二章 恋歌
私は、忠国のお城で働く下女。名を泉嘉という。
生まれは、朱清国なのだが、朱清王がご病気になってからというもの、治安は悪化し、民が働ける場所が無くなってしまったため、一番大きな国である忠国に出稼ぎに来ている。朱清では、母と弟の二人が住んでいて、私は毎月の収入を送っている。
私たちが、城の廊下を水拭きしていると、忠王陛下の弟君である梓伯様がお通りになった。
「きゃ、梓伯様よぉ〜!」
同じ下女達が、騒ぎたてる。梓伯様は、城の婦女子達にとても人気がある、絵に描いたような美男子だ。
梓伯様は、あまり人前で話しをしたことがないため、お声を聞いたことがある女性は少ない。
「梓伯様は、お相手はいらっしゃるのかしら?」
「さあね。女性の話は聞いたことはないけど、期待するだけ無駄無駄!私らなんか、相手にしないって。」
「そうそう、今までにも何人か梓伯様に告白した子を知っているけど、皆その日のうちに無言で辞めて行っちゃったのよ。フラれたのは明らかじゃない。」
中には、やはり心ときめかせ、接近を試みた女性が数多くいる。だが、誰一人として、梓伯様とうまくいったという話は、聞いたことがない。
でも、大抵の良い男と言う者は、必ず女性がつきもので、いないと言ったことは滅多に聞かない。ましてや、側室何百人以上を抱え込んでいる忠王陛下の弟君なのだから、いないわけがない。ということで、私にとっての梓伯様は、目の保養をするための観賞用とあいなる。滅多にお目にかかれない美男子を、見るくらいはタダだ。
「きゃあっ!こちらを見てらっしゃるわ!」
それを聞いて、私も手を止めて思わず見てしまう。すると、視線が合い…。
『…えっ、もしかして…。』
「私の方を見てるわ!」
私は、その言葉を聞いてドキリとする。
横には、私の親友の朱李がいた。朱李は、下女の中でも一番美人だ。目をつけられてもおかしくない。
私は、頭を小突いて苦笑する。
『いやだ、私ったら。何バカな勘違いしてるんだろう!』
朱李は、顔を赤らめて、梓伯様がお姿を消すまでずっと見ていた。
「ど、どうしよう、泉嘉!もしも、梓伯様が私を…きゃあ〜!」
「あなたなら、あり得るんじゃない?」
私がそう言うと、朱李は目を輝かせる。
「そ、そうかしら〜!」
朱李は、満更でもなさそうだ。
※
「ちょっと、井戸の水使ってもいいか?」
思いがけない人からの声に、私は仕事の手を止めた。突然、食堂に梓伯様がやってきたのだ。
「は、はい、どうぞ。」
「ありがとう。後、なんか拭く物なんかある?」
私は、待ってくださいと、周りを見渡す。だが、ここにあるものと言ったら、雑巾ぐらいで、とても渡すことができなかった。
「す、すみません。手頃な布が見当たらなくて…。」
「なら、いいや。悪かったな。」
手を上げて、食堂を出て行こうとする梓伯様を、何故か私は無意識に止めてしまう。
「あ、あの。どうなさったのですか?」
梓伯様は、私を見て、ああ、と腕を見せる。
「稽古をしていて、ちょっと怪我しただけだ。」
見せた腕は、明らかにパカリと傷口が開いていた。わたしは、それを見て思わず、いや、と声を出す。
「少しなんかじゃありませんよ!早く手当てしないと…!」
私は、傷口を見て頭が真っ白になり、目に止まった酒瓶を手に取る。
「少し染みますけど、我慢してください!」
「お、おう。」
梓伯様は、戸惑いながらも腕を出していた。私は、顔を歪ませて、そのミルに堪えない傷口に酒をかけた。
「っ…!」
梓伯様は、痛さで顔を強張らせた。
「やっ、あ、ご、ごめんなさい!」
私は、誰に対してこんなことをしてしまったのか自覚し、謝る。
「と、とにかく、これで傷口を…!」
私は、自分の服の裾を破り、梓伯様の傷口に当てた。何をやっているんだろうと、思わず恥ずかしくなり、梓伯様の顔を見れなかった。
「…あんたって。」
「えっ?」
私は、梓伯様が言葉を発しただけで、硬直してしまう。
「容赦しねぇな。」
「え?」
マジマジと見てくる、梓伯様に、私は顔を赤くする。その場に居るのが、精一杯だった。
「俺の傷口に、酒をかけたのは、あんたで二人目だ。」
「そ、そうなんですか…?」
梓伯様は、苦笑いしながら笑みを向けたが、私は真正面から見る勇気などなかった。見たら、絶対失神してしまう。とは言っても、せっかくの笑顔を見逃さない手はなかった。
「助かった。ありがとうな!」
梓伯様は、手を上げて食堂を出て行った。私は、いえ、と小さな声で言い、姿が見えなくなるまで見ていた。心の中では、夢ではなかったのかと思っていた。こんな、おいしいことがあるはずがないと、私は頬を叩く。すると、近くで見ていた食堂の主が、腰を抜かしていることに気づく。
「お、お前!忠王陛下の弟君に、酒をかけるなど、普通なら、恐れ多くて出来ないぞ!」
言われて、冷や汗と恥ずかしさが困惑して、体が熱くなって、顔を赤くする。
「そ、そうですね。ハハハ…。」
とは言っても、今の出来事を見ていた証人が居るということは、やはり、夢ではなかったと、一日浮かれた気分になっていた。身近で顔を見られたことはなかったし、声を聞いたことがなかったため、思わず連想してしまう。あの時のドキドキ感が、今でも何故か心地良い。
「…思っていたより、少し高めの声だったなぁ。」
私は、バカなほど能天気に嬉しくなり、仕事が手につかない私を見て、周りの下女仲間は、ついにおかしくなったのかと引いていた。
この出来事が、私の運命を左右しようとは、思ってもみなかった。
あの出来事から、あっという間に半月が経とうとしていた。今となっては、本当についていたことだったと思っているが、もうそんなおいしいこともないだろうと思っていた。
だが、そんなおいしいことが、また起きてしまったのである。
「この間は、ありがとうな。あんたの応急処置のおかげで、医者に怒鳴られなくてすんだ。」
私が、洗濯物をしていると、梓伯様が私の前に現れたのだ。それを見て、周りの下女たちが、きゃあきゃあ言っている。
「い、いいえ。その後、傷はどうですか?」
「だいぶ良くなった。傷口も、もう完璧に塞がっているし。」
梓伯様は、調子良く腕をまわす。私は、良かったですね、と笑う。
「あ、あの時は、思わず傷口にお酒をかけてしまって、本当に申し訳ありませんでした!すごく、滲みましたよね?」
「うん、ちょっとな。」
なぜか、お互いにあははは、と苦笑いする。梓伯様は、頭をかいて、遠慮深そうに話しはじめる。
「あー、あの、さ。あんた、名前は…?」
「え?」
私は、ボケーッとしていると、隣にいた朱李が私の前に立つ。
「梓伯様!私、朱李と言います。まさか、あんたと顔見知りだったなんて。それなら、そう教えてよぉ!」
朱李は、私を小突く。だが、梓伯様はずっとこっちを見ていて、朱李の方を向いていなかった。
「…あ、あの。泉嘉、と申します。」
私が名前を告げると、梓伯様は笑顔になる。
「そ、そうか。泉嘉、か。」
思わず、私は顔を赤くする。
それを見て、朱李が私と梓伯様を交互に見る。
「あぁ。実は、頼みたいことがあるんだけど…。」
私は、なんでしょう、と首を傾げる。
「実は…。」
梓伯様に連れて行かれたのは、梓伯様のお部屋だった。始めは、なんだろうとドキドキしていたが、その部屋にいるモノを見て、一気に緊張はどこかへいってしまった。
「可愛い!お城で、子猫を見られるなんて…!」
私は、布の中で寝そべる子猫を抱く。
梓伯様は、明日から面倒を見てほしいと言ってきた。
「怪我したその日に、医者帰りの道端でこいつを拾ったんだ。とってもじゃねぇが、俺の顔見知りに見せたら、ガラじゃねぇって笑われるし、頼みずらかったんだ。だからと言って、こいつを、ほっとけないし…。最終的に、なんだか泉嘉の顔を思い出したんだ。」
「え?」
私は、思わずドキッとしてしまう。こんな私の顔を覚えていてかれたのかと、少し嬉しくなる。
「分かりました。ちゃんと、お世話させていただきます。」
「頼む!特別に、泉嘉の場内での出入りは許可しておいたから、なんか聞かれたら、俺の紋章の印を見せてくれ。」
そう言い、梓伯様は腰にぶら下げておく印の飾りを私に渡す。私は、それを受け取る。
「俺と泉嘉と、門番しか知らないことだから、内緒に頼む!」
「はい、かしこまりました。」
私は、また一つ得をしてしまったと思った。明るい気分で仕事場に戻ると、朱李が引きつった笑いをして待っていた。
「朱李、どうしたの?」
「泉嘉って、梓伯様と仲がよろしいの?」
私は、え、と両手を振る。
「そ、そんなんじゃないよ!梓伯様が、怪我をされて食堂にいらした時に、たまたま私がいて、傷の手当てをしてさしあげたというだけよ。それ以降は、一度もお会いしたことなんてないわ。」
「じゃあ、今梓伯様とどこへ行っていたの?」
それは、死んでも言えなかった。内緒だと言われたから。
「ど、どうしたの朱李?すごく怖い顔してる。それに、梓伯様は手当てをした時のお礼を言われただけよ。私なんかと梓伯様をそういう風に見てしまうのは、梓伯様に対して失礼じゃない?」
私の言葉に、朱李はいつもの優しい顔に戻る。
「そ、そうね。私達は、単なる下女だものね。ごめんなさい!」
朱李は、顔を赤らめてその場を去って行った。
「朱李ったら、私に嫉妬したのね。」
私は、可愛い子ね、と笑った。
朱李は、とても梓伯様がお好きで、街で売っている梓伯様の似顔絵を何種類も買っては、大事にしまっている。似顔絵師の描く似顔絵は、様々な将軍や王たちのモノまで何種類もあって、どれもよく似ている。街で一番人気なのは、やはり梓伯様の似顔絵で、街中の女の子が買いあさりに行くらしい。私は、買ったことはないのだが、朱李が朝一に買いに行っては、私に自慢げに見せてくれるのだ。その時の笑顔と言ったら、とても可愛いらしいのだ。
私は、これで自分の無実を晴らせたと思った。だが、他の女性たちが黙っているわけがなかった。
「あんた。近頃、梓伯様と良い仲なんだって?」
「え?」
「馴れ馴れしいにもほどがあるんじゃないの?」
綺麗な着物で着飾った女官たちが、私の前に立ちはだかった。
私は、一刻も早く手に持った雑巾を洗いに行き、次の仕事にとりかからなくてはいけなかったが、どうもそうはさせてくれないようだった。
「あのー。私なんかは単なる下女で、とてもじゃありませんが、そんな目で見るのは失礼では…。」
「だったら、身の程をわきまえてくれないと、こっちも迷惑なのよ!」
ああ言えばこういう。女の団体というものは、いつ見ても嫌なもので、私は途方にくれた。
「あんたは、どんなに着飾ったって、この雑巾のようなものなんだから、さっさと諦めなさい!」
一人の女官が、私の手にしていた雑巾を顔にぶつけてきた。それを見て、その他大勢の女官たちが高らかに笑った。
「やぁだ汚い!服が汚れちゃうわ。」
「よく嗅いだら、この子、獣臭いわよ!」
また、一人の女官が私の傍で匂いを嗅ぎ、鼻を押さえる。
「くさっ!匂いが移ると嫌だから、早く行きましょ!」
やっと開放された私は、一つため息をついた。心の中では、煮えたぎるほどの思いがしたが、考えている暇などなかったので、足早に井戸へと向かった。
全ての雑巾を洗い終えるのに、昼を過ぎていた。いつものように、誰かが残りの物を隅においてくれておいてくれると思っていたが、全ての食器が片付けられていた。
「あれ、私の食べ物は?」
友人たちに尋ねるが、皆素っ気ない返事を返してきた。
「遅くなる方が悪いじゃない。」
「どこで道草くってたか知らないけど、洗う方も大変なのよ。」
そんな言い方ないんじゃ、と思ったが、やはりここでも嫉妬女が溢れているのだと諦めた。
「泉嘉、ごめんなさい!私が、皆に説明したんだけど、こんなことになっちゃって…。」
朱李は、皆が食堂を出て行った後に、すまなそうに話しかけた。
「仕方ないよ。皆、梓伯様のことがお好きだから、話しをかけられた私が憎いんだわ。それに、一食ぐらい減らしたって、どうってことないよ!」
ご飯にありつけないのは辛いが、いいダイエットとでも思っていたのだが、ここから徐々に皆の態度が一変していった。食事も、度々減らされたり、無かったり、梓伯様のお部屋に行く私を見ては、邪魔をしてくる女官も何人もいた。
※
お腹がすきすぎた私は、井戸の水を飲んで我慢していた。すると、門の前に馬が一頭、門番に手綱を引かれて待っていた。
こんな朝早くに、誰が出かけるのかと思って見ていると、門の前へ布を羽織った一人の男性が現れた。
「あっ。」
私は、その人物を見て、声をかける。
「おはようございます。」
すると、梓伯様が、こちらを振り向く。
「おはよう、泉嘉。今日から、城を離れるから、世話を頼むな。」
「はい。いつのお帰りですか?」
梓伯様は、うーんと頭をかく。
「実は、いつになるか分からないんだ。出かけるのも、急のことだから。」
「分かりました。」
すると、梓伯様はしばらく私の顔をジッと見て言う。
「じゃあな。」
梓伯様は、足早に門を出て行った。この時、まるでこれきりお別れみたいな言い方をされたので、思わず首を傾げる。
朝食の支度を終え、私は自分の食べ残しを持ち、いつものように梓伯様の部屋へ向かった。
門番の人と言葉を交わす。
「おはようございます、合仔さん。」
「おはよう、泉嘉。今日も、大変だな。ん?なんか、この頃痩せてきてないか?」
「そ、そんなことないですよ。」
私は、ギクリとする。
「ご飯ですよぉ。」
私は、布の中でアクビをしている子猫を起こした。そして、ご飯の匂いを嗅ぐと、急いで食べる。
「にゃ〜!」
嬉しそうに鳴く子猫を見て、笑顔が出る。
「可愛い〜!」
頭を撫でてやると、スリスリしてくる。
私は、梓伯様の部屋をじっくりと見ていた。意外と殺風景で、ほとんど寝ること意外に使っている痕跡はない。家具もそれほどなく、綺麗なものだった。この部屋に入った下女は、私だけだろうなと、頬杖をしながら見渡す。
「贅沢すぎるな、私は。」
そう思いながらも、今の余韻に浸ろうと子猫の頭を撫でる。
梓伯様がお出かけになってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。相変わらず女官たちは、イジメ三昧だが、下女たちは今までと大差なくなっていた。というのも、女官たちが私の悪口を言うなり、下女を侮辱したので、一斉に対象が女官へと移っていたのだ。
「腹が立つわ、あの女官共!」
「泉嘉、こうなったら、梓伯様をモノにするのよ!」
それを聞いて、私は苦笑いする。
「梓伯様は、今はお城においでではないわよ?」
「え、そうなの?」
気が抜けたようで、下女たちのイジメは終息していった。おかげで、ストレスが少しだけなくなっていた。だが、いきなり態度を豹変させたのは、朱李である。
朱李は、私が何度も梓伯様の部屋へ入って行くところを見ているようだった。何度も、声をかけて聞き出そうとするが、梓伯様の命令なので、事情を話すわけにはいかなかった。
そして、下女たちに私のことを言いふらして嫌がらせをしていた張本人だった。これまでに築いていた親友関係も悪化し、日夜嫉妬の目を向けるようになった。
子猫の世話が日課になってから、ある日のこと。門番の合仔さんが、私の姿を見て驚く。
「泉嘉?お前、今日は風邪をひいたから、他の下女に猫の世話を頼んだんじゃ!?」
「わ、私、誰にも頼んでませんし、子猫のことも話していません!」
「なんだって!?」
私と合仔さんは、青ざめて梓伯様のお部屋に向かう。近づくと、子猫がキュイン!っと鳴く声が聞こえてくる。
私たちは、急いで扉を開け放った。
「なっ…!」
私と合仔さんは、言葉を失う。
朱李が、梓伯様の服を片っ端から開け広げ、服を身にまとっていたのである。
そして、その手には首を絞められた子猫がぐったりしていた。
「な、なんてことを…!」
私は、子猫を彼女から奪い返した。胸に抱いた子猫は、ぐったりとして虫の息だ。
「…だって、噛みついてきたから…!」
彼女は、震えながら目に涙をためる。
「泣いて済むことじゃないだろ!お前がやったことは…!」
合仔さんは怒鳴る。だが、私はそれを制した。
「そんなことより、この子を助けないと!」
私の声に、合仔さんは振り返る。
「あ、ああ!」
合仔さんは、急に私の抱いていた子猫を地面に寝かすと、心臓を押し始め、何回か押すと口に息を吹き込んだ。私は、何事かと目を見開く。
「な、なにをやっているの!?」
「昔、医術を学んだことがある。猫にきくかは分からないが、試してみるさ!」
数分間、合仔さんが必死に子猫の心臓を押した。私は、必死でそれを見ている。と、子猫は突然目を見開き、両手をバタつかせた。
私たちは、一つ安堵する。
「よ、良かった…!」
「どうやら、成功したようだな。」
合仔さんは、汗をかく。私は、泣きながら子猫を抱いた。すると、微弱ながら顔を舐めてくる。
だが、まだ全てが片付いたわけではなかった。私たちは、震えてなにも言えなくなった朱李の方を向く。
「…朱李。」
「お前がやったことは、高貴な方の私物に、許可なく触れただけでなく、不法侵入したことにもなる!それに、危うく飼ってらした猫も殺すところだったんだぞ!!」
私は、なんともいたたまれない気持ちになる。彼女の気持ちを分かっていながら、彼女を理解しようと思ってもみなかった自分に腹が立つ。
「…あんたが…、あんたが悪いのよ!皆が知らないことを良いことに、梓伯様の部屋へ出入りしているから!あんたは、毎日ここへ来て、梓伯様の人となりを見てきたのでしょう?目をかけられて、とても優越感に浸っていたんでしょ?どれくらい、私よりも梓伯様の笑顔を見てきたの!?どれくらい、私よりも彼の匂いを嗅いできたの!?全て、自分のものにして満足!?私から、彼を奪って満足なんでしょ!?ねえ、なんとか言ったらどうなの!!」
嫉妬するのも当たり前だと、私は梓伯様の服を身にまとった彼女を見て実感した。
朱李は、梓伯様を愛してしまったのだろう。それも、深く心から。普段大人しかった彼女が、ここまで想っていたのかと思うと、切なくなる。
私は、自分の行動が浅はかだったと反省する。
「わ、私は…。」
どう言ったらいいのか、言葉に詰まる。
「梓伯様が、お前に頼まなかったのは、この人があんたみたいなことをしないと思ったからだ!」
合仔さんは、横で私を庇ってくれた。私は、合仔さんに止めさせようと思ったが、合仔さんは私の肩に両手を置き、言葉を遮った。
「梓伯様も、女を見る目ぐらいはある。どんなに化粧した美人の女でも、頼れる人物でなくては声をかけないさ!」
合仔さんの言葉に、朱李は苦笑する。
「そうかしら。この子だって、梓伯様に声をかけていただいて、馬鹿みたいに嬉しがっていたわ!私みたいに、この部屋へ来ては同じことをしてたんじゃないの?」
私は、違う、と叫びたかったが、合仔さんが手を置いているだけで、不思議と声を発することができなかった。
「生憎、この人は数分も経たないうちに出てくる。部屋のモノに手をかけてる時間などないよ。」
「っ…!何、この子を庇ってんのよ!あんたも、この子に気があるの?」
合仔さんは、一つため息をつく。
「今の自分の顔を、よく見るんだな。今のあんたは、嫉妬という心に支配された鬼だ。とても、恐ろしい顔をしているぞ。」
合仔さんの言葉に、朱李は言葉を無くす。彼女は、部屋を飛び出すと、庭にあった池の水面で、自分の顔を見て絶句する。
「っや。ぃやっ、いやあぁあ〜!」
途端に、その場に泣き崩れる。
私は、彼女の嘆きに心が痛んだ。合仔さんは、泣き崩れる朱李を連れて行こうとした。だが、私は合仔さんに許しを請うのだった。
「待ってください!この子、両親がいなくて、妹や弟を養っていかないといけないんです。どうか、この件に関して、内密にしていただけませんか?」
「しかし、彼女は梓伯様のモノに手を出した。許されることではない!」
「で、でも、この子猫に関しては、私とあなたしか知らされていないことで、どうしてこんなことになったのか、話さなくてはいけなくなるでしょ?そうしたら、梓伯様もお困りになるわ!」
私の言葉に、合仔さんは頭を抱える。
「しかし、彼女を許すわけには…。それに、これは俺の責任でもあるから。」
「私が、責任を全て持ちます!」
合仔さんは、私の決意に耳を傾け、内密にすることを約束した。朱李は、ありがとうと、私に泣いてすがるのだった。
※
梓伯様がお帰りになったのは、それから二週間後だった。しかも、瀕死の状態でご帰還なさっていたのだった。皆、心配していたが、どうも忠国の軍師とならせられるお方を、殷国から救出しようとして、ついにその願いも叶わなかったという。忠王様は、戦のため、城にはいらっしゃらなかったため、私たちも羽を広げていた最中だった。急いで門の前へ行くと、人が大勢集まっており、血だらけの梓伯様が運ばれていた最中だった。
梓伯様の手当ては、三日にも及んだ。名医が四人で付き添って、必死に看病をしていた。
私は、さすがにお部屋を訪れるわけにはいかず、合仔さんに子猫の餌を手渡して頼んだ。
殷国滅亡の知らせは、とても早かった。忠国の軍が出て行ってから、たった二ヶ月のことだった。不思議なことで、血だらけの兵士は一人もいなかった。忠王陛下のお顔も、その時にお見えになったのだが、とても落胆なされた表情をしてらした。
私は、不思議なことに、梓伯様とはまったくお顔が違うなと、そんなことを考えていた。
それから、梓伯様は大分傷が癒え、座れる程度にまでおなりになっていた。驚異の回復力だと、医師たちが絶句していたらしい。私は、梓伯様がお帰りになったことだし、子猫の世話も、もういいだろうと思っていた。今日が、最後だろうと、私は餌を持ちながら梓伯様のお部屋を訪れた。
「失礼いたします。」
「お、おう。」
遠慮がちに扉を開けると、梓伯様は寝床から飛び起きる。
「ど、どうぞ、横になっていてください。私は、子猫の世話に来ただけですから。」
梓伯様は、寝床に座り、私と猫の方を見ている。体中の包帯が痛々しい。
「…どうなんですか、お加減のほうは?」
「もう、ほとんど傷も塞がってきた。一人で歩ける程度には回復してるよ。」
「そう、ですか。」
私は、ホッとする。
梓伯様は、私の手元にいた子猫を見て笑う。
「もう、こんなにでっかくなりやがったのか。」
「そうですね。もう、子猫とは呼べませんね。こんなにスクスク育っちゃって。」
「この部屋に置くのも、狭いかもな。」
私は、梓伯様の顔を見ずに、そうですね、と受け答えした。
しばらく経つと、梓伯様が一つ声を下げて、私に傍へ来るように言った。私は、ビクリとする。そして、恐る恐る傍へと行った。
「泉嘉。お前に、聞きたいことがある。この服、確かタンスに閉まっておいたはずなんだけど、裾のところに、女の口紅がついていたんだ。」
そう言って、服を見せる。私は、明らかに、朱李の物だと思い、身体が強張る。責任は、私が全て背負うと言った。その言葉を、裏切るわけにはいかない。
「も、申し訳ございません…!」
私は、床に頭をぶつけて許しを待った。
梓伯様は、無言のまま何も言わない。私には、これ以上何も言うことができなかった。梓伯様は、一つため息を吐く。
「俺は、あんたを信用した。」
「申し訳ございません!」
「この程度で、罰することはしないが…。」
「申し訳ございません!」
「こいつの面倒を、ちゃんと見てくれていたし…。」
私は、必死に言葉を繰り返した。すみません、申し訳ございません。それ以上に、思い当たる言葉はなかった。ただ、梓伯様に嫌われてしまうことは、心に決めていた。こんな馬鹿女に頼んでしまったのかと、落胆の色が大きいだろう。
「…正直に、言う気はないんだな?」
「…。」
「…わかった。今まで、世話を見てくれて助かった。もう、いいから。」
最後の言葉に、私は胸が痛くなった。もはや、顔を上げることすらできない。梓伯様が、どんな落胆の顔で見られているのだろうと、思うだけで切なかった。
私は、一礼して部屋を出ていく。今更ながら、こんなに梓伯様に嫌われることが苦しいとは、思ってもみなかった。そして、自分も朱李と同じように、恋心を抱いていたのだということに気がついた。
初めての恋に気がつき、初めての失恋を味わった。
数日後。私は、そこで働くことが辛いばかりで、一向に仕事が身に入らなかったため、あえなく出ていくことに決めた。
「…出て行くのか。」
親しくなった、合仔さんに挨拶をした。
「何も、出ていくことはないだろう?責任は、俺にもあるし…。」
「罰を与えられなかっただけ良かったです。それに、そろそろ母と弟が心配なので、実家に帰ろうかとかねがね考えていたんです。」
「そうか。あんたの家は、どこなんだ?」
「朱清国の、蘇華です。」
合仔さんは、それを聞いて一つ考えていた。私は、なんだろう、と首を傾げる。
「あの殺風景な廃墟に住んでいたのか?」
「え、ええ。」
答えながら、確かに蘇華は何もないところだが、田舎町というだけで、廃墟だなんて、と首を捻った。
「何度も言うようだが、もう一度考え直さないか?俺にも責任はあるんだし。」
「いいえ。それに、これは自分で決めたことですから。」
私は、無理矢理笑顔を見せた。
「…そうか。頑張るんだぞ。」
「はい。」
合仔さんは、私に手を振ってくれた。働き口は、また考えれば良い。嫌な思いを断ち切り、新たな一歩を踏み出そうと考えた。
だが、そこで待っていたのは、衝撃的な光景だった。合仔さんが言っていた意味が、今になって理解できたのである。
村は、ほとんどもぬけの殻で、いくつかあった家など、見る形もないほど腐敗していた。
私は、自分の家のある村外れの家へと走り、家の一部を目にすると、走らずにはいられなかった。息をきらしながら、家の中を見渡し、誰も居ないことに不安を抱いた。
「…一体、どこへ…!?」
入り口でボーッと立っていると、村のおじさんが恐る恐る近づいてきた。
「…野盗に襲われて、皆死んじまったよ。もう、半年も前のことだ。」
「…え?」
おじさんは、家の庭を指さす。そこには、二つの墓が作られていた。
私は、力なくその場に座り込んだ。
「…そんな…。」
私は、完全に行き場を無くしたのだった。墓の前で、私は泣き崩れた。もはや、働く理由がなくなった以上、何もできないと、日夜そこを動くことができなかった。
母に話したいことは一杯あった。弟にあげたいものも一杯あった。でも、その矛先がなくなり、どうしたらいいのか分からなかった。
※
私は、途方もなく歩き、倒れているところを旅芸人の一行に拾われたのだった。目的が無くなった以上、いっそ死んでしまおうかとさえ思ったが、何故かあの方の顔が思い浮かんで、それが出来なかった。今更、未練を残してどうするのだろうと自分に言い聞かせていた。
座長を始め、皆とても良い人たちで、その暖かみが私を支えてくれた。私は、そこの雑用をして、国という国を旅した。それぞれの国が、皆特徴を持ち、見知らぬ土地のことをいっぱい知った。私にとって、一座の皆が私の支えとなっていた。
「泉嘉、もうすぐ着くよ。」
私に、優しく声をかけてくれる座長は、まるで母のようだった。
旅をして、一年が経とうとしていたある日。座長が、忠国に行くと言った。
私は、ドキリとしたが、下っ端の私に決める権利などなかった。幸い、雑用のため、顔見知りにも会うことはないだろうと思っていたのだが、座長はこの時に限って、私に舞台へ出るように勧めたのだった。
「ま、待ってください!なぜ、私が…。」
「今回、忠王陛下のお達しで、今までにない見世物を出してくれと言われてね。お前さんの歌なんかどうだろうと、皆で言っていたのさ。」
「う、歌?」
それは、私が仕事をする合間、いつも口ずさんでいたもので、母から教えてもらったものだった。"恋歌"だと母は言っていた。天女が、地上の男に恋心を抱く歌。どこか優しげで、どこか切ないその歌は、人を和ますとよく言われていた。
「私、泉嘉の歌好きだよ。なんだか、気持ちが楽になるんだもの。」
一座きっての大女優である彩恣が、横から促す。彩恣は、私と同じ歳で、今は私の心の友である。ここに拾われた時も、ずっと傍にいて、私のはけ口を聞いてくれたのが彼女だった。もちろん、城での出来事を彼女は知っている唯一の人で、今回のこの提案も、彼女によるものだと自覚する。
「さ、彩恣!」
彼女は、私の方を向いて片目を瞑る。
「いいんじゃねぇの。俺の剣舞も活かしてるけど、二つ掛け持ちで女形やる俺の代わりに、泉嘉が歌を歌ってくれたほうが良いだろ!」
言ったのは、剣舞の達人、仝徳だ。彼は、絶世の美男子で、花形として一座の中で女性たちの人気者だ。時には、彼の剣の腕を確かめると称して、仝徳に勝負を挑んでくる剣士などが訪れてきたりする。仝徳は、戦いの最中でも、美しく演舞を舞うように戦い、一度も敗れたことはないと言う。
「軽い気持ちで、やってみたらどうだ?彩恣と一緒に舞台に立ってやれば良いじゃないか!」
「ど、仝徳まで…!」
「じゃあ、トップ二人の推薦ってことで、決まりだね。」
と、一座全員の一致ということで、私は歌う羽目になってしまった。一座全員の顔を見るからに、私のはけ口を聞いていたのだなと肩を落とした。
「知っているのなら、なんでこんなこと…。」
「自分の気持ちに整理してきなさいよ。じゃないと、あんたは辛いだけでしょ?」
彩恣が、私の背中を叩く。
私は、少し考え込んだすえ、舞台に出ることを心に決めた。彼女が言うように、死ぬ間際まで梓伯様のことを忘れられなかったくらい、未練が残りすぎている。その気持ちに、終止符を打たなければ、次へは進めないと思った。
忠国に着き、久々の活気ある街に心が弾んだ。街の人々も、私達を見て、一斉に手を挙げる。まるで、故郷に帰って来たかのように、街の人々が、お帰り、待ってたよ、と声をかける。
「泉嘉、楽しみだね!」
横で、彩恣がにこやかに笑う。私は、ドキドキの方がいっぱいで、顔を強張らせた。
仝徳は、慣れたように、投げキッスをする。すると、街の女の子たちが、きゃあきゃあ言って喜んでいる。一座は、街のど真ん中にテントを張った。街人は、大いに喜び、舞台は大成功を収めた。
すると翌朝、早速忠王陛下からのお達しが届いたのだった。
「皆、忠王陛下からのお呼びがかかった。今日の夜、お城へ行くよ。」
座長の言葉に、皆大いに喜んだ。だが、仝徳だけは、何故か乗り気ではなかった。その理由は、後日分かる。
「良かったわね、泉嘉。」
突然、彩恣が私に呼びかける。私は、え、と周りを見渡す。皆、私に向かって微笑んでいたのだった。
「も、もしかして、私のために…?」
私は、言葉がなかった。皆、私情のために、忠王陛下へ懇願してくれたのだ。
嬉しくて、涙が出てしまった。
「その目で、しっかりと梓伯様を見るんだよ。」
座長の言葉に、私はただ無言で頷いた。
※
夜になり、私達は衣装に着替えて王座の前へ平伏した。忠王陛下の両サイドには、軍師にならせられた千里眼の李盛様と、梓伯様が座ってらした。
「この度は、お招きいただきありがとう存じます。我々一同、精一杯演じさせていただきます。」
「うむ。わざわざのお越し、嬉しく思うぞ。」
忠王陛下は、笑みをこぼす。軍師様は、何やらワクワクした、年相応の幼い表情をしている。
梓伯様は、腕組みをして仏頂面である。どうやら、化粧をしている私には、一切気がついたいないらしい。それか、とっくに忘れてしまっているのだろうと、少しホッとしたような、がっかりしたような気持ちになる。
見せ物は、座長たちによる劇からだった。私と彩恣は、裏で待機している。
「あの方が梓伯様かぁ。あんた、すごい美男子じゃない!」
彩恣は、こいつ、と肘で突く。
私は、梓伯様の顔を見て、やはり胸が苦しかった。
「私のことなんか、とっくに忘れてるわよ。少しも驚きもしなかったから。」
「えっ、そ、そんな…!」
彩恣は、私に便乗して肩を落とす。いやねぇ、と私は彩恣の背中を叩く。
「そんな顔をされたら、私までどうしたらいいか、分からなくなる。」
「そ、そうよね。よし、私達で、最高の舞台を演じてやろう!」
彩恣の励ましに、少し勇気が出た。思えば、色々な災難にも関わらず、私はとても恵まれている。
お城でも、一騒動起こしたにも関わらず、なんの罪にも問われずにすんだ。家族を失ったというのに、一座に拾われた。これ以上のことを望んでは、罰が当たる。
「では、続きまして、我が一座きっての大女優、彩恣の舞と、泉嘉による恋歌を披露させていただきます。」
座長の言葉と共に、演奏が始まり、彩恣の舞が始まる。その美しい舞に、皆絶叫して、おおっ、と言う声が飛び交う。その後ろで、私は楽士に合わせてあの歌を口ずさむ。ある男性に恋焦がれる天女の歌。どんなに想おうと、その想いが届くことはない。
「おおっ、実に見事な!まるで、二人の天女がいるようではないか。のう、李盛。」
「さようでございますね。」
皆が目を瞑り、私の歌う恋歌を聴く。天女が舞う、恋を寄せる切ない歌。その男性には、天上の歌が届かない。決して届くはずがない、…はずなのだが、席を立った一人の男性がいたのだった。
「…泉…嘉…!?」
突然の出来事に、周りにいた人達が一斉にどよめき始める。
一番驚いたのは、私だ。
「どうした。お前にしては、積極的だな。そこの美しい天女を気に入ったのなら、お前のものにするがいい。」
忠王陛下は、ためらいもせず、梓伯様をけしかける。
梓伯様は、有無を言わず、私へと近づいてきたのだった。
私は、それに驚いて、思わずその場から逃げてしまう。
「せ、泉嘉!?」
後ろから、彩恣の、声がした。私は、自分でも何をしているのだろうと、思い切り庭先へと出ていた。そこで、後から腕を引っ張られ、思わず後ろを振り向いてしまう。腕を引っ張ったのは、誰あろう梓伯様だった。
「ま、待てよ!なんで逃げる!」
私は、恥ずかしくなって思わず顔を隠す。
「お、お放しください!」
「こっち向けよ!あれから、あんたがここを辞めたって聞いて、俺探したんだぞ!?」
「…えっ?」
その意外な言葉に、私は驚く。なんで、私なんかを探したのか、理解に苦しむ。
「ちゃんと、あの時の事情を聞いた。泉嘉が、仲間の下女を庇ったこと!」
「ち、違います!あれは…。」
私は、思わず弁解してしまう。
「泉嘉、普段化粧なんかしてなかったろ!他の下女たちは、少しなりと化粧ぐらいしていた。だから、あんたがやったんじゃないって分かっていた。でも、泉嘉が必死に誰かを庇うから、これ以上聞くのを止めようと思って…。でも、知らない間に辞めてしまったから…。ああ、どう言ったらいいんだ!」
梓伯様は、思い切り頭をかく。
私は、それを見て必死に言葉を探してくれていることを嬉しく思い、微笑んだ。
「もう、終わったことなんです。どうか、お気になさらず。」
私が笑顔になる。
「そ、そうか。」
「でも、どうして私を探してくださったのですか?」
梓伯様は、ああ、とテレながら頭をかく。
「どうも、俺の周りには感情の激しい女しか寄り付かないらしい。俺を好いてくれるのは嬉しいんだが、これがまた手に負えない相手が多い。思い切り体当たりされて抱きつかれたり、跡をついてくるヤツやら一日中見ていたり…。」
「はぁ…。」
私は、何が言いたいのだろうと首を傾げる。それを見て、梓伯様は珍しく顔を赤くする。
「つ、つまりは…。」
梓伯様は、いちいち私の顔を見ては話しを進めていく。私は、ボケーッと言葉を持っている。
「始めから話すと、長くなるんだ。泉嘉が、あの歌を歌っているところを見て、なんだか妙にホッとして、それで、思い切って声をかけたわけなんだ。」
「…。」
聞きながら、そういえば、食堂から医者の所へ行くのは遠回りだったということに気がつく。そして、確かあの時も、この歌を口ずさんでいたなと思い出した。
「泉嘉に、猫の世話を頼んだのも、単なる口実だったんだ!」
「…えっ、ええ?!」
私は、やっと何を言おうとしているのかを理解した。だが、まさかという気持ちの方が大きかった。手で顔を覆い、言葉が出てこない。
「正直に言うと、朱清国まで行ったんだけど、みつからなかった。」
今聞いているのは、単なる夢だろうかと、戸惑いに戸惑いを重ねた。心臓は、バクバクとしていて、どうしようもなかった。単なる下女一人のために、探してくれたなど、信じられなかった。
だが、そんな私を、梓伯様は両手を掴んで真正面に向かせた。私は、ええ、と目を見開く。よく見ると、梓伯様は、顔が赤くなっていた。
「泉嘉…さん。俺の、嫁さんになってくれないかっ…!!」
私は、全身が熱くなり、真っ赤になる。
「…は、ははい〜!!」
私は、声を裏返しながら必死に返事をした。何という情けない返事だろうかと、我ながら恥ずかしくなる。ほとんど勢いで言ってしまったようなものだ。でも、嬉しすぎて、笑ってしまった。
梓伯様も、私に釣られて笑いを零す。
「よ、良かったぁ〜!」
梓伯様は、言いながら私を思い切り抱きしめる。
私は、きゃあ、と声を零す。
「いきなり、女遊びを止めたと思ったら、やっぱりそういうことだったのか。」
私たちのやりとりを、なんと物陰から一座の皆や忠王陛下たちが見ていた。
「興清、余計なこと言うな!」
「まったく、見てるこっちが恥ずかしくて、むず痒くなってしまったぞぉ!」
忠王陛下は、呆れている。
「一座こぞって、泉嘉を連れて来たかいがありましたなぁ。」
座長の言葉に、私は、え、と首を傾げる。
すると、彩恣が笑って経緯を語り始める。
「実は、あんたのことは忠王陛下からかねがね聞いていたんだよ。」
「え?またどうして…!?」
私は、忠王陛下との面識がまったくなかったため、不思議でたまらなかった。
忠王陛下が、高らかと笑う。
「実は、梓伯めが、柄にもなく鼻歌を歌っているのでな、色々と城の者を集めて問いただしたのだ。すると、辞めてしまった下女だと聞いてな、行方を探させていたのだ。」
「こ、興清!」
梓伯様は、また顔を赤くする。
「私は、ちゃんとご説明なさったほうがよろしいかと述べたのですが、陛下が面白がりまして。」
軍師様が、忠王陛下の隣でため息交じりに言う。
「李盛、お前も面白がっていたではないか。」
「わ、私は、決してそのような…!」
言いながら、コホンと咳払いする。
「その、千里眼で、二人がこうなることを予期していたのであろう?とても、ソワソワしていたからなぁ!」
軍師様は、ギクリと言う顔をして、忠王陛下を小突く。忠王陛下を、小突くことができるのは、この世で軍師様だけだろう。
「泉嘉、良かったね!おめでとう!」
彩恣は、改めて私に一言言う。不覚にも、その言葉がとても身に沁みて、私は涙が出てしまう。
「あ、ありがとう…!」
私は、なんて果報者なのだと、ただそればかり思った。周りの人たちが、あまりにも暖かく私を認めてくれたことに、感謝した。
二日後。婚礼が行われた。一座の皆が、声をかけてくれる。
「泉嘉、お幸せにね。」
「お幸せに。」
私は、笑顔で声をかけていく。
「いままで、ありがとうございました。」
すると、彩恣が声をかける。
「心配いらないわ。仝徳も、この国に残ることになったから、何かあったら、助けてもらいなさい。」
「え?」
まさかの事に、私は驚く。そのことは、後に分かることになる。
女官に手を引かれて、私は旦那様のところへ行った。
「泉嘉。」
梓伯様が、手を差し伸べる。私は、喜んでその手をとった。
忠国で、私は梓伯様との間に四男一女を授かる。そのうちの三人は、後に豪将として有名になり、一人は頭脳を働かせて、梓伯様の軍師とならせられる、嵩高仔様の弟子になる。そして、たった一人の娘は、過保護な兄たちに、とても可愛がられるのだった。
なんだか、千里眼の軍師様に図られた気もしないではないが、とても幸せになるのだった。