■今回の旅について
小さな丘の上から、ナターシャは街を見下ろした。
昨日まで旅していた、木々と岩肌に囲まれた大自然とはまったく違う、石やレンガの敷き詰められた整然とした街並みだ。
早朝に雪割邸を発ち、好調なペースで山を下ってきた。まだ朝は早い。本邸に帰る前にここに立ち寄るのが、ナターシャの旅の恒例となっている。
本邸のある、パルメール領中心部の大きな街。いわゆる《領主街》と安直で恥ずかしい呼び方をされるこの街を、ナターシャは丘の上から一望する。
街は、北の山脈を背に立つパルメール家本邸を起点に、放射状に広がっている。
3つの大きな街道には、石畳が敷かれ人通りも盛んだ。露店や飲食店が軒を連ねており賑わっている。
南に伸びる第一街道を進めば王都へ、南東に伸びる第二街道を進めば隣町へ、南西に伸びる第三街道を進めば海へ。3つの主要な交易路が、この《領主街》で一点に交わっているのだ。
そのどれでもない道なき道を辿って旅をしてきたナターシャは、郊外にある丘の中腹で大きく伸びをする。
ここまで来ると帰ってきた実感が湧く。まだ街までに少し距離はあるが、ナターシャにはここでやるべきことがあった。
丘の頂上へと続く遊歩道を進む。その先には、小さな墓がある。
――〈カメリア・パルメール ここに眠る〉
そう刻まれた墓標の前で、ナターシャはひざまずいた。
「ただいま戻りました、母様」
* * *
母の墓標を前に、ナターシャは今回の旅について振り返る。旅の帰りに決まって行うナターシャのルーティンだ。
どこに行って、何をしたか。何を食べて、何を見たか。そして自分がどう思ったか。
『紀行録』には書かないような取り留めのないことまで、子どもがその日見た新しいことを母親に語るように……というか、まさしくそうだ。ナターシャは童心に返って、無邪気に母に話しかける。
今日の話題には、ついいつもより熱が入る。兄にすら全てを話すつもりはない。吐き出すならここしかないのだ。
ナターシャは急に話を切り出した。
「ねえ母様、私どうしたらいいのかしら。……いや、どうもしなくてもいいのかも、しれないけど……」
そう話しはじめたのは、当然、アルバート王子のことだ。
「この国の王子が私の『紀行録』のファンだって言うの。正直、今でも信じられないけれど……悪ふざけや冷やかしには思えないくらい、ちゃんと『紀行録』に詳しくて。詳しすぎるくらい」
母はどう言うだろうか。
ナターシャが幼いころにいなくなった母親の、おぼろげな面影を辿る。ナターシャがまだ幼い語彙で懸命に話す旅の話や、父との思い出の話を、母はどんな顔で聞いてくれていただろう。
ナターシャの記憶に残っているのは、母の優しい笑顔だけ。
病気が進んでだんだん目の色が抜け落ちて、灰色になったか弱い瞳で、それでも母は優しく笑っていた。
不確かな思い出を辿りながら、ナターシャは弱々しく話しつづける。
「誇っていいのかわからないの。私の本をあんなに愛してくれる人がいて、しかもそれが王子様だって、受け入れて胸を張っていいの? 私は……いろんなものから逃げたから、旅をしているだけじゃないのかって、思ってしまった」
相槌を打つものはいない。ナターシャの話を聞いているのは、物言わぬ墓標と揺れる草木、それからあたりを飛んだり歩いたりしている虫たちだけ。
だからこそ、ナターシャは胸の内を打ち明けられる。
社交の苦手なナターシャにとって、ここは絶好の場所なのだ。
不安な気持ちを紛らわせるように一度、深呼吸をする。
「……それでね、アルバート王子に山の中で会って。一緒に旅をしたんだけど――」
話を戻して、旅の出来事について語る。そうしていると不安な気持ちなど薄れ、ただひたすら思ったことを思ったまま話すことになる。
ムルデ湖は変わらず爽やかな風を吹かせて美しかったとか、《木こりの暖炉》のご飯が美味しかったとか、グラドゥーシャの花畑やコンコルド渓谷を見て、王子たちが目を輝かせていたことが嬉しかったとか。
母が本当にナターシャの報告をいつも聞いてくれているなら、そろそろ聞き飽きた話かもしれない。それでもナターシャの言葉は止まらない。
だって、何度でも聞いてほしいのだ。『紀行録』になる前の、ナターシャの感情の源流を。
「ひとつだけ怒ってしまったことがあって。ああ、少し後悔もしてる……大口を叩きすぎたかもしれないわ。山道を歩いているときに珍しい鳥に会ってね、それも2回も」
怪鳥ルーガクックのこと、それからコンコルド渓谷近くの山の頂上で見た王家の紋章付きの建物のこと。
1日経ってナターシャの心も当初よりは落ち着いているので、声に怒りがこもることはなかった。それでも批判的な口調で、ナターシャは事の顛末を語る。
あまりにやるせなくて、「世界中の人に自然のよさを伝えてこんなことなくしてやる!」みたいな恥ずかしい宣言をしたことも。
そんなの無理だって笑い飛ばしてもらえたらよかったけれど、母が生きていたとしてもそんなことはしないだろうと知っていた。
「これからどうしよう。どうやったら、あんなことなくなるのかしら。ずっと考えてるけれど……また、答えが見つかったら報告に来るわね」
話が終わるころには、ずっとしゃがみこんでいたナターシャの足は痺れていた。
いつもより長く話していたらしい。
そろそろ本邸に向かおうか、と母に別れを告げて腰を上げたそのとき、背後に人の気配があることに気がついた。
ギクリ、とナターシャの体が固まる。
この場所にナターシャがいると知っている人は、おそらく一人しかいない。これから慎重に内容を吟味しながら旅の報告をしようと思っていた、まさにその相手だ。
「旅の報告は今ので聞いた。が……確認したいことが多すぎる。今日一日は執務室から出られないと思ってくれ」
振り返った先ではナターシャの兄、ルドルフ・パルメールが頭を抱えている。
ナターシャを巻き添えにするように、彼はそう宣告した。
次回はアルバート王子視点、少し政治のお話を…




