27.綺麗な瞳
目の前で壊された桟橋を前に、ナターシャは顔を青ざめさせる。
たまたま、4人がそれぞれ選んだ桟橋から道を辿って行き着いた先に含まれなかっただけ。一つ選ぶ道が違えば今頃どうなっていたことか――そう考えるとゾッとする。
壊れた桟橋の向こうでは、シェフィールドも青白い顔で腰を抜かしていた。
テオドアが隣について面倒を見てくれているようだ。
嫌でも頭に浮かぶ想像を振り払うように、ナターシャは後ろを振り向く。
アルバート王子はまだうずくまったままだ。
ナターシャは、アルバート王子のいる一番端の桟橋に繋がる渡し板のもとまで急いで戻る。
波の合間に駆け足で板を渡って、アルバート王子のところまで走って向かった。
「アルバート様! 大丈夫ですか!?」
「ナターシャ嬢……か」
返事をしながらも、アルバート王子は振り返らない。顔を抑えて膝をついたまま。
何か怪我でもして、強がって隠しているとしか思えなかった。
ナターシャはすぐそばまで走り寄って、隣にしゃがみこむ。
そして、怪我の様子を見るため、ぐっと顔を覗きこんだ。目元を隠すように顔を覆う彼の手は、ナターシャが引っ張ると何の抵抗もなく動いた。
目を閉じたアルバート王子の、ずぶ濡れの顔が明らかになる。
しかし予想外にも、そこには傷の一つもなかった。相変わらず綺麗な顔には何も隠すものなんてない。
「アルバート様? いったい何が……」
おずおずと尋ねるナターシャの言葉に、アルバート王子は答えない。
しばらくの沈黙のあと、彼は観念したようにゆっくりと目を開いた。
左目は普通だ。エメラルドを磨いて嵌め込んだような透き通る緑色。
けれど彼がずっと手で抑えて隠していた右目は、違った。
瞳孔がぼやけて、焦点の合わない灰色の瞳。
それはナターシャが遠い記憶の中で何度も見た、優しい色によく似ていた。
* * *
幼いナターシャは、自分の母親が重い病気だということを知らなかった。母本人はもちろん、父も兄も従者たちもナターシャにそんなこと伝えなかった。
それでも、母に人と違うところがたくさんあるのは分かっていた。
家からめったに出られないこと、他の家族と同じ料理を食べられないこと、そして、瞳の色。
「かあさまの目は不思議ね。どこを見てるかわからない」
幼いナターシャはそう言って母の顔の前で手をゆらゆら揺らす。
母の灰色の瞳には瞳孔らしきものが見えず、縁取りもぼやけてどこまでが瞳かわからないほど。視線の動きがわからないその目が、ナターシャには気になってたまらなかった。
「ふふ。ナターシャからはわからなくても、母様はずうっとナターシャのかわいい顔を見てるわよ」
母はそう言って、簡単にナターシャの小さい手をつかまえた。そして愛おしそうにその指に自分の指を絡める。
目を閉じてナターシャの手に頬ずりする母に、照れくさくなったナターシャはふと思いついた疑問を口にした。
「私も将来、かあさまみたいな瞳になるのかしら」
そう尋ねると、母がナターシャの手を握る力が今までよりもずっと強くなった。
目を閉じたまま、母は答える。
「いいえ。ナターシャは、ずっとずうっと、綺麗なその瞳でいるのよ」
母はそう言ってナターシャの両方の瞼に唇を軽く触れた。
かあさまの瞳のほうがずっときれいなのに。
それはなんだか言葉にしない方がいい気持ちのような気がして、ナターシャは黙って母のぬくもりを感じていた。
* * *
ナターシャの頭の中で、フタが開いたように遠い昔の記憶が流れ出す。思い出に浸りたくなる気持ちを、頭を振ってかき消した。
アルバート王子の灰色の右目は、ナターシャの記憶の中の母の目の色と完全に一致していた。
(母さんと同じ病気だとしたら、アルバート王子は――)
悪い想定が脳裏をかけめぐる。
どういう原理かわからないが、きっと隠していたのだろう。ナターシャが今考えたような不安を人々に抱かせないために。
ナターシャは、咄嗟に自分の腰に手を伸ばす。キツくベルトを締めて取り付けたポーチは、幸い先ほどの波と水飛沫を浴びてもナターシャのもとを離れていなかった。
ポーチに入れた救急セットを取り出し、足元に広げる。
「……実は、私の目は――」
何か言おうとしたアルバート王子の言葉を、ナターシャは遮った。
「大丈夫です、じっとしていてください。……きっと、海水が入ったか、何かゴミが当たったのでしょう。どこか洗えるところに戻るまで、即席ですが眼帯をつけておけば大丈夫ですよ」
「……っ」
アルバート王子は唇を薄く開いて何か言葉を探している。
しかしナターシャは有無を言わせず、ガーゼと包帯を器用に組み合わせてアルバート王子の右目を覆い隠した。
「これでよし。さ、戻りましょう」
ナターシャは立ち上がり、まだしゃがんだままのアルバート王子に向けて手を差し出す。
アルバート王子はゆっくりとナターシャの手に自分の手を重ねる。確かめるように手を握って、ナターシャの力を借りて立ち上がった。
「……きみは、なぜ……」
掠れた声でそれだけ聞かれた。
なぜ何も聞かないのか、と言われているのだろう。聞かない方がいいことだと思ったから聞かなかっただけなので、ナターシャはすっとぼける。
「何のことです? それよりほら、テオドア様が心配しています」
アルバート王子には前の旅のとき散々嘘が下手だと言われたので、きっとこれもとぼけているだけだとバレバレなんだろう。
それでもアルバート王子は何も追求しなかった。
「そう、だね」
小さく頷いて、ナターシャに手を引かれるままに歩く。
二人はそうして、波に飲み込まれかけた桟橋から陸へ戻るのだった。




