26.幸運の証なんて嘘
アミダ桟橋での運試しの結果、ナターシャに示された運命は『霹靂』。
もちろん、言葉通り雷が鳴るというわけではあるまい。何か大事件が起こるかも、なんてのたまうどこか不吉な看板の向こうで、ナターシャは一瞬黒い影を視界にとらえたような気がした。
気を取られたのも束の間、海を挟んで少し離れた隣の橋にいるアルバート王子が、大きな声で自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
ナターシャはハッとしてそちらを見る。
「ナターシャ嬢! どうしたんだい、ぼうっとして」
「あ……いえ。看板を読んでいました、すみません」
「そんなに衝撃的なことが書いてあったのかい? ちなみに、私のには――」
そこまで言って、アルバート王子の言葉が止まった。王子の視線は、ナターシャではなくその背後を見つめている。
声もなくただ目を見開くだけのアルバート王子の様子からただごとではないものを感じ取り、ナターシャも即座に後ろを振り返った。
「――え」
絶句。アルバート王子が言葉をなくした意味を理解し、ナターシャも驚きに喉を詰まらせる。
眼前の海に見えるのは、波を割ってそびえる一本の白いツノ。螺旋状に渦を巻いたそれは人の背などゆうに超えるほどの長さだ。
まっすぐと空に向かって伸びる鋭いツノは、一度は幸運の証なんて言ったものの今のナターシャにとっては恐怖でしかなかった。
シェフィールドやテオドアは、離れたところにいるためまだこのことに気づいていない。あっけにとられるナターシャとアルバート王子を前に、ツノの持ち主が一度深く海に沈んだ。
旅の中で培われたナターシャの野生の直感が告げる――これは、跳ぶ合図だ。
「……っしゃがんで!!」
かろうじて、アルバート王子に向かってそう叫ぶ。ナターシャ自身もその場にかがみ込んで身を守るように頭の上に腕を回す。一拍遅れてアルバート王子が姿勢を低くするのも見えた。
――プピー、プピールー!!
赤ちゃんの玩具から鳴るような間抜けな音が、大音量であたりに響く。
ザバンッ、と海が割れて、可愛い鳴き声とは似ても似つかない巨体が高く跳ねた。
カイエンドルフィン。
かつて人のエゴで絶滅寸前にまで追い込まれたが、決して途絶えることなく種を繋いできた強い動物。
その気高いツノを空に突き立てて、大きな体躯を陽のもとに晒す。
ナターシャも、アルバート王子も、従者たちも、おそらく陸地で自分たちが橋を渡る番を待つ人々も、皆その姿に目を奪われる。
ナターシャは猛烈に後悔していた。自分は自然を舐めていたと。しかし言い訳が許されるなら――こんなすぐ目の前で見る予定はなかったのだ。水平線に跳ねるこの子の勇姿を見たのなら心躍り感動しただろうとも。カイエンドルフィンがこの近くで目撃されたと聞いて思い浮かべていた情景と、今の状況はあまりに違いすぎる。
しかし、そんなことを悔いても……あるいは、たとえ主張したとしても、一度跳ねた巨体が海の中へ巻き戻ることなんてありえない。ナターシャは迫りくる衝撃に備えて、ぎゅっと目をつむった。
あとは、自分たちの幸運に賭けるしかない。
――バッシャーーーン!!!!
「きゃあああ――ッ」
長いツノと大きな体が海面を叩き割る。カイエンドルフィンの巨大な質量分の水が押し除けられて、大きな波を作った。
桟橋の上まで飲み込まれるような勢いある流れになんとか耐えると、次は大きな水飛沫の粒が頭上から大量に降り注ぐ。大粒の水の塊は体に当たると鈍い痛みを感じさせるほどの勢いだ。
「殿下っ!!!」
いちばん遠くの端にいるテオドアが大声で叫んだ。声につられてナターシャもアルバート王子の方を見る。
アルバート王子は膝をついて、苦しそうに手で顔を抑えていた。金の髪を隠していた帽子は海に流されてしまったらしく、濡れた髪は乱れて顔に張り付いている。しかし、乱れた髪を直そうともせず彼は肩で息をしたままだ。
怪我をしたのだろうか。
ナターシャはアルバート王子のもとへと向かうための渡し板の位置を確認する。まだ海全体が揺れるような大波は続いているが、隙を見れば渡れないほどではないだろう。
自分もずぶ濡れで髪も服もめちゃくちゃだが、ナターシャはそんなことにはかまいもせず、立ち上がって駆け出した。
「ナターシャ様!! お待ちください、私が!」
遠くからテオドアが制止する声が聞こえる。確かに、ナターシャが向かったとて何もできることはない。テオドアが駆けつけた方がよっぽど助けになるだろう。
それでも、ナターシャはじっとしていられなかった。アルバート王子が心配だ。
「でも、そっちから来るより私の方が近い――」
ナターシャの声が果たして向こうまで聞こえるのかはわからないが、少なくともそう理屈をつけようと振り返って。
ナターシャは再び言葉を失った。
5本あった桟橋のうち、誰も辿り着かなかった真ん中の緑の橋が、鈍い音を立てている。
こちらに向かってこようと、ちょうどその緑の橋に繋がる渡し板に足をかけていたテオドアは、咄嗟に数歩後ずさる。テオドアのそばで見守っていたシェフィールドも防御体制をとった。
バキリ、と桟橋が中心から真っ二つに割れる。
桟橋を裂いた犯人は、海の底から再び長いツノを中空へと突き立て、誇らしく悠々と泳ぎはじめた。
「こんなの……幸運の証なんて嘘じゃない!」
ナターシャは遠ざかっていくカイエンドルフィンのツノに向かって、悲痛な声で叫ぶ。
運次第でもしかしたら誰かが立っていたかもしれない緑色の桟橋は、見るも無残に崩れ去っていた。




