30.またねの数が減っていく
楽しい時が終わるのは一瞬だ。
アルバートは馬車の中、頬杖をついて唇を尖らせる。
一国の王子の生活に無駄にできる時間などない。帰りの馬車が気持ちの整理を待ってくれないのも当然だ。それに、ナターシャに嫌がられたらと思うと堂々と名残りを惜しむこともできなかった。
あれよあれよと二人は別々の馬車に乗り込み、4日間世話になった海を背に出発してしまった。
途中までは同じ道を通って帰るので、馬車は縦に並んで進む。そして二人の分岐点となる宿場町で、いっときの休憩を挟み、馬車は再び出発した。
ナターシャとの別れ際には余裕の笑みを浮かべていられたのに、馬車に戻ってきた途端にこのむくれよう。
あまりのわかりやすさにテオドアは苦笑を浮かべる。
「人は変わるものですね。まさか殿下のお気持ちがこんな手にとるようにわかる日が来るとは」
「……なんとでも言うといいよ」
テオドアの冷やかしもアルバートの心には響いていない。今のアルバートの胸中には、ナターシャのことしかないのだろう。
これまでのアルバートの人生からは想像もできないことだが、今まさしく目の前の彼の姿がそれを証明してしまっている。何が見えるわけでもないのに、パルメール家の馬車が走っていく方角を物憂げな顔で見つめているのだから。
最初こそテオドアはナターシャに嫉妬に似た感情を――彼らの人生に突然現れ、アルバートのあり方を変えていかれることへの寂しさの裏返しのような感情を抱いていたが。
今となっては、そんな寂しさをおぼえる隙もない。
ともに馬車に乗る使用人たちもひそひそと何か話している。その声はアルバートにもテオドアにも聞こえていた。
馬車は何台かに分かれているのでここにいるのはごく一部の、それなりに信頼のある使用人たちなのだが……他の馬車に乗る者に話が広まるまでそう時間はかからないだろう。
なんならこの旅に同行していない者たちにまで噂されかねない。
しかし、アルバートはそんなことまったく心配していなかった。考えているのは、ナターシャのこと、それから自分のこれからのことだけだ。
「ねえ、テオドア」
「なんでしょう?」
「私が彼女とどこか旅することができるのは、もうあと数回だったね」
アルバートよりアルバートの予定を知っているテオドアは、即座に頷く。
「ええ。殿下が国の要職に就かれるまであと1年余りですから、いくら国外に出ないとはいえ自由に動けるのはその期間だけでしょう。今年の秋と冬はもう準備が進んでいますが、それ以降は殿下次第です」
「そう……だね。私次第だ」
「というか、もう会えなくなったあとのことを考えているのですか……」
弱々しいアルバートの姿に、テオドアはため息をつく。皮肉めいたテオドアの言葉を否定せず、アルバートは頷いた。
「またね、と挨拶をして思ったんだ。次会うとき私はあの子にまたねと言えるんだろうか……って」
これはまた随分アルバートらしくない命題だ。普段の……王城で社交に身を投じるアルバートなら、二度と会わないと分かりきっている相手にも平気でまたねと社交辞令を言うだろう。
しかし、ナターシャ相手にはそうしたくない、という確固たる思いがアルバートにはあった。それはテオドアも理解するところである。
「まあ、ナターシャ様にその気もないのに「また」なんて言ったら問い詰められそうですからね」
「次の予定なんてありましたっけ、って? ふふ、あながちあり得なくもないね」
冗談めかして二人はそう言うが、つまりナターシャの貴族らしくない素直な気質を理解したうえで尊重したいからこその考えだ。
意味もなく嘘や社交辞令でナターシャと話したくない、とアルバートもテオドアも思っていた。
「しかし、予定はなくともまた会いたいから……と言えば、すんなりと飲み込んでくださる気もしますが」
「な……なんだその気恥ずかしいセリフ。アドバイスか?」
「は――」
アルバートの方がよほど気恥ずかしいセリフをぽんぽん吐いていたではないか。喉元まで反論が上がってくるのをテオドアは飲み込んだ。
ここで怒ったら本当に恥ずかしいことを言ったことになってしまう。
「……客観的な感想です」
声のトーンを下げたテオドアにふうん、とつまらなさそうにひとつ頷いて、アルバートはまた思索にふけりはじめた。
* * *
ところ変わってパルメール家の馬車の中。
ナターシャは肩を震わせて小さくくしゃみをした。
「やはり海水に濡れて風邪をひかれたのでは……」
「いや……どちらかと言うとどこかで噂されていそうなむず痒さでした」
ナターシャは幌を少し上げて来た道を振り返る。もう王家の馬車は遠く離れて視認できない。
「アルバート様に噂されてたのかしら」
「まあ。きっとそうかもしれませんね」
シェフィールドは屋根付きの馬車の中だというのに眩しそうに目を細め、口元を手で隠して笑う。
ナターシャは眉を下げてあからさまに嫌そうな顔をした。
「そういう話ではない、と何度も言っているでしょう。ともに旅を楽しむ同志ではありますが、ニヤついて見守るような関係ではありません。ともに旅をしていたのだからわかっているはずです」
ビシッとシェフィールドの顔の前に人差し指をつきつけ、言い聞かせるようにナターシャは言う。
しかしシェフィールドはそんなナターシャの勢いに負けず生ぬるい顔で笑みを浮かべていた。
「お嬢様、それは鈍感がすぎるというものでしょう。抱きしめあって無事を確かめあう姿、あれは互いを想っていなくては――」
「あ、あれは向こうが勝手に!」
「であれば、少なくとも殿下のお気持ちは確かなのでは?」
「――っそれは…………」
シェフィールドの言葉には基本的にはああ言えばこう言うタイプの口答えを仕掛けるナターシャだが、今回ばかりは答えに詰まる。
アルバート王子が自分のことをどう思っているのか、なんて考えようものなら何にも追われていないのに逃げ出したくなってしまうくらいだ。特にシェフィールドが言うとおり、今日のアルバート王子はなんだか前のめりだった、気がする。
口ごもるナターシャに、シェフィールドはさらに追い打ちをかける。
「お嬢様ほどの方が生涯独り身とあってはあまりにもったいないと私は思うのです。お嬢様の気持ちはいつも旅に向いているとはいえ、嫁入りが嫌なわけではないのでしょう?」
「……ええ。突然ふらっと旅に出ても許してくれて気を遣わないでよくて、私と添い遂げることをよしとする方がいれば、の話ですけど。そんな人いないので独り身なんですよ、これまでもこれからも」
感情のこもっていない顔と表情でめんどくさそうにナターシャはそう答えた。
それってアルバート王子殿下のことでは――という言葉を、シェフィールドは飲み込んだ。あまりからかいすぎて、意固地になられても困るから。
「またニヤけてますね……」
シェフィールドの胸中を知らず、ナターシャは顔を顰めてとうとう馬車の外の景色へと視線を移した。
想いを自覚するもの、しないもの。そしてそれを見守る従者たち…。いろんな人の想いが育つ夏の旅でした。
これにて第2章完結です!
次回以降、何話か幕間のお話を挟みつつ物語は第3章へ動いていきます。
どうぞよろしくお願いいたします!




