20.海に来たならこれでしょう
その夜。ナターシャが『紀行録』の執筆に没頭していたのに対して、アルバートは自室のベットに早くから沈んでいた。
とは言っても早々に眠るわけではなく。ただ、物憂げな顔で天井を見つめ、時折ため息をつくだけだ。
「殿下……部屋にどんよりとした空気を漂わせるのはやめてください。楽しげに話してらしたのに、何をそんなに沈むことがあるのです」
夕食の席では楽しそうにしていたが、湯浴みを終えてテオドアとアルバートしかいないこの部屋に戻ってきてからずっとこの調子である。
テオドアは心配半分、呆れ半分で声をかける。
「なあテオドア。私のしたいことって何だと思う?」
ベッドの中から弱々しい返事が返ってきた。
「旅でしょう。同志だと言われていたではありませんか」
「そう……そうだよね。そうなんだけれど……」
「何なんですか、煮え切りませんね」
テオドアは妙にナヨナヨとしているアルバートの様子に辟易しながらも、寝る前に飲ませねばならない薬の準備をする。何種類かの、テオドアなら絶対に飲みたくないような味のする薬を砕いて粉を混ぜ、飲みやすいように用意された重湯に混ぜた。
アルバートはのそのそと起き上がり、テオドアの手から薬を受けとる。
「彼女のしたいことを叶えるのが、私のしたいことなのだけれど……きっと認めてもらえないよなあ」
唇を尖らせてそう文句がましく言いながら、アルバートはちびちび薬を飲んでいる。
ナターシャもアルバートもお互い難儀な性格をしているな、とテオドアは呆れながらもアルバートの言葉に頷いた。
* * *
ナターシャとアルバート王子の夏の旅は折り返し地点を越え、3日目に至る。
この日の予定は至極簡潔に一言だけ――海、自由行動。
ナターシャもだが、それ以上にアルバート王子がはしゃいでいた。
「驚いたよ! 海の水って本当に塩辛いんだね!」
靴を脱いでザブザブと波打ち際を歩き、海水と戯れてはそんなことを言っている。近くを歩くテオドアに海水を飲むなと説教されているが、あまり聞く耳を持っていなさそうだ。
からりと暑い今日の気温を考えれば、海に入るのは心地よくて当然。多少のお小言など聞こえなくなるというものだろう。
ナターシャも置いていかれまいと王子たちの後に続いて波打ち際を進む。
今日はナターシャもひらひらと丈の長いサマードレスは仕舞って、濡れてもかまわない薄手のショートパンツスタイルだ。
上半身はピッタリと胸からお腹まで覆う水着の上に、日除けとして薄手の長袖シャツを重ね着している。水泳着とまではいかないが、肩まで海に浸かることができる……と思っているのはナターシャだけで、実際この服で海に入ったらシェフィールドたちメイドは怒るのだろうけれど、ナターシャにとっては動きやすい衣装だ。
アルバート王子も日に焼かれないよう、ラッシュガードのような伸縮する素材の上下長袖に身を包んでいる。
「綺麗な海ですね」
透き通る薄緑色の海は、いかにもバカンスに来たという気分にさせてくれる。
白い砂浜の上にはナターシャたちだけでなく、他にも小さな命たちが過ごしていた。砂浜を軽やかに進むカニやヤドカリ、海の中には気持ちよさそうに泳ぐ小魚たち。時折ナターシャやアルバート王子の踏み出す一歩に驚いては逃げ、かと思えば逆に何が起こっているのか気になって寄ってくる。
そんな生き物たちを愛おしく思いながら、一行は気付けば膝の上まで浸かる程度の海の中まで進んでいた。
「ひんやりして気持ちいいね。叶うなら泳いでみたいところだ……そんな技術私にはないけれど」
「言うと思いました。浮き輪を持ってきているので持って入れば溺れることはないですよ。ただ、今全身濡れると大変なので昼食後にしましょうか」
「そうだった! 昼食も君の発案で何か用意してくれているのだったね。楽しみにしていたよ」
心なしかアルバート王子はいつもよりイキイキしている気がする。昨夜ナターシャが「アルバート様のしたいようにしてください」と伝えたのが効いているのかもしれない。
ナターシャはしたり顔で、砂浜に立てたタープの場所までアルバート王子とテオドアを案内する。
「おっと……すごい熱気ですね」
ただでさえ気温は高いが、タープの付近はもはや熱風が吹いているような様子である。
そしてその熱風の中心には焚き火があった。
「海に来たならバーベキューでしょう! 私の発案で、皆さんに準備していただきました」
汗を流しながら、使用人たちが奔走してくれた。
焚き火の組み方と保たせるコツはナターシャからシェフィールドに伝授したので火の調子は完璧。
それ以外も、ナターシャの大雑把な指示や提案を十二分に汲んで、串に刺された立派なお肉と野菜がたくさん並んでいる。
おお、と歓声を上げるアルバート王子とテオドアを前に、ナターシャは説明を始める。
「串を地面に突き立てて焼くのが一般的ですが、砂浜では心もとないので網を用意してもらっています。自分たちで串を並べて焼きながら食べるのがバーベキュースタイルです」
「つまり自分たちで料理をしながら食べられるということだね。旅先でしかできない体験だ」
前回の旅のときもそうだったが、アルバート王子は料理に興味があるらしい。王城では火どころか厨房にすら近づくことがないだろうから、未知のものに興味があるといったところだろう。きっとバーベキューも気に入るに違いない。
焚き火が燃え移らないよう耐火性のあるファイアリザードの皮を巻きつけた木組みの土台の上に、鉄の網が乗っている。
ナターシャは手本となるように、大きな串を手に取って網の上に置く。テオドアとアルバート王子も、焚き火の勢いに気圧されながらも自分の串を火にかけた。
「あとは爽やかな飲み物があれば完璧なのですが……あ、あったあった」
ナターシャは日陰に置かれた木箱に近づき、中から冷えたサイダーの瓶を3本、取り出す。昨日訪れた漁師町の商店街で買った、ご当地の炭酸水だ。
この炎天下でまだ冷えているのは、木箱の中に隠れた冷たいカエルのおかげである……というのはカエルが苦手なアルバート王子には黙っておくのが吉だろう。
栓を開けると、プシュッと軽やかな音が夏を盛り上げるようにあたりに響いた。




