28.無事でよかった
岸に戻ると、テオドアや街で待機していた王子の護衛が手を回してくれたらしく、一般の観光客はすでにその場からいなくなっていた。
王子の護衛隊の一人であろう若い騎士が駆け寄ってきてくれたが、どれほどの人がアルバート王子の事情を知っているのかナターシャにはわからない。
アルバート王子を心配するその騎士にとにかくテオドアを呼んでもらうように頼み、やっとナターシャは緊張の糸を解いた。
「あ……すみません。手、ずっと引っ張っていましたね」
「……うん」
アルバート王子はまだ呆然としていて元気がない。良いとも悪いとも言わずに頷くだけ頷いたが、ナターシャの手を掴む力は緩まなかった。
ナターシャだってもちろん先ほどの事態に驚きはしたし今も冷静とは言えないが、完璧王子であるはずの彼がここまで弱るとは。
ナターシャにはどうこうできない問題だと感じる。
幸いテオドアはすぐに駆けつけてきてくれたので、ナターシャはテオドアに助けを求める。
「テオドア様。アルバート様は目にゴミが入ったようで、眼帯を――」
「ありがとう、ございます……!!!」
「わっ、ちょっと、はい?」
テオドアは察しがいいから伝わるだろう、と含みのある言い方をしたところ、食い気味に礼を言われ両手を取られた。
縋るようにナターシャの手を自分の両手で包み込み、テオドアはその場に膝をついて頭を下げる。
最敬礼とかの型を超えて土下座せんばかりのテオドアの勢いにナターシャは慌てる。
「あ、頭を上げてください。ほら私よりアルバート様を!」
「いいえ、ナターシャ様には感謝してもしきれない」
「いいえじゃなくて! アルバート様、異様に元気がなくて心配なんです!」
ナターシャはぼんやり立っているアルバート王子のもとまでじわじわと移動し、アルバート王子を盾にする。
テオドアはやっと観念してナターシャの手を離した。
「……すみません、ではお言葉に甘えますが……またの機会にしっかりと礼をさせてください。殿下、こちらへ」
テオドアはひとり、アルバートを連れてどこかへ向かっていく。ほっと息をつくナターシャのもとに、今度はシェフィールドがやってきて声をかけた。
「お嬢様……王子殿下を助けられたのはご立派ですが、自分の身も省みなさい。そのままでは風邪を引かれますよ」
う、とナターシャは言葉に詰まる。言い返したいことはいろいろ思いつくが、シェフィールドが誰よりもナターシャを心配してくれたことはわかっているので何も言えなかった。
言われてみると急にずぶ濡れの体が冷たく感じる。それに浴びたのは海の水、そのままにしていては髪も服もだめになってしまいかねない。
どこか体を休めて、服を着替えられるところがあればいいのだが。
そんな思いを読み取ったようにシェフィールドは言う。
「近くの宿をご厚意で何室か空けていただけることになりました。向かいましょうか」
それを聞いてナターシャは眉をひそめる。
この人気の観光地で夏真っ盛りに宿の部屋など空いているはずがない。ご厚意というのはつまり、王権フル活用の気配がする。
「……まあ、背に腹は替えられませんか。案内をお願いします、シェフィールドさん」
宿につくとナターシャの想像通り、無理やり空けたらしいスイートルームに通された。
オーシャンビューのバルコニーにはジャグジー付きのスパが設置されていた。ナターシャはそこで素早く髪と体を洗い、服を着替える。
もう少しゆっくりしてきたらいいのに、とシェフィールドは言うがそんな気分にはなれなかった。
どうしても気にかかるのは、悄然としていたアルバート王子のことだ。
ただ隠し事がバレて動揺していただけならいいのだが。常日頃の王子からは考えられない覇気のない姿のせいで、怪我もなく戻ってこれたというのにちっとも安心できない。
悶々としながら、同じ宿の別室でナターシャと同じくお色直しをしているはずのアルバート王子を待つ。
数分か数十分か経ってやっと部屋の扉がノックされた。
「はい、どうぞ。遅かったですね」
がちゃり、部屋の扉が開きアルバート王子の姿が見える。髪は乾かしたうえで再度きちんと整えられ、どういう原理か目の色ももとに戻っている。
しかし相変わらず思い詰めたような顔のままだ。今度こそ問い詰めてやろうと、ナターシャは立ち上がって王子の方をまっすぐ見据える。
ふらふらと自分の方に歩み寄ってくるアルバート王子が立ち止まるのを待って――そんなふうに思っていたナターシャの考えは簡単に吹き飛んだ。
アルバート王子が立ち止まらずに自分のもとまで向かってきたから。
「……わ、ちょっと!?」
至近距離までやってきたアルバート王子は、突然ナターシャを抱きしめた。急な出来事に、ナターシャは自分の顔が熱くなるのを感じる。
「ぼくは……あやうく、君を死なせるところだったんだ。すまない……無事で、よかった」
アルバート王子の腕の中から逃れようともがいていたナターシャは、その王子の言葉で動きを止める。
「死なせる、って……」
いったい何の話かとぎょっとしたが、すぐに思い当たる。
たしかに、もしアミダ桟橋でナターシャがアルバート王子に言われたとおり黄色の橋を選んでいたら、今頃ナターシャは無事ではいられなかっただろう。
それでアルバート王子は見るからに元気がなかったのか、と納得する。
ナターシャのことを思って悩まれていたと考えると恥ずかしくもあるのだが、それより安堵の方が大きかった。
「ええ、こうして生きていますよ。それに、アルバート様があの文脈で黄色にしたらどうかと言ってくださったおかげで選ばずに済んだ、とも言えます」
安心させるように、ナターシャは自分の手をぎこちなくアルバート王子の肩に回し、とんとんと背中を叩く。
もう大丈夫だから離れてください、の合図だったのだが、アルバート王子はますますナターシャを抱きしめる腕の力を強めた。
「う、ちょっと……アルバート様?」
制止の声をあげるが、アルバート王子は聞く耳を持たない。
遅れて部屋に入ってきたテオドアが引き剥がしてくれるまで、アルバート王子に存在を確かめるようにぎゅっと抱きすくめられて、ナターシャは天井を仰ぐことしかできなかった。




