような薄紫、濃く熟れた葡萄のような色合い……そのどれもが、一流の職人の手によって生まれた“命”だった。
レイがその中からひとつを選び、カイの前にそっと差し出す。
「これは“夜明けのアメシスト”と呼ばれる色調。薄くて柔らかくて、でも芯がある。……君の師が好んだ紫に、近い」
カイはそれを見つめ、そっと頷いた。
目尻に滲むものを、彼は袖でぬぐいながら。
「お願いします。……この指輪を、あの人の遺志にふさわしい形に……」
バルドランが頷く。
レイもまた、静かに頷いた。
そしてそのとき、小さな妖精たちが棚の奥からひょこりと顔を出し、わらわらと飛び出してきた。
宝石の“想い”に反応するのは、彼らの習性だった。
<<なんだなんだ、今日は泣ける展開か?>>
<<しっ、レイの本気仕事が始まるわよ!>>
ぴいぴいと鳴きながら、きらきらと舞い踊る小さな光の精たち。
それを背に、レイとバルドランは、磨き台へと並んで立った。
日が西へ傾きかけた頃、レイはカイに温かなハーブティーを手渡した。
旅で乾いた喉を潤しながら、カイはそっと微笑む。
「あの、宿……近くにあるんでしょうか?」
「あぁ、この森のすぐ手前に“小鹿亭”って宿があるよ。ちょっとお節介な管理人がいるけど、夕食がとても美味しいんだ」
「……じゃあ、そこで一泊します。できるだけ早く戻ってきますから」
彼は礼を言い、傷付いた指輪をレイに託すと、静かに店を後にした。
扉が閉まる。
店内には再び静けさが戻った。
だがその空気は、どこか張り詰めている。
まるでこの小さな石造りの店そのものが、深呼吸をしたかのようだった。
「さて……」
レイはカウンターの奥に指輪を持ち、磨き台の前に立った。
ドラ爺─バルドランも、道具箱をすでに広げている。
年代物のやすりやルーペ、細かい刻印槌、細工バーナー……すべて、年季と使い込まれた味がにじむ。
「思ったより深い割れだな…」
レイがルーペを覗き込みながら呟いた。
「うむ。表面を磨くだけじゃ、線が残る。充填するにしても、芯にひずみが出てしまうだろう」
「でも、“あの子”の意思を継ぐなら、偽りのない仕上がりがいい」
「当然じゃ。中途半端な直しは、石にとっちゃ屈辱じゃからな」
二人はうなずき合い、作業に取りかかった。
まずは破損したアメシストの石座を慎重に外す。
銀の指輪枠に食い込んだ爪を、微細なピンセットで一つずつ丁寧に起こすと、石がわずかに揺れた。
レイの細い指先が、傷ついた石をそっと摘まみ上げる。
淡い紫の宝石には、ひときわ深く、鋭い“亀裂”が入っていた。
その裂け目は、まるで内側から泣き声が漏れてきそうなほどに哀しげだ。
「……これは、師匠の叫びそのものかもね」
レイの言葉に、バルドランは黙って頷き、手元の“夜明け色のアメシスト”を取り出した。
次の工程は、芯入れの調整。
本来一つの石として扱うべきアメシストを、芯石と表石の二層構造にして一体化させる。
見かけは一つでも、内と外が“支え合っている”構造だ。
レイが回転式の研磨盤に向かう。
繊細な手付きで、夜明けのアメシストの底面を少しずつ削り、もとの石と“噛み合う”ように角度を調整していく。
回転盤が静かに唸る。
粉のように舞う紫の光が、ランプの灯りに照らされて空中に揺れる。
「もう少し……ほんのひと削り……」
レイの額にはうっすらと汗がにじみ、瞳には削り出した光の粒が映り込んでいた。
彼は、石の“声”に耳を澄ませていた。
一方で、バルドランは削り終えた芯石の裏に、ごく細い金属の線を溶接していく。
それは、石を物理的に支えるためではなく、“意思”をつなぐための“縁の留め具”だった。
「……あの男が遺したもの。ちゃんと支えてやらんとな」
と、老ドワーフはぼそりと呟いた。
「うん。今度は、割れないように」
レイの声もまた、芯から深かった。
やがて、夜は更けていく。
店の灯りは、深い紫に染まりながら、石の呼吸を見守っていた。
妖精たちは静かに空を舞いながら、祈るように、店主と職人の肩にそっと降りてくる。
そして、夜明け前──。
「……できた」
レイは新しいアメシストの指輪を、そっと掌に乗せた。
傷跡は、もうどこにもない。
けれど、その光には──師と弟子、ふたりの魂が静かに宿っていた。
朝霧が森を包んでいた。
小鳥たちの囀りとともに、白い光がゆっくりと枝葉をくぐり抜け、石畳にまだらな影を落としていく。
フェアリーダストの扉には、淡く金色の文字で「Open」の札が下がったばかり。
レイが外の看板に花を挿そうと扉を開けたとき──
「……おはようございます!」
霧の向こうから、ぱたぱたと駆けてくる足音。
現れたのは、昨晩の若者・カイだった。
昨日よりわずかに整った髪と、宿で借りたのか洗いざらしのシャツ。
だがその胸元には、空の革袋が大事そうに抱かれていた。
カイは、はぁはぁと息を切らしながら頭を下げた。
「す、すみません……どうしても早く来たくて。眠れなかったんです」
「ふふ、そんな気がしてたよ」
レイは微笑み、店の中へと彼を招いた。
店内はまだ朝の光の中にあり、石棚の宝石たちは静かな輝きを保ったまま、まるで“眠りから目覚めたばかり”のようだった。
カウンターの奥には、朝の柔らかな光に照らされて、一つの指輪が置かれていた。
銀の台座は繊細に磨かれ、中央に収まったアメシストは──
夜明けの空と葡萄酒を溶かし込んだような紫を湛えていた。
「……これ、は」
カイが小さく息を呑む。
石の中に、うっすらと“筋”が走っている。
けれどそれはもはや傷ではなかった。
まるで紫の炎が内側から灯ったような、神秘的な煌めき。
「芯にもうひとつの石を仕込み、古い枠と抱き合わせるように再構成したんだ。光の向きによっては、師匠の使っていたときと同じ色合いにもなる」
レイの説明に、カイは何も言わず、ただ指輪を見つめていた。
両手で大切に受け取り、胸にぎゅっと抱きしめる。
そのとき──
「まだだ」
渋い声とともに、奥の作業場からバルドランが現れた。
ひげにススのついた前掛け姿で、だがその手には小さな革箱があった。
「おまえの師匠は“言葉”を口にするのが苦手な奴だったが……あの指輪の内側には、ちゃんと彫ってあったぞ。消えかけてたが、わしが読み取った」
そう言って箱を開け、中から取り出した薄い銀板を見せた。
そこには極めて細く──だがはっきりと、文字が刻まれていた。
『最後の夜明けに、盃を掲げよ』
「これは……」
カイの目が見開かれる。
「師匠と初めて剣を交えた夜……酒場でこの言葉を言われたんです。いつか“最後の朝”が来るなら、その前夜に、俺と酒を飲んでくれって……」
言葉に詰まり、下を向くカイ。
その肩に、バルドランが不器用な手つきでぽんと手を置いた。
「よく刻んでおいた。台座の内側──おまえしか見えん場所にだ。……そいつは“継ぐ者”にだけ見える約束の言葉じゃ」
カイは、静かに頷いた。
そして改めて、レイに深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。師匠と俺の想いを、こんなに丁寧に繋いでくれて」
「石が導いてくれたんだよ。私たちは、それに耳を澄ませただけさ」
朝日が高くなっていく。
店の窓から射し込んだ光が、アメシストの指輪を淡く照らす。
紫の中に浮かぶ“夜明け”の色が、静かに燃えていた。
──そしてカイは、再び旅路へと歩き出す。
だがその指には、もう一人分の心が宿っていた。
レイは扉の前で、その背を最後まで見送ると、肩に止まった妖精へとそっと微笑んだ。
「さて、次はどの石が物語を待っているかな?」
小さな光が、くすくすと笑って宙を舞う。
フェアリーダストの朝は、今日も美しく、穏やかだった。
それから幾月かが流れた。
旅人たちのあいだで、ときおり語られる噂がある。
──北方の峠を越えた街に、凄腕の傭兵が現れたと。
しなやかな剣筋と無駄のない動き。無口で礼儀正しく、だが、仲間を守る時は命を惜しまない。
その男の右手には、いつも紫にきらめく指輪があったという。
銀色の台座に、透明な深紫──
まるで、夜空に浮かぶ星のような石。
誰もその由来を知らない。
本人も多くを語らない。
けれど、ある宿の老婆は言った。
その男が酒を勧められるたび、静かに断っていたこと。
指輪に触れ、そっと目を伏せる瞬間があったこと。
──まるで、誰かとの“誓い”を思い出すように。
アメシストは“節制”と“誠実”を象徴する石。
かつて師から託された記憶は、いまも彼の指先で静かに輝いている。
それが護符なのか、約束の証なのか──
それとも、ただの想い出の欠片なのかは、誰にもわからない。
ただ一つ、確かなのは──
どこかの街で、誰かが噂するたびに、
その紫の光は、夜の闇に美しく浮かび上がるということ。
──その剣士が、本当にレイの店フェアリーダストを訪れた“あの青年”だったのかどうか。
……それは、また別のお話。