29.秘密は秘密
やっとアルバート王子の物理的な束縛から解放されたナターシャは、ふかふかのソファに沈む。
ローテーブルを挟んだ向かいには、機嫌をなおしたアルバート王子と、逆に疲れた顔をしているテオドア。
ナターシャの部屋――といってもきっと本来は誰か観光客が泊まる予定だったであろうスイートルームのソファに座り、ひとまずの休息をとる。
ルームサービスで頼んだ軽食はものの5分ほどで届いた。おそろしい好待遇である。からっぽになったお腹を満たしながら、アルバート王子は口を開く。
「しかし……どこから説明したものだろうね」
軽い口調だが、王子の表情は真剣そのものだ。
桟橋の先でナターシャが見てしまったアルバート王子の瞳について説明しようとしているのだろう。ナターシャとしては見なかったことにするつもりなので、アルバート王子の方から口火を切られると少し困る。
ナターシャは目を泳がせながらアルバート王子を止める。
「ええと……説明はしなくてもいい、ですよ?」
アルバート王子はその言葉を聞いて切なげに眉をひそめ、視線を斜め下へ逸らす。
「そうか。説明などなくとも予想はついているだろう……ね」
思わぬ方向にナターシャの言葉が誤解されてしまった。文字通り説明しなくていいとナターシャは言ったつもりだが、皮肉にとられてしまったらしい。
よほどこの人は貴族社会に毒されている、とナターシャは目を半分にする。王子様だからそれもしかたないか。
「そういうことではなく……別に秘密のことは秘密のままで、無理に説明する必要はないってことです」
こちらは何も聞きません、と言い切るナターシャに、アルバート王子は困惑した目を向ける。
「……君は、人に興味がないのか? 追及されないのは、それはそれで不審なんだけれど……」
「な、失礼ですね。ただ人の弱みを知りたがる趣味がないだけです」
「ふうん……まあ、確かに。王城では誰も彼も人の弱みばかり集めているかもしれないね。貴族の悪い癖だ」
アルバート王子はそう言って緊張を解いたようだった。止まっていた手を動かし、フィッシュアンドチップスのチップスの方だけをパクパクと口に運ぶ動作を再開する。
それでいいのか、と言わんばかりにテオドアが隣でため息をついている。
「いずれナターシャ様にはお話ししなくてはならないことでしょう」
「いずれは、ね。けれど今話すつもりは元々なかったんだ、しかるべきときにしかるべき方法できちんと話すよ」
「そう言ってはぐらかすつもりでしょう。ナターシャ様は本当にはぐらかされてしまうタイプの方なのですから、こちらが区切りをつけなくては」
テオドアの言葉が果たしてナターシャを褒めているのか貶しているのかわからなくて引っ掛かるが、テオドアとアルバート王子の息の合った言い合いに口を挟めず黙って見守る。
しばらく互いにぐちぐちと言い合っていたが、結局はテオドアが折れるかたちで話がまとまったようだった。
「ナターシャ嬢。また秋になる頃に、君を次の旅にお誘いするつもりだ。君が不快でなければ、そのときに私の身の上話も聞いてくれるかい」
「もちろん、不快ではないですが……」
進んで聞きたいとは思わないが、別に断るほど聞きたくないというわけではない。……今日は疲れているから断りたいくらいだったが、別の機会を設けてもらえるのならかまわなかった。
弱みにつけこむつもりはないが、アルバート王子のことは気にかかるし。
ナターシャの思い浮かべた悪い想定が当たっていないことを願うばかりだ。
「よし。なら決まりだね、ありがとう」
アルバート王子がカトラリーを置いて手を差し出したので、ナターシャはその手を握った。前にもこんなふうに旅の終わりに握手をした記憶がある。
あのときも抱きしめられかけた、といらない記憶も一緒に思い出し、ナターシャは眉間にシワの寄った微妙な顔をしながら、アルバート王子との次の旅の約束を確かめた。
ルームサービスで頼んだ軽食がちょうどなくなる頃、迎えの馬車がついたという報告がナターシャの部屋まで届いた。
そもそも、桟橋で占いを楽しんだあと少し市場で買い物や食事を楽しんだら帰路に着く予定だった。ナターシャは驚いて部屋にある時計を確認するが、間違いもなく時刻は迎えが来る約束の時間ちょうどを示している。
長いような短いような1日だった。
事件に次ぐ事件、それに新事実。頭が追いつかず、桟橋の先で見た占いの結果などほとんど忘れてしまった。
ラッキーアイテムはなんだったか、覚えていないのは市場に立ち寄る時間がなくなった今、ちょうどよかったかもしれない。
アルバート王子たちとは途中の宿場町まで同じ道を通って帰るが、馬車は別々だ。
宿から馬車の待つ場所まで向かう道すがら、ナターシャとアルバート王子は旅を惜しむように話す。
「いろいろあったね」
「はい。今日の出来事が濃すぎて、正直昨日までが薄れてしまったかと思ってしまいましたが……」
旅初日から今日までの4日間を思い出す。海辺の街を散歩し、船釣りに行き、海水浴も楽しむ。とにかく海を味わい尽くす旅だった。
記憶を遡ってみれば、どの瞬間も鮮明に思い出せる。今日一日の記憶にかき消されることなどありえないほど、楽しい時間だった。
「……全然薄れるなんてことはないですね。どの場所もいい思い出になりました」
「ふふ。そうだね、私も楽しかった」
「案内役の役目を果たせたかはわかりませんが、アルバート様にとって思い出になる夏にできていれば幸いです」
ナターシャが微笑みながらそう言うと、アルバート王子は不意をつかれたように目を丸くした。何がそんなに驚きだったのかわからず、ナターシャは首を傾げる。
アルバート王子は一瞬黙り込んだあと、ナターシャの髪を一筋すくって、そこに口付けた。
突然のことに照れるどころか眉をひそめて半目になっているナターシャに向けて、王子は満面の微笑みを浮かべる。
「うん。一生の思い出になったよ」
ナターシャが追及しなかったせいで謎は謎のままとなりました。残念。
もう間もなく第2章、ウェーステッド領での夏の旅も終幕となります。最後までどうぞおつきあいください。




