■過去、現在、未来
それからの父の落ち込みようは、目も当てられないものだった。手記の文章を読むだけで、憔悴しきった様子が伝わってくる。
ナターシャの記憶の中にはこんな気弱な父の姿は残っていないから、子どもたちの前では必死に隠していたのだろう。
読むだけで胸が縮むような心地がして、ナターシャは天井を仰いだ。
あとで兄には文句を言おう。感動で泣いたような口ぶりだったが、本当は悲しくて泣いたのに違いない。それならそうと言ってくれないと、心の準備ができないではないか。
それでも、ここまで来たなら最後まで読もう、とナターシャは手記に向き直った。
母を救おうと懸命に戦った父の愛を、最後まで見届けるのだ。
* * *
モンドールとカメリアは見た目も性格も何もかも正反対で似ても似つかないが、ひとつだけ共通点があった。
二人とも、恐ろしく頑固なのだ。
一度こうと見つけたらけして曲げないモンドールは、カメリアに薬を飲んでもらおうと手を尽くす。何度も説得をしたし、カメリアが全て忘れても構わないように、思い出をできる限りどこかに書き留めた。家族の記念になるものは全て捨てずに保管したし、かわいい娘の絵日記は本にまでした。
忘れられる覚悟と準備を整えて、彼はカメリアを待った。
一方、カメリアも簡単には折れない。
本当か嘘かもわからない怪しい異国の秘薬を前に、カメリアはけして首を縦に振らなかった。
一度、問い詰めたことがある。
「どうしてだ? 苦しくないのか、つらくないのか? この薬を飲んだら全部治るんだぞ。お前を子どもの頃から苦しめていた病気が、全部」
「でも全部忘れるんでしょう。そんなの全然嬉しくないわ」
ベッドから出られず逃げ場のないカメリアはそれでも毅然としていた。
互いに引くことのない視線がぶつかり合う。数秒間見つめあったあと、カメリアは一つの条件を出した。
「でも、そうね。私のために一生懸命探してくれたのもわかるから……もしも死んでしまうほど病気が悪くなったら、そのときに飲むわ。それまでは、思い出の方を大切にさせて」
実際、カメリアを診た医者は皆、差し迫る命の危機はないという診断を下していた。
それなら、今は思い出を大切にするカメリアの気持ちを尊重してもいいのかもしれない。
「絶対にだぞ、約束だからな」
「ええ。約束する」
その約束を最後に、モンドールは自分の心配や不安を押し殺して、カメリアに薬の話をしないことにした。
カメリアが薬を飲むときは、命が危ぶまれるほど病状がひどくなったときだ。できるだけそうならなくて済むように、モンドールは願掛けのように薬を遠ざけて、仕舞い込んだ。
家族の思い出の品も自分の手記も毒のような薬も、使い道がなくて済むならその方がいい。
外を歩けなくても、体がどんどん痩せ細っていっても、カメリアがそれでいいと言うなら、モンドールはどんなカメリアでも愛そう。
そう決めた。
それから数年間、カメリアはほとんど寝たきりになりながらも、子どもたちの成長を深い愛で見守りつづけた。
間違っても病気の悪化を見逃さないように、カメリアは国内で一番の医者にかかっていた。
子どもたちがずいぶん大きくなり、ルドルフが王立学院に通い出して一年半ほど経った頃に、その名医は初めて首を振った。
「そう。私はルドルフの卒業まで見届けられないのね。ナターシャを学院に送り出すこともできないかもしれない」
「このままなら……な」
「でも探し出した秘薬がある、って言いたそうね。約束だもの、もう拒まないわ」
病気が治るというのに、カメリアは諦めたような力ない笑顔だ。死期が迫っていると言われたのだから当然か。
それでも彼女が希望を失わないように、無邪気なナターシャを巻き込んで病気が治ったら家族でしたいことを話した。
そして、踏ん切りがつかなそうなカメリアに代わってモンドールが薬を飲む日取りを決めた。
一年後のカメリアの誕生日に。
全ての記憶を失う代わりに病気を治して、新たな君として生まれ変われるように――
* * *
ナターシャは母のことをあまり覚えていないが、誕生日や命日くらいは覚えている。
だからそこまで読んで、思わず手記を閉じてしまった。
母の命日は誕生日の1日前だ。
あまりにも残酷すぎる偶然だ。運命がどうのこうのと人はよく言うが、生死に必然なんてないとナターシャは思う。
あんなに優しかった母の運命が最初からこう決まっていたのだとしたらやるせなくて到底受け止められないから。
ナターシャは手記を持って自室を離れ、兄のいる執務室へ向かう。ノックもおざなりに、執務室の扉を開けた。
「おや。……読み終わったか」
何事かと一瞬眉を上げたルドルフは、すぐにナターシャの手の中のノートに気がついて全てを察したらしい。バツが悪そうな顔で、ナターシャの不機嫌な顔を仰ぎ見る。
ナターシャは、黙ってルドルフの目の前に父の手記を置いた。
「今……すごく、つらい気分になってる」
「ああ。僕もずっとつらかった。一人の屋敷でこれを読んで、潰れそうだったよ。だから巻き込んで悪いな」
「自覚があったのね?」
つまり、この重みを一人で抱えられなかったからナターシャを言いくるめて最後まで読ませたのだろう。この手記を見つけてきたのはナターシャだから道連れにされても文句は言えない、かもしれない。
ちょうど今日の仕事を切り上げるところだったらしいルドルフは、広げていた書類を片付けて、ナターシャにも椅子を勧める。
「昔さ、母さんに夜中に呼び出されて、兄妹揃って抱きしめられたことがあっただろ」
「……いつまでも母さんは母さんよ、って。言ってくれたわね」
「あのとき、どっちだったんだろうな。記憶をなくすつもりだったのか、それとも、……もう保たないって、わかっていたのか」
静かな部屋に、ルドルフの言葉が重たく響いた。
ナターシャは答えを探して数秒、押し黙る。
「わからない、けど……」
ナターシャは母のことが好きだ。父のように一緒にどこかで遊んだ思い出があるわけではないが、それでも母を母として愛せているのは、きっと母が自分たちのことを愛してくれていたと疑いなくわかっているからだと思う。
「――忘れたくないのも死にたくないのも、私たちのためだったのよね、母さんは。だから、どっちもなんじゃないかしら」
その夜のことに思いを馳せて、ナターシャは震える声で呟いた。
重たい終わりですが、次回より第3章始動となります。
どうぞよろしくお願いします!




