8.聞いていません
オルランド王子は、ナターシャと軽い挨拶を済ませたあとは、アルバート王子との打ち合わせに移る。そもそもそれが目的だったようだ。
ナターシャは緊張でまだバクバク跳ねている心臓を押さえつけるべく、二人の会話を聞くともなしに深呼吸ばかりしていた。
「では、後日発表については改めて連絡します」
「ああ。こちらもできるだけ早くタイムテーブルを詰めよう」
「お願いします。それでは」
アルバート王子はオルランド王子に軽く頭を下げて、その場から歩き出す。ナターシャも慌てて頭を下げて、アルバート王子の後ろに続いた。
オルランド王子の姿が見えなくなるくらい廊下を進んでから、アルバート王子はナターシャに尋ねる。
「私と会ったときはあんな挨拶なかったように思うけれど?」
明らかに拗ねたような調子でアルバート王子は言った。おっしゃる通りで、ナターシャにはこれまで目上の人に挨拶をした経験などとんとなかった。なまじ辺境伯令嬢という、高位貴族の身分に生まれてしまったせいで、礼儀がわからなくとも困ることがなかったのだ。アルバート王子に出会ったときもそんな状態だったし、旅先だったこともあって礼儀を欠いていた自覚はある。
とはいえ、目の前のこの物好きな王子さまは、何もナターシャの無礼に怒っているわけではなさそうだ。ただナターシャが兄にだけ丁寧だったことに対抗心を燃やしているようなものだろう、とナターシャは判断した。
「シェフィールドさんにきつく言いつけられまして。目上の方に会ったらどう挨拶するのか練習してきました。齢十六にして初の経験ですね」
「……ではつまり一時的な王族対処法ってことかい? 社交嫌いの君用の」
「まさしく! ……なんて言ったらオルランド王子殿下には失礼でしょうが」
「大丈夫、黙っているから」
アルバート王子はナターシャの答えに満足したらしく機嫌を直した。ナターシャの素がこちらであることなんて聞くまでもないと思うのだが、アルバート王子にはよほど重要だったらしい。あからさまに表情を変えたアルバート王子に、今度はナターシャが尋ねる番だ。
「ところで、先ほどの会話で聞き捨てならないことをオルランド王子殿下がおっしゃっていた気がするのですが……」
「? 何かおかしなことを言っていたっけ」
「呼んだのはアルバート様だ、と言っていたではないですか。私が喜んで発表なんかやるタイプではないことはご存知でしょう!」
「あ……」
しまった、という顔になってアルバート王子は言葉を詰まらせる。
「王都に招かれた時点では、アルバート様の手伝いをするとしか聞いていませんでした。でもそのときからそちらでは決まっていたってことですね?」
唇を尖らせてそう追及するナターシャに、アルバート王子は低い声で絞り出すように答えた。
「だって、素直に言ったら来ないだろう」
「だからって騙して呼び出したんですか?」
「……」
完全に言い負かされて、アルバート王子は気まずそうに目を逸らす。沈黙はつまり肯定の意味だろう。
「貴族の根回しって感じで嫌でした。今後はやめてくださいね」
「……肝に銘じる」
明らかにしょんぼりしてしまった様子を見るに、悪気があったわけではないみたいだ。ナターシャの嫌がることはしたくない、と思ってくれているらしく、アルバート王子は神妙な顔で深く頷いた。
そんな様子を見ていると理不尽だと非難したくなる気持ちは消えていって、代わりにナターシャはふう、と長く息を吐いた。
その後は、来賓として発表会に参加しなければけして入ることのない、バックヤードの施設や控室についてアルバート王子みずから案内してもらった。
当日、発表者として前に出ることはないとしても、アルバート王子の手伝いとして控室まで同行することになるだろう。一部屋一部屋が無駄に広い、貴族仕様の施設を歩いて、大体の地図を把握する。
道を覚えるのが得意でよかった。道なき道を歩いて身につけた能力がこんなところでも活きるとは。そう一人呟いて噛み締めていると、アルバート王子も笑って「君が旅好きでよかったよ」なんて言っていた。
「付き合わせて悪かったね。もうすっかりお昼時だ」
「いえ、案内ありがとうございました。予想外の出会いはありましたが……まあ、いいでしょう。それより! 素敵なランチに連れていってくださるのでしたよね?」
催事棟を出て来た道を戻りながら話す。学院を背にしてしまえば、ナターシャの憂鬱な気持ちはすっかり消え去り、頭には次の観光のことしかない。ナターシャが学院まで同行する餌として、美味しい食事どころを紹介してくれると言ったのはアルバート王子だ。王族御用達の王都郊外の料理店、なんて、行けるときに行かなくては人生の損失である。
ウキウキとアルバート王子をせっつきはじめたナターシャに、王子は苦笑いを浮かべる。
「そう焦らなくても連れて行くよ。君ってときどきすごく現金だよね」
「なんとでもおっしゃってください。私は王都に観光に来たのですから、美味しいものは食べないと!」
「君のグルメな舌に合うことを願うよ。それじゃあ行こうか」
ちょうど馬車を停めていた停留所まで辿りついた。アルバート王子のさりげないエスコートで、ナターシャは軽やかな心で馬車に乗り込むのだった。




