■帰宅早々の呼び出し
馬車を降りると、嗅ぎ慣れた山の匂いが鼻を満たす。
潮風にばかり吹かれていた今日までの4日間を思うと、やはりずいぶん空気の質が違う。暑さはここの方がずっとマシだが、夏を感じさせるあの潮の香りと爽やかさはここにはなく、代わりにあたりを包み込むような木々の香りが優しく漂っている。
ナターシャはパルメール領に帰ってきたことを噛み締め、本邸の玄関までの道を歩いた。
毎回の旅の帰り道のルーティーンである母の墓参りは暗くなる前に済ませてきた。
今回の旅も報告することには事欠かない。見かけ倒しの巨大風魚に竿ごと海に引きずりこまれそうになったり、長いツノを持つ特大イルカが目の前で大暴れをしてくれたりと、天国で見守る母をハラハラさせそうな報告になってしまったが。
しかし総合して振り返ると間違いなく楽しかったと思えるのだから、不思議なものだ。
新たな旅の思い出を胸に、ほくほくした顔でナターシャは自宅の大きな門をくぐる。
果たしてそこでナターシャを待っていたのは、兄ルドルフからの伝言であった。
「おかえりなさいませ、お嬢様。風呂場で汗を流されたらすぐに執務室に来るようにと、領主様からの伝言です」
あれよあれよと使用人たちがナターシャの荷物を預かり、荷解きを始める。
夏の旅に役立つひんやりペットことフローズンフロッグだけは使用人に世話を任せられないので回収したが、それ以外の荷物は仕方なく彼らに任せ、ナターシャは素早くシャワーを浴びた。
そして、お風呂上がりの火照った体をフローズンフロッグの吐き出す冷気で冷やしながら、ナターシャは兄の待つ部屋に向かう。
「ただいま戻りました」
見慣れた扉にノックを三回、そのあと声をかけると扉はスッと中から開けられた。
手ずから扉を開けてナターシャを迎え入れたルドルフは、まずナターシャに椅子をすすめた。ナターシャが席についたところで、その目の前のテーブルに並べてとあるものを置く。
一つは革表紙の日記帳、もう一つは蜜色の液体で満たされた小瓶。
日記帳の方には見覚えがある――というか、ナターシャが以前ルドルフに渡したものだ。
パルメール領の山間部を旅するときの拠点、雪割邸にある父の私室でナターシャが見つけて持ち帰ってきた、父の日記帳である。
しかし、もう一つの小瓶には見覚えはない。色から予想するに回復ポーションだろうか。
兄の言いたいことがわからず目の前の二つのものを見つめて考え込むナターシャに、ルドルフは低い声で尋ねた。
「褒められるのと叱られるの、どちらが先がいい?」
いやにドラマチックな問いだが、言っていることは何も感動的ではない。ナターシャは渋々答えた。
「……叱られるの、かしら」
蛇に睨まれたカエルのように縮こまりながら、ナターシャはルドルフの言葉を待つ。
ルドルフが話しはじめたのは、アルバート王子も言っていた、王室から派遣されてきた調査隊についての話だった。
時は少し遡り、ナターシャが夏の旅のためにシェフィールドから厳しい淑女教育を施されていた頃。
敏腕政治家と名高いダズウェル宰相をリーダーとした王室派遣の調査隊が、パルメール領に許可なく建設されつつあった謎の建物を調査しにやってきていた。
調査はパルメール領の人々による全面協力のもとつつがなく進み、調査団は無事王都へと調査結果を持ち帰ったという。
しかし、その調査結果があまり芳しくなかった――というのが、ナターシャがアルバート王子から聞いた話である。
「その調査がどうかしたのですか? 何も見つからなかったと……ダズウェル宰相ほどの人が何も見つけられないなんて、とアルバート様と話しましたが」
ナターシャがそう尋ねると、ルドルフは表情を沈ませる。
「やはり、王子殿下の認識はそうなのか……」
「殿下の認識?」
嫌な言い方だ。まるでそれが事実ではないような。
おそらくここに怒られる理由があるのだろうとナターシャは身構える。
「何も見つからなかった、なんてことはなかったよ。山の上の建物からは……大量のポーション瓶が発見された。これがその1つだ」
ルドルフはそう言って机の上に置いた小瓶を示す。なるほど、どうりで見覚えがないわけだ。
ふんふん、と納得して頷くナターシャに、ルドルフからの厳しい声が降る。
「――ダズウェル宰相は、おまえを疑っている」
「へ?」
思わず間抜けな声をあげるナターシャに向けて、ルドルフは続けた。
「この領地の山を自在に歩くことができ、人に見つからない場所を把握しているのは、山奥の集落に住む領民たちかナターシャかの二択だ。そして、いち領民が我々に隠してポーション製作なんかに手を出せるはずがない」
回復ポーションの材料はさまざまで、掛け合わせによって効能も異なるが、基本的にこの山に自生する植物だけで作ることはできない。材料を各地から取り寄せて買い溜めていては、すぐに誰かにバレてしまうだろう。
対して、ナターシャにはそういった縛りはない。普段から旅グッズやら輸入生物やらを好きなだけ買い集めているので、そこに珍しい素材が含まれていたとてカモフラージュされて簡単には明るみに出ない――というのが、ダズウェル宰相の言う理屈だそうだ。
「……私がやるはずないでしょう。いや、ポーション製作はするかもだけど。あの建物を用意した黒幕も私だって言うの? 私が見つけて私が一番怒ってたのよ?」
「それも、アルバート王子殿下に見つけさせ、王室側の問題とするための策ではないか、と」
あまりの暴論に、ナターシャはため息をついた。自分で言うのも癪だが、ナターシャがそんな悪巧みを思いつくはずがない。
話にならない、という心の声を全面に態度に出すナターシャを見て、ルドルフは呆れ顔で続ける。
「僕だっておまえを疑ってはいない。けど……おまえの行動次第で防げることもあったはずだぞ、ナターシャ」
ああ、そうだ、まだ怒られていなかった。ナターシャはルドルフの言葉に、再び背筋を正すのだった。




