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最終話~ミスリル~

エルフの森と人里の境に建つ、小さな宝飾店──フェアリーダスト。

苔むした石造りの外壁に、蔦がゆるやかに這い、扉の上には手彫りの看板が揺れている。


まだ開店して数ヶ月。

煌めくジュエリーの数々と、妖精たちの気まぐれな手伝い、

そして質の良い裸石(ルース)を売りにしてはいるものの、なにぶんまだまだ新参者。

加えて場所も街からは離れているため、客足はまばらだった。

昼を過ぎると、街道を行き交う旅人すら姿を見せず、森の風と、かすれたベルの音だけが店に届いていた。


──そんな、陽の傾きかけた午後。


西の窓から差し込む光が、研磨途中のルビーを照らしていた。

棚の奥では小さなフェアリーたちが羽を休め、温かい空気にまどろんでいる。

店内には、火を落とした炉の名残の熱と、乾いた木の香りがかすかに漂っていた。


「……静かだ」


ぽつりと呟いた声は、あまりに微かで、誰にも届かない。

カウンター席に腰を下ろしたレイ・エルディアスは、頬杖をついたまま、遠くを見ていた。

そのエメラルドの瞳に映るのは、今この空間にいない、たった一人の人影。


数週間前、ノアが長期の交易へと旅立った。

「すぐ戻るさ」と笑って肩を叩いたその温もりが、まだ指先に残っている。


──彼がいないと、世界の音が少し鈍る。


いつもなら飛び交っているはずのフェアリーの羽音も、今はどこか控えめだった。

音も色も、ほんの少し薄れて感じられる。

レイは、手慰みに棚の下から革表紙の帳簿を取り出す。

店の始まりからの出納が記されたそれは、今や彼の日記のようなものでもあった。

かすれたインクの跡を、指先でなぞる。

どの数字も、どの備考欄も、ノアと過ごした日々の記録だった。


「……この仕入れ……いつのだっけ…」


呟きながらめくったそのページの端に、ひときわ目を引く文字があった。


──『ミスリル。原石。銀青色、純度良し』


思わず、ページをめくる手が止まった。


「──ミスリル…?」


ミスリル鉱石。

かつて、魔族との大戦時代に多くの武具へと使われた伝説の金属。金属の中では白金や金を超えて、もっとも高い価値と希少性を持つ。

 美しく、軽く、そして魔力の通りが良い──けれど、今では高純度の鉱石など滅多に見つからない。

純ミスリル地金自体も、現在は減ってしまっていた。

武具に使われた場合、他の金属と混ぜられてしまうことも多いからだ。



けれど、確かに記されていた。

『北の廃鉱山跡にて、微量採掘──精錬未済』

──そう、あの日。ふたりが初めて出会った、あの落盤寸前の廃鉱。

そして、胸の奥に、遠い記憶の扉がそっと開き始めた。




あの日──それは、まだ互いの名も知らぬ頃のこと。


冷たい風が吹き込む、北方の山中。

雪解け水が岩肌を伝い、凍った鉱石を湿らせる。

レイは、一人、調査目的で閉山された旧鉱へと足を踏み入れていた。


坑道の入り口はすでに崩れかけ、錆びた警告札が辛うじて縄に揺れていた。

だが、わずかに漂う金属の匂いと、空気の密度──この奥にまだ、何か“眠っている”気配があった。


足元に気を配りながら、レイはゆっくりと進んでいく。

苔の生えた壁。ひび割れた支柱。薄明かりの中、時折、鉱脈の名残がかすかに光を反射した。


……そのときだった。カラン、と何か転がった音。


「……誰か、いますか?」


静寂を破る声は、吸い込まれるように坑道に消えた。

返事はない──が、かすかな唸り声。押し殺した息遣いのような、弱々しい気配が耳を打った。


「……!」


レイは躊躇わず、音のする方へ駆け寄った。

崩れかけた坑道の一角。岩と梁が折り重なる中、瓦礫の隙間から、微かに人の腕がのぞいていた。


彼は静かに息を整え、魔力で周囲を安定させながら、土砂を払い始めた。

やがて、その下から現れたのは──


泥と砂にまみれ、ぐったりと横たわる、ひとりの青年。


癖のある灰青の髪が、額にかかっていた。

泥に塗れてはいたが、その顔立ちはどこか無邪気な少年のようで、しかも──


「……助かった。すまない。ありがとう。…君は、エルフか…?すごく綺麗だな。天使かと思った」


声は掠れていたが、笑っていた。

それは、死地から救われたばかりとは思えないほど、軽やかで明るい笑みだった。

レイは一瞬、戸惑ったようにまばたきをしたが──すぐにため息をついて言う。


「……はあ。よく言われます」

「俺はノア。ノア・マイルス。商人だ。……よろしくな」


言葉の最後で、ノアは打ち身のある身体を無理やり起こそうとして、また倒れ込んだ。

その拍子に、背に括りつけられていた革の袋がずれて開き、いくつかの道具と共に、何かが布に包まれて転がり出た。


レイが手に取ったそれは──


冷たく、青白く輝く、不純物の少ない鉱石。


「……これは…!?」


淡く銀を帯びたその石は、幻想種の目でも、滅多に見かけることのない希少鉱──


ミスリルの原石だった。


「よかった…。無くしてなかった……へへ、俺が掘ったんだよ。崩れる前に……な。いてて…」


その声は、かすれていて、けれど誇らしげだった。


レイは再び、ノアの顔を見た。

傷と泥に塗れた、けれど確かに生きているその青年を──


そのとき、何かが胸の奥に、ひっそりと沈んだ。


──まるで運命のように。

この出会いが、ただの偶然ではないと、どこかで感じていた。





「……そういえば、あれは、どうしたんだっけ……」


独り言のように呟きながら、レイは立ち上がる。

店の奥、ノアが仕事に使っている部屋──ふたりの私室とは別にある、小さな工房へと向かっていった。


扉を開けると、乾いた金属の匂いと、薄く残る香辛料のようなオイルの香りが、かすかに鼻腔をくすぐった。

主の居ない空間は、陽の光が差し込むこともなく、どこか時の流れから取り残されたようだった。


レイの視線が、部屋の片隅──木目の細工机に吸い寄せられる。


しばらく動かされていなかったその机は、天板に微かな埃をまとっていたが、引き出しの縁は、指の形に擦れた跡が残っていた。

レイはそっとしゃがみ込み、滅多に開けることのなかったその引き出しに手をかける。

小さな抵抗のあと、引き出しは音もなく開いた。

いくつかあった引き出しの中をがさごそと物色していく。工具、走り書き、書類…先日ノアが無くしたと嘆いていた原石のままの宝石も出てくる。

整頓されていないわけではないが、レイはこの際だから、と片付けながら目的のものを探す。

最後に開けた引き出しの奥。

布で丁寧に包まれた、掌ほどの箱。

淡いラベンダー色の封蝋が、まだその蓋を固く閉じている。

──ノアの封だった。


「…?」


出し忘れの商品だろうか。

指先で、そっとその封を割る。

パリ、と音を立てて蝋が砕けたとき、開けてはいけなかったか?と今さら僅かに焦りを感じながらも静かに蓋を開く。


中には──白銀の指輪が、ひとつ。


けれど、それはただの銀ではなかった。

月光を凝縮したかのような青白い光を帯び、空気すら凛と澄ませるような冷たさと透明感があった。


──ミスリルだ。


精錬されたミスリル──

ノアがあの廃鉱で見つけた原石が、ここに、こうして姿を変えていたのだ。


「……ノア……」


思わず漏れる声は、空気に溶けていく。

リングの表面には、飾り気ひとつなかった。

余計な細工も、宝石も、煌びやかさもない。

ただただ、清廉なその光だけが、すべてを物語っていた。


レイは、指先でそっとリングをひっくり返す。

内側──そこには、ごく小さく、けれど深く刻まれた文字。



<For El. (エルへ)>



呼吸が止まった。


胸の奥で、何かが静かに軋んだ。

心に差す光が、まるでこの金属と同じように冷たく、そして優しかった。

──いつから、準備していたのだろう。

どれほどの年月をかけて、この形にしたのか。

 希少な素材を精錬するには、熟練の鍛造と繊細な手作業が要る。

 それをひとりで、何も言わず、ただ“贈るために”磨いていたのだとしたら──


以前、ノアが言っていた言葉が甦る。


「永く残るものを、贈りたいんだ」

「誰に?」

「言葉じゃなくて、触れて、残るもの。そういうのが、いいな」

「だから誰に」

「エル以外に誰がいるんだよ」


そのときは、笑いながら流してしまった。

だけど──本気だったんだ。最初から。


レイの手が、かすかに震える。


箱の中で、リングがそっと揺れた。

その静かな輝きが、まるで今でも語りかけてくるようだった。


“お前と、未来を”


声がないのに、言葉が聞こえる気がした。

そして、レイはそっと、ミスリルの指輪を胸元に抱き寄せた。




「あっ……! それ、開けちゃったのか!?」


不意に背後からかけられた声に、レイの肩がびくりと跳ねる。

胸元に抱えていた小箱を取り落としそうになりながら、慌てて振り向くと、


──そこには、旅装を解かぬままのノアがいた。


本当に今しがた帰ってきたばかりの灰青の髪は風に吹かれたままで、肩に掛けた鞄からは道中の埃がまだ香っていた。

けれど何より、その顔に浮かぶのは──困ったような、それでも愛しさの滲む笑みだった。


「……ノア……! 勝手に開けてしまって……ご、ごめん…あと、

……お帰りなさい」


レイは咄嗟に口をついて出た謝罪とともに、手にした小箱をぎこちなく差し出した。

だがノアは首を横に振りながら、肩の力を抜いて笑った。


「いいよ。それ、帰ったら渡すつもりだったから」


そう言って、ノアはレイの手から静かに箱を受け取り、中のミスリルの指輪を取り出す。

その白金よりも冷たく、月光のように青白い光を宿した指輪を、両の手の中で確かめるように一瞬見つめ──


そして、そっとレイの左手を取った。


「順番、少し間違えたけど──これは、“共に生きよう”っていう指輪だ」


彼の声は、思いのほか静かだった。

だからこそ、胸に深く染みた。

浮ついた言葉も演出もない。ただ真っ直ぐに、心から届く声だった。


「……プロポーズ…じゃないか…なんて言えばいいんだ」


 ノアは指輪を手にしながら、どこか気まずそうに笑った。


「男同士だし、結婚とかそういう形はないけど……もう、細かいことはいいや」


 言葉がぐだつきながらも、想いだけは真っ直ぐで。


「……俺と一緒にいてくれ、エル。これからも」


その瞬間、空気が凪いだように感じた。


外では風が梢を揺らしていたが、その音すら遠く。

世界の中心に、今ここにいるこの二人だけが取り残されたようだった。


レイの視線は、中指に光るミスリルの指輪に落ちる。

そこに、飾りも派手さもない。けれど──これ以上の意味を持つものなど、どこにもなかった。


(……ああ、そうか)


胸の奥がふわりと熱くなる。


ずっと、答えは決まっていた。

言葉にするより前から、ずっと。

互いの時間を少しずつ分け合い、積み重ね、今ここに至ったのだ。


レイは何も言わず、ただ静かに──ノアの手を、ぎゅっと握り返した。


それだけで十分だった。


言葉では伝えきれないものを、指先の温もりに込めて。

今ではまだ認められない関係かもしれない。

だけど、誰に知られなくとも──自分はこの人と共に在ると、そう心から思えた。


ノアはそれを受け止めるように、優しく微笑み、もう一度、レイの指に嵌まる指輪を親指でなぞった。


それは、何者にも侵せない、小さな誓いの光。


──ふたりだけの、永遠だった。






──それから、長い歳月が流れた。


ふたりは共に旅をし、季節を越え、店は次第に顧客も増え、安定した収入を得られるようになってきた。


日常のなかで、ささやかな喧嘩も、涙の夜もあった。だが目覚めれば、いつも隣には彼がいた。

温かな朝の光のように、ノアの笑顔は日々を照らしていた。


けれど、“彼の時間”には限りがあった。

エルフであるレイの寿命に比べ、人の身はあまりにも儚い。


ある春の終わり、緑がいっそう濃くなってきた頃だった。

いつものように、レイとノアは庭先で並んでいた。


陽の光が、若草を照らす。

風に揺れる薬草の香りが、やわらかく鼻をくすぐった。


ノアは木椅子に腰を下ろし、息をつく。

レイが剪定していた草花に手を伸ばそうとして、ふと動きを止めた。


「……ん、肩がちょっと痛むな」


笑いながらそう言ったノアの手は、かすかに震えていた。

節々が硬くなり、かつて手早く動かしていた指先も、いまはゆっくりとしか動かない。


その隣で、レイはまるで時に触れられないままだった。

髪の艶も、瞳の輝きも、出会った日のまま。


「ノア。無理はしないで」

「してないさ。……お前が気にかけすぎだよ」


くすりと笑ったノアは、額のしわを隠そうともしない。

だがレイは──笑いながらも、その変化をすべて覚えていた。


少しずつ薄くなっていく髪。

背中の丸み。

細くなった腕。

目の下のくすみ。

夜に肩を寄せ合えば、脈の打ち方が変わってきたことに気づく。

指を重ねれば、血のめぐりの遅さを感じる。


けれど。


それでも。


「なあ、エル」

「……ん?」

「俺、歳を取ったと思うかい?」


レイは、少し考えて──言った。


「……姿は、そうかもしれない。けれど、変わらないこともある」

「たとえば?」

「朝、最初に笑うときの顔。

私の指を握る力の加減。

眠る前に、私の名前を呼ぶ声」


ノアは少し黙って──ふっと、目を細めて笑った。


「……やっぱり、お前はずるいな」

「君がそういう問いをするからだ」


風がそよぎ、庭の白い花が音もなく揺れる。


──歳を取ること。変わらないこと。

どちらも、愛を深くする。


ふたりの時間は、目に見える分だけでは測れなかった。






ある日、雨が降っていた。

淡く、静かに。木の葉を叩く細い音が、窓の向こうから聞こえる。

今日はもう、庭には出られそうになかった。


寝室の窓際には、ふたり分の椅子と、小さなテーブルが置かれている。

けれど、今はもう、ノアがそこに座ることはほとんどなくなっていた。


ベッドに横たわるノアの胸は、静かに上下していた。

すっかり白く薄くなった髪は、枕の上にふわりと広がり、細くなった手が毛布の上に乗っている。


レイは、その手に自分の指をそっと重ねた。


「……眠ってる?」


返事はない。けれど、ノアの唇がかすかに動く。


「……いや、起きてるよ。声、聞きたかった」


細い声だった。

喉も、もう長く喋ることには向かなくなっている。


「エル、雨の音がするね……」

「うん。今日のはやさしい音だ」


ノアは、ゆっくりと目を開ける。

かつては海のように澄んでいたその瞳は、今は少し曇って、でも、優しさは変わらない。


「……あの庭の花、咲いてる?」

「咲いてるよ。それに君が植えたミントは、今年もちゃんと芽を出した」

「……よかった。来年も、咲くといいな……」


レイは、一瞬だけ視線を落とす。

その「来年」が、ふたりで迎えられるものではないと、どちらも気づいていた。


けれど、それでも──

レイは、微笑んだ。


「咲くよ。きっと。……だから、約束。

来年も、君に“咲いてるよ”って話す。耳を澄ませてて、ノア」


ノアの唇が、ふわりとほころんだ。


「……ずるいな、エル。……やっぱり、お前はずっと綺麗だ」


レイは、ノアの髪を指で梳く。

その髪が、指にするりと落ちていくたび、愛しさがこぼれ落ちそうになる。


「……君が見てくれる限り、私は綺麗でいるよ。

君のレイで、あり続けたい」


そう言ってレイは、もう眠りに入りかけていたノアの手を、そっと握り直した。

それは、毎夜繰り返される、静かで変わらぬ祈りのような所作だった。







そして──その日が訪れた。


陽が傾き、窓から差し込む光が部屋を金色に染めるころ、

ノアは静かにベッドに横たわり、レイの手を握っていた。


彼の髪は白く、声はかすれていた。

呼吸は今までになくゆっくりで、消え入りそうだ。

だが、その青い瞳は変わらなかった。

若き日と同じままに、深く、穏やかで、ただレイを見つめていた。


レイは震える声で言った。


「……ノア。私、不老を捨てる。薬も術もある。

……もう、君と一緒に行く、一緒に…」


その瞳に、涙が浮かんでいた。

長命種としての時間を、たったひとりの人間のために手放す覚悟を告げたその声は、どこまでも真剣だった。


だが──ノアは、首を横に振った。


「……だめだよ…エル。お前には、生きていてほしい」


その声はかすれていたが、まっすぐだった。


「生きてくれ。俺の代わりに、俺が出会えなかったものを、たくさん、見てくれ。

 作れなかったものを、たくさん、たくさん、作ってくれ」

「……でも……」

「お前が生きている限り、俺はお前の中で生きてる」


そう言って、ノアは微笑んだ。

まるで、朝靄のなかで咲く一輪の花のように。

静かに、気高く、美しかった。


レイの頬を涙が伝い落ちる。

指先が、微かに震えていた。


「ノア……ありがとう。……君がいたから、私は、毎日本当に楽しくて…輝いていた…」

「それは、こっちの台詞だよ。楽しかった。ありがとう、エル…。

……レイ・エルディアス…綺麗な人…俺の…天使……───」


ノアは、穏やかに目を閉じた。

その手は、レイの指を最後まで離さなかった。

──その笑みは、最期まで変わらなかった。


レイはその傍らに膝をつき、名を呼びつづけた。


けれど涙は、もう流れなかった。

それは、涙で流しきれるような別れではなかったから。

ふたりの人生は、それほど深く、長く、結び合っていたのだ。

沈黙のなかで、ただひとつ──

レイの左手に光る指輪が、柔らかく、青白く、確かに輝いていた。


ミスリル。

かつてふたりが出会い、手にした、奇跡の鉱石。

内側に刻まれた「For El.」の文字は、いまもなお消えずにそこにあった。

それは誓いの証であり、ふたりの時間そのもの。


窓の外、季節はまた巡ってゆく。

空をわたる風がカーテンを揺らし、どこかで鐘の音が静かに響いていた。


レイは目を閉じた。

そしてその静寂のなか、そっと囁いた。


「……お休み、ノア・マイルス…私の、ノア…」


ミスリルの指輪が、いつまでも、全てを見つめ続けるように、光り続けていた。

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