11.大物の予感
帆の角度と舵の切り方を少し変えるだけで船は自由自在に方向を変え、海の上を動き回る。
港を離れてすぐはまっすぐ北に向かって進んでいたが、今は太陽に背を向けてどんどん北西に進んでいる。
船長いわく、潮目を探しているらしい。
ナターシャが早くから釣りの準備を始めてしばらくして、船もポイントに到着したらしく動きが変わる。
船体が波に垂直に向かう角度になるよう、船員たちは船を操った。帆を細くすぼめて束ねると、先ほどまで風を受けてぐんぐん進んでいた船の動きが急に緩やかになる。
「潮目のあたりまでやってきました! どうぞ、釣りを楽しまれてください」
船員の一人が、アルバート王子とナターシャのいる場所まで小走りにやってきて報告する。
ナターシャは意気揚々と用意してあった釣り竿を握った。
船の右舷に向かい、ナターシャはアルバート王子を手招きする。別に左右に分かれてもいいのだが、二人で横に並んで釣り糸を垂らすのに十分なスペースがあるし、アルバート王子は船釣りなど初めてだろうから隣で教えられた方がいいだろう。
互いの釣り糸が邪魔し合わないよう、適度に距離を空けて並ぶ。
まずは、釣り針にエサをつけるところからだ。いくつかの種類のエサが用意されていて、狙う魚によってその中から合うエサを吟味せよということらしい。
こればかりはナターシャにも詳しくわからないので、近くに控えていた船員の若者に尋ねてみる。
「あの、すみませんが、この中で一番大物を狙えるものを教えていただけますか?」
最初からナターシャは大物狙いである。手に握った釣り竿もしなりの効く頑丈なタイプで、先には返しのついた大きな釣り針。
せっかく船釣りに来たのだから大物を釣らなくては、と内心燃えているナターシャを見て、船員は信じられないような顔でエサの入ったカゴとナターシャの顔を交互に見る。
それもそのはず、ナターシャは今いかにも貴族令嬢らしいつば広帽にサマードレスを着て軽やかに髪をなびかせている。見た目だけで判断するなら、非力そうな清楚な女性だ。あくまで見た目だけだが。
ナターシャの本気度を測りかねつつも、船員は困ったようにおすすめのエサを教えてくれた。
彼の指定した大きめの剥き身のエビを、器用に針の先に縫い止める。海の流れに乗って外れてしまったり、魚に掠め取られてしまったりしてはもったいないので、丁寧に作業をする。
遠くからシェフィールドの視線が突き刺さる。
お淑やかでないとかなんとか言いたいのだろうが、ナターシャは気にせず素手でエビを掴んでいる。
その手先を見て、船員はナターシャがただの清楚な令嬢ではないことをなんとなく察したようだった。
「ふふ、驚くよね、よくわかるよ。彼女は他の貴族たちとは一味も二味も違うからね」
「う……勘弁してください。ちょっと田舎生まれなだけです」
なぜかアルバート王子が自慢げにしている。ついついナターシャはよくわからない謙遜をしてしまった。
アルバート王子は初心者向きの魚がよくかかるエサを船員から教わり、にょろっとした虫をおそるおそる針の先につけていた。
船員や使用人たちに見守られるなか、釣り針を海に投げ入れて、いざ、二人は釣りを始める。
「釣りのコツは何より精神力です。ウキの動きと指先の感覚に集中して、食いついた魚を逃がさないことですね。逆に食いつくまでじっくり待つのもまた精神力の試されるところですね」
「なるほど。心を落ち着けるのは得意だよ。気は長い方だと思う」
「ならきっとすぐに上達しますね。どちらがたくさん釣れるか勝負でもしますか」
大物狙いのナターシャと、初心者とはいえ欲張らず堅実にエサを選んだアルバート王子。勝負にちょうどいいバランスと言っていいだろう。
好戦的に目を細めるナターシャの顔を見て、アルバート王子は一瞬呆気にとられたがすぐ気を取り直した。
「いいね。受けてたとうじゃないか」
それから、アルバート王子もナターシャも時間を忘れて釣りに没頭した。
アルバート王子は言葉通り、じっくりと待つのが得意らしい。最初こそタイミングを見損なってかかりかけた魚に逃げられていたが、だんだん勝手がわかってきたらしく、危なげなく魚を釣り上げるようになってきた。
現在、釣りあげた魚の数はアルバート王子もナターシャも3匹ずつ。
大きさも込みならナターシャに軍配が上がるが、今日の勝負はあくまで釣りあげた数基準だ。
そろそろ太陽も天頂を越えており、ちょっぴりお腹も空いてきた。なんとなく、次にかかった方が勝ちだという認識が無言のうちに皆に共通していた。
(盛り上がるかと思って提案しただけだけれど……案内役として、負けられないところよね)
ナターシャは釣り竿を握る手に力を入れる。ちょうどその指先に、ツンと小さな揺れが伝わってきた。
「あ、きた――」
そう呟くと、アルバート王子と、二人の釣りを見守る皆の視線が一斉にナターシャの方を向く。ナターシャはついはやる気持ちを抑えて、チャンスを待つ。
ツンツン、ツン、クイッ――思わせぶりに届く振動を数える。確実に食うタイミングを探すのだ。じっと我慢するナターシャの竿が、とうとうぐっと大きく引っ張られた。
「そこだっ!」
思わずそう声に出したのは見守ってくれていた船員だ。先ほどおすすめのエサを教えてくれた彼である。
もちろん、言われるまでもなくナターシャはもう竿を引いている。確実に、釣り糸の先の魚がエサごと針を飲み込んだ感触がした。
勝負だからと一人自分の釣り糸と向き合っていたアルバート王子も、ついナターシャの方に視線を送って歓声をあげた。
あとは糸を切らさずに釣り上げるだけだ。そう思いながら、ナターシャは息を飲む。
ナターシャの釣り竿は、今日一番の勢いで強く引っ張られ、ぐにゃりと大きくしなっていた。釣り糸の先の魚がかなりの力で暴れているのだ。
「これは、大物の予感がするわ……!」
ナターシャは船べりに釣り竿を乗せて、固定しながら糸を引く。これもタイミングを見計らわないと糸が切れる原因になる。しかし、自由に暴れさせすぎるとうっかり竿ごと持っていかれかねない。
釣り竿の引っ張られる感触と、細い釣り糸の動きだけに集中する。だんだんと魚が船に近づいてきて、大きな魚影が見えた。鱗がきらりと銀に光っている。
その姿に視線を奪われていたナターシャは、周りの様子をあまり見ていなかった。
「――危ない!!」
アルバート王子のそんな叫び声が、ナターシャの耳に届く。
瞬間、船が強い風に煽られてぐらりと揺れる。遅れて、波が下から船を突き上げた。
釣り竿と引っ張り合いをしていたナターシャの体は、その衝撃でぐらりとバランスを崩した。
突然の釣りバトル。アルバート王子はそこまででもないですが、ナターシャはしっかり負けず嫌いです。




