1.秘薬のゆくえ
母が死んだのはもうずっと前のことで、ナターシャにとっては学院に通い出すよりも昔のことだ。
だからこそ、今更喪失感がのしかかる。
黙り込むナターシャの代わりに、兄ルドルフが口を開いた。
「……父さんのことも母さんのことも、僕は誤解してた」
「母さんも?」
父がこんなに母への想いをさらけ出しているところは見たことがないので、ナターシャも驚いたが。首を傾げるナターシャを前にルドルフは続けた。
「こんなに芯の強い人だと思ってなかったんだ。おまえは母さんに似たのかもな」
「……そうかもしれないわね」
少しだけ、ナターシャは頬を緩める。
両親のことを思い出すと悲しくもなるが、二人の生きた証を継いでいるのが兄と自分だ。ナターシャの中に、確実に両親の血は息づいている。
「不思議な夫婦よね」
先ほどよりは表情を緩めて、ナターシャはしみじみとそう言った。
* * *
夕食後、何か甘いものでも食べたいとルドルフが珍しくわがままを言って、使用人たちを慌てさせた。沈んだ心を少しでも癒そうという兄の気遣いであることはナターシャにだけわかっていた。
腕のいい使用人たちが10分足らずで出してくれた果物の載ったパンケーキを食べながら、ナターシャはふと思い出したことを口にする。
「そういえば、雪割邸にとんでもない量のワインがストックされていたんだけど……あの中に異国の秘酒もあったのかしらね」
「お……おまえは相変わらず、報告というものを知らないな」
墓穴を掘ったことに気づいてナターシャは目を逸らす。
伝えた方がいいと思った記憶はあるが、確かに伝えた記憶はない。
「今言ったわ、これが報告」
「まったく……ただ、僕も気になって探していたんだが、この家では見つかっていない。あるとしたら雪割邸かもしれないと思っていたところだ」
探しに行こうかな、と独り言のように呟くルドルフに、ナターシャは深く頷く。
「これから行くなら来月の末から再来月にかけてがいいわ。気候もいいし、紅葉の綺麗な季節だからついでに観光もできる。一緒に行くと言えないのが心苦しいけど」
ナターシャは秋にもうアルバート王子との先約が入っている。そうでなければ久しぶりに兄の旅を引率でもしたかったところだが、その願いが叶うことは少なくとも今年のうちはなさそうだ。
ナターシャは残念がって言ったが、ルドルフはちっとも残念ではないらしい。
「それはいいよ。おまえと行くと何時間も歩かされそうだ」
すげなく返されてナターシャはムッとする。何時間も自然の中を歩くのがパルメール領内を旅する醍醐味である。
わかってないわね、と思っていると、ルドルフが続けて尋ねた。
「ナターシャはこの秋どこへ行くんだ? まだアルバート王子殿下の案内役の任は続いているんだろう?」
「それが、まだ何も聞かされていないのよね。また秋に、って予約されただけ」
ルドルフからの質問は、ナターシャ自身も気になっていたことであった。
前回の夏の旅が終わってからもうひと月以上経つ。まだまだ夏の暑さの気配は消えないが、前回のようにナターシャが旅程から組むのであればそろそろ目的地を知りたいところだ。
夏の旅の準備段階ではかなり早く連絡が来たので、今回もそうなると踏んでいたのだが、なかなか通達が来ない。
「やっぱりなくなりました、なんて言われる可能性もなくはないし、気長に待っているんだけど」
そう思うのは、夏の旅の最後に見たアルバート王子の隠した姿が原因として大きい。
王子の抱える秘密の片鱗を知ってしまった今、近くにいない方がいいと思われている可能性もなくはない。
アルバート王子がどう思おうと、ままならぬことも彼の立場では多いだろうし。
「それならそれで連絡があるだろうしな。ダズウェル宰相からかけられている嫌疑のこともある、おまえが不利益を被らないといいが」
「ああそれ……すっかり忘れてたわ。私がポーションを作っていたんじゃないかって話よね。でも兄さんのことだから、ちゃんと弁護してくれているのでしょう? 王都ではアルバート様もきっと証人になってくれているだろうし、あとは私が足元を掬われなければいいだけよね」
「ああ。くれぐれも、間違って頷いたり何かの条件で証言させられたりしないようにな。余計なことは言わないのが吉だ。もし捕まったら僕では助けられないからな」
「それ、いつかアルバート様にも言われたけど……なんでみんな捕まる前提なのかしら」
でも、ここで家の名を傷つけるとかなんとか言わないルドルフのことを、ナターシャは信頼している。
自分への思いやりで用意されたパンケーキを食べ終え、ナターシャは兄に感謝を伝えて自室に戻った。
* * *
「父上――いえ、国王陛下。この特例を認めてはいただけませんか。私は彼女に不義理をしたくない。それに、隠したうえで暴かれた場合が最も事態が悪化するでしょう」
アルバートは珍しく国王エールリヒに頭を下げていた。
と言ってもいつも不遜な態度をとっているわけではない。アルバートの人生において、わざわざ父に頭を下げて頼みたいことなんてそんなになかったからだ。
ここしばらく、一年弱前に国内を旅してみたいと請願したそのときから、ずいぶん頻度が上がっているが。
結論を渋る国王より前に、国王の隣に控えていたダズウェル宰相が口を開いた。
「用件は理解しましたが……本来、婚姻等で王族に属することになった者にだけ伝えられる情報です。他でもない、あなたを守るための決まりなのですよ。アルバート王子殿下」
「はい。理解しているし感謝もしています。おかげで私は何事もなく王子として生きていけるのですから。しかし、その決まりのために意に染まない婚姻を強いては本末転倒でしょう」
「婚姻に染む染まないもないでしょうに……他でもないパルメール家の娘に伝えることが、不要な騒動を生まないといいのですが」
ダズウェルはアルバートの意見に反対しているらしい。ナターシャ・パルメールという人物のことを信じていないのだろう。しかし、この話の決定権はダズウェルにはない。
アルバートはそれ以上何も言い返さず、国王の決断を待った。
しばらくして、王は重々しく口を開く。
「パルメール家には、我々が多少のリスクを飲んでまで義理を通すべき恩がある。おまえの未来があるのは、巡り巡って彼女のおかげでもあるのだろう」
アルバートは頷き、感情を読ませない完璧な笑みを浮かべる。
「認めよう。おまえの病について、ナターシャ・パルメールに話してかまわん」
「ありがとうございます」
寛大に頷いた国王に向かって、アルバートは恭しく頭を垂れた。
『旅好き』第3章、開幕しました!
まだナターシャのところには知らせが来ていませんが、章題でどこに行くかネタバレしちゃってますね。




