3.春の山、軽んずべからず
山の中で自分のファンを名乗る王子に出会ってから数時間。
再会してしまわないよう、数日の旅の予定を白紙に戻すことにしたナターシャは、旅の宿としている別邸の書斎で頭を抱えていた。
「困ったわ……このあたりの観光地やお店は全部行ったことがあるし……」
その行ったことがある観光地を改めて巡るのが今回の旅の目的だったのだが。
行ったことがあるということは、『紀行録』に書いたことがあるということ。つまり、おそらくアルバート王子も行きたがるに違いない、ということだ。
旅の案内をしてほしいという頼みを断って逃げてきた手前、鉢合わせるのは避けたい。
彼らが去るまで旅を一旦中断して屋敷にこもるか、まったく新しい旅路を開拓するか。ナターシャに残された選択肢はその二択。そしてナターシャは迷いなく後者を選んだ。
まずは行ったことのない飲食店、あるいは商店を見つけたい。食は旅の醍醐味である。
そうでなくても、この屋敷には備蓄用の乾パンと水くらいしか置いていない。別邸とはいえ辺境伯の持ち家の備蓄品なのだから食いつなぐには十分な量と質だが、さすがに味気ないというものだろう。
書斎を一通り見分して、一応この近辺の地理書は見つけた。できるだけ村や家の場所が詳細に乗った地図のページを開いて、行ったことのない場所を探すことにする。
そもそもパルメール領は、シュタイン王国の北西部に位置する領土だ。西端には海、北端には隣国のラネージュ帝国との国境という、政治上かなり重要な土地。
だからこそ、パルメール家は辺境伯という高い地位を与えられ、国政から半分独立した領地運営を行っている。
そしてナターシャが今いるのは、帝国との国境線近くの山脈である。
とは言っても、何千メートルという高さの山々が針のように連なる山脈の、ほんのふもとにしか入ったことはない。旅において安全は最も重要であり、慎重に越したことはないからだ。
この山脈はかつては国防の要所だった。関所が設けられ警備隊も配置されていたというが、シュタイン王国とラネージュ帝国が友好宣言を出してからはお役御免となったらしい。わざわざ吹雪に煽られながら危険な山道を通ってくる必要がなくなったのだろう。ナターシャが生まれるよりずっと昔、50年ほど前の出来事だ。
50年の間で関所や警備隊の詰所はほとんど跡形もなくなり、一帯にはぽつぽつと集落が残るだけになった。
しかし、パルメール家が前線近くで庶務を行うために建てた別邸だけは壊さずに残しておいた――それが、今ナターシャを匿っているこの屋敷、雪割邸である。
ナターシャは開いた地図を見ながら、先ほど来た道を辿る。雪割邸から北西に見える休火山を登った先がムルデ湖だ。
本来ならその休火山を越えた先にある集落に向かい、秘境の名店《木こりの暖炉》で食事をしたかった。
しかしこのルートはナターシャの定番であるため、アルバート王子も真似をする可能性が高い。
他にも丘を少し下れば食事のできそうな場所はいくつかあるが、つい昨日登ってきたばかりの道である。
できれば山脈側で、かつあまり危険ではなさそうなところで新規開拓を狙いたい。地図には屋号までは載っていないが、建物の場所と大きさは載っていた。大きな建物が集まっているところなら、何かしら手に入るかもしれない。
「あまり行ったことがないのは、ムルデ湖の逆側ね……」
つまり、屋敷から東側。標高自体はさして変わらないが、ところどころ岩肌の突出した崖があるため、あまり歩いたことがなかった。
一度迷い込むように通ったことがあるが、あまり奥まで行かずに散歩程度で帰ってきたはずだ。
地図の上で指をすべらせながら、現在地より東側を確認する。標高差の激しい場所を避けながらなんとなく見ていくと、少し離れたところに集落を見つけた。
地図によると1軒1軒の家は小さいが、畑のような土地を持った家がいくつかあるようだ。それならきっと食べ物も豊富だろう。
ルートにあたりをつけて、地図を手元のノートに簡潔に写し取る。
ここから1時間は歩くだろうか。山道の険しさによってはもっとかかるかもしれない。
今日より装備を万全にしなくてはいけないが、こうした冒険は旅の真髄だ。今からやる気がわいてきた。
浮かれた気分でナターシャは手の中の地図をペラペラとめくる。
この地図にある地域だけでも、ナターシャのまだ知らない場所はごまんとあるのだろう。感慨を覚えながらページをめくっていると、間に挟まれていたメモがひらりと落ちた。
(なにこれ……あ、父様の字)
それは父が残したメモだった。「いつか行く。《山茶花亭》」という一文と、おそらくその店のものであろう住所が綴られている。
ナターシャは、慌てて住所と地図を照らし合わせる。すると奇跡的なことに、先ほどナターシャがあたりをつけた集落の建物のひとつが、父がメモに残した《山茶花亭》だそうだ。
「ますます行くしかなくなったわね……!?」
こんなの何かしらの思し召しとしか思えない。ナターシャは父のメモを丁寧に書斎机の引き出しにしまい、自分のノートに《山茶花亭》と書き足した。ホクホク顔で地図も本棚に戻し、書斎を出る。
廊下に出ると、先ほどまで分厚い壁と大量の本に囲まれて気づかなかったが、窓の外はバケツをひっくり返したような大雨だった。それに、春になったとはいえ、夜はまだまだ冷える。
浮かれた気分が一瞬で現実に引き戻されたように感じる。ぶるり、と身震いしながらリビングに戻ろうとして、ナターシャはふと気がついた。
(……王子たち、大丈夫かしら)
放ったらかして逃げてきてからしばらく経つとはいえ、まだ下山できているとは思えない。
どこに拠点を構えているのか知らないが、旅が初めてだと言っていた彼らの足でそんなに早くは移動できないだろう。
湖より南側にいれば安全だが、北側に進んでいれば、標高は下がっていても山脈の中心部により近づいていることになる。
夕立ちひとつで斜面は簡単に崩れるし、川も増水する。力持ちそうな護衛の青年が一緒だとはいえ、サバイバル初心者には少々危険な天気だ。
「まあ、なんとかする……わよね」
――ゴロゴロゴロ……ピシャーン!!
口に出して自分に言い聞かせてみたが。同時に鳴った雷の音にほとんどかき消されてしまった。
ナターシャはため息をついて、向かう場所を変える。リビングではなく玄関に。
ラックに掛かったレインコートを1着手に取り、帰ってきたまま置きっぱなしだったリュックの中身をすべて床に広げる。
筆記具や財布はいらないだろう。折りたたみ傘もこの風雨では使い物にならない。敷き布は何かに使えるだろうか。コンパスと携帯食は必須だ。それから――持ってきた旅の便利道具を厳選し、できるだけ身軽な状態で、レインコートを身にまとって外へ出た。
雨足はますます強まり、地面の土が完全にぬかるんでいる。まだ日は沈んでいない時刻だと思うが、光のないあたりは薄暗かった。
自分のせいで、アルバート王子に死なれては困る。いやナターシャのせいではないのだが、ナターシャに憧れてここに来たならナターシャのせいになるかもしれない……などとごちゃごちゃ考えているが、結局は先人として、旅の初心者である彼らが心配なのだ。
ナターシャはフードを深く抑えながら、豪雨の中へ踏み出した。
ほんのり地理説明回。ナターシャが旅するパルメール山脈は広大です。
次の話は一時的に王子視点にうつります。
GW期間限定で1日2話更新中です。
次回は今日夜公開予定!よろしくお願いいたします!