4.騙されたと思って
図書館の中に一歩足を踏み入れたところで、ナターシャは感嘆の息をついた。
吹き抜けの回廊を取り囲むように、背の高い本棚が大量に並んでいる。外の光を取り入れるために窓があるが、本を傷めないように窓の場所や角度が厳密に決められているようだった。
不規則に見えて幾何学的に計算しつくされた建物も魅力的だが、ナターシャの心を惹くのは圧倒的な蔵書量である。
ナターシャに馴染みがある図書館といえば、王立学院の中にある図書館だけだ。
あそこもかなり豊富な種類の本が置いてあったと記憶しているが、この大図書館、《グラニカビブリオ》の蔵書量はその比ではない。
ナターシャはついあちこちに目移りしてしまうのだが、アルバート王子は迷いなく一直線にどこかを目指しているようだった。
「何かお目当てがあるんですか?」
「ここには、国内で発刊されたすべての書物が揃っているんだ。となれば、向かう場所は一つだろう?」
アルバート王子は何気ない調子でそう言って、ズンズン進んでいく。
ナターシャも毎年『旅好き娘の気まま紀行録』という趣味の延長のような本を出版しているからわかるが、このシュタイン王国で本を流通させるためにはまず国への献本の提出が必要になる。
内容の検閲が厳しいとか、何か審査されてダメ出しを食らうということは経験上ないため、何のための制度だろうと思っていたが――なるほど、こうして国内の文化を一箇所に集めるのも大きな目的らしい。
そう納得すると同時に、アルバート王子の目的地もなんとなく予想がついた。目当てのフロアに辿りついたらしいアルバート王子は、周囲を確認することもなく、書架の合間を縫ってどこかへ進んでいく。
何度も行き慣れた場所なのだろう。近くの本棚に見える本の著者名がだんだんN、O、Pと変わっていくのを見て、ナターシャは王子にバレないように苦笑いを浮かべた。
「これだけの量の本が著者名順に並んでいると、興味のある分野の本を見つけるのに苦労しますね」
「そうだね。まあ、興味のある作者の著作を探すぶんには見つけやすいから、私にはありがたいのだけれど?」
そう言ったアルバート王子の視線の先には、ちょうど10冊の見慣れた本が並んでいた。
1巻と10巻では本の体裁も内容も品質もまるで違うが、ちゃんとひとまとめにして並べてくれている。
大きさも分厚さもバラバラの『紀行録』を、誰かが毎年献本を受け取ってはここに並べにきてくれているのだと思うと、立派な作家になった気分で少し感慨深い。
自分の本が図書館にある、というのは――身近すぎる場所では気恥ずかしいが、少なくともこういう大きな国立の図書館に並んでいるのは嬉しかった。
「……誰か手に取ってくれたことはあるのでしょうか」
「まず間違いなく私が一番手に取っていると思うけれど……たまに全巻揃っていないこともあるよ。そういうときは誰かが借りて読んでいるんだろう」
「アルバート様は、うちに帰ればご自身の分があるのでは……」
なぜ自分で持っている本を図書館に読みにくるのか。その心理は全くわからないが、アルバート王子以外の人も手に取ってくれていることがあるのは嬉しいことだ。
少しでも多くの人に『紀行録』を読んでもらい、自然の魅力を広めるためには図書館という場所も重要になってくるのかもしれない。
どうすればより多くの人の目に触れるようになるだろう。
名前順ではなく、旅や自然にまつわる本を一箇所にまとめられたら、横のつながりで手に取る人も増えそうだが――思いつきレベルでしかないその思考は、アルバート王子の言葉によってかき消される。
「実は、今回君を王都に招待したのには事情があってね」
王子は本棚から、一番のお気に入りだと豪語していた『紀行録』第7巻を慣れた手つきで抜き取る。そこから吹き抜けとは逆方向にさらに進むと、奥まったところに小さな丸机と一人掛けのソファが並んだ、読書スペースらしき場所があった。
勧められるままに、ナターシャはソファに座る。その目の前に、アルバート王子は『紀行録』とは別の本を置いた。
『上手な発表のしかた』と表紙に書かれた本を見て、ナターシャは一気に現実に引き戻される。
「君に発表をしてほしくてね。テーマは、旅先での暮らしと輸入生物について」
「え……発表って、私がするの!? ……ですか?」
驚きのあまり口調もめちゃくちゃだ。
王都にはただ遊びに来たのではない。学院の卒業発表会に行かなくてはならないのだ。それはわかっている。
しかし、ナターシャが聞いていたのはあくまでアルバート王子の手伝い。発表会にトラウマがあると言えば断れるか、せめて裏方に回してもらえないだろうか――と考えていたのだが、アルバート王子の口ぶりはそうではなかった。
「原稿や資料は君の意見を聞きながらこちらで用意するよ。ただ、当日壇上に立つのは君であってほしい。私ではただ台本を読んでいるだけで、学生たちの好奇心をくすぐることはできないだろうからね」
「わ、私だって……ひどいものですよ。その……人前に立って話すなんて、まずできないので。しどろもどろな発表では皆さん聞きにくいでしょう」
全力で拒否するナターシャの様子に、アルバート王子は眉を上げた。
「……君の自信のなさの原因までは聞かないけれど、騙されたと思って引き受けてくれないか? 自分で言うことでもないが、王子が後援する発表会だ。きっと皆が君を正当に評価する」
アルバート王子はオブラートに包んでいるつもりだが、ナターシャの卒業発表会での失敗のことを少なからず知ってはいるのだろう。
雪辱を果たすという意味ではいい機会なのかもしれない。ナターシャがナターシャのような卑屈で諦めが早く自信のない性格でなければ、引き受けていたかもしれないが。
どうしても、自分が壇上に立って上手く行く想像ができなかった。
「……ごめんなさい、考えさせて」
アルバート王子の方に、『上手な発表のしかた』を押し返す。
王子は難しそうな顔で黙り込んで、しばらくナターシャのことを見つめていたが。俯いたまま何も言わないナターシャを見て、諦めたように重たいハウツー本を本棚に戻した。




