■アルバート・グランシュタインの憂鬱
非日常から日常に戻る瞬間というのはあまりに呆気なく、切ないものだ。
隣を歩く主人を見ながら、テオドアはこっそりと心の中でため息を漏らした。
“旅好き娘”、ナターシャ・パルメール。
彼女の著作にアルバートが虜にされたのは、もう3、4年前のことだったか。
王立学院の図書館に寄贈された『旅好き娘の気まま紀行録』第7巻に出会ったその日、アルバートの命でテオドアは既刊である第1巻から第6巻までを入手すべく奔走したのをよく覚えている。
残念ながら学院の図書館にも既刊は並んでおらず、王都の書店でも流通していない。
わざわざパルメール領の下町まで出向き寂れた書店をハシゴしたあと、それでも足りなかった分は好事家の貴族たちから大枚をはたいて買い取った。
そこまでしたのは、初めてだったからだ。
平和で、豊かな自然と資源に恵まれたこのシュタイン王国で。安定した行政を営み国民に慕われる王家の第三王子という立場で。
アルバートは14歳になるまで一つのワガママも言ったことがなかった。
しかし、『紀行録』を揃えろという命令を忠実にかなえたからなのか、それ以降アルバートはテオドアにはよく甘え、よく振り回すようになった。
これはこれで大変だが頼られていなかった日々よりも何倍もマシである。
自分こそはこのアルバートという優等生王子の唯一の理解者であると思ってすらいた。
それでも――アルバートの、子どものような嬉しそうな笑顔はテオドアには引き出せない。
ここ数日の旅の中で、ナターシャとともに過ごしている間アルバートは普段見せない表情をいくつも見せていた。
『紀行録』について語るときの恍惚とした顔もそうだし、駄々っ子のように頬を膨らませるのも、歯を見せて笑うのも、普段は絶対にしない顔だ。
事実、今テオドアの隣を歩くアルバートは口角をわずかに上げて微笑みを浮かべているが、その瞳はひとつも笑っていない。
ナターシャと別れてすぐ、森を抜けて視線の先に王家の紋章のついた幌馬車が見えるところまで来てから、すっかりその顔に戻ってしまった。
アルバートが冷徹なひとだというわけではない。
環境が彼にそれを強いているのだ。
テオドアの力ではどうにもできないことを、自覚もなく無意識に取っ払ってしまったナターシャを尊敬する。
おそらく彼女本人は気づいていなくて、アルバート王子ってこんな元気な人なのかとでも思っていることだろうけれど。
「……妬けますね」
ぽつりとこぼした独り言にアルバートは目を細めた。
「熱烈だな」
ふ、と小馬鹿にしたように可笑しそうに鼻で笑うのは、テオドアの前でだけかもしれない。
ひどい扱いの差だ。
馬車の前まで辿りつくと、そばに立って待っていた御者が恭しく頭を下げる。
言葉もなくアルバートは一瞥だけをくれて、座席に乗り込んだ。テオドアも荷台に荷物を置いてから、アルバートに続く。
御者も何も喋らない。
馬のいななく声だけを合図に、馬車は王都に向かって走り出した。
* * *
王城に戻ったアルバートを待ち受けるのは面倒な挨拶回りと書類仕事の山だ。
ただの趣味ではなく王子の責務として、自国を知るという大義名分をもって旅に出る許可を得たのだから当然と言えば当然だ。国庫を私欲のためだけに費やすことはできない。
そつなく、丁寧な態度で帰着後の挨拶と手続きを進める。
最初に訪れたのは応接間だ。
そこには、馬車の到着を聞きつけてすでにある男が待っていた。長い金の髪を後ろで一つに束ね、翡翠色の切れ長の目には凝った装飾の銀縁メガネをかけている。
彼は何か本を読んでいるようだったが、アルバートが部屋に入ってくるのに気づいて顔を上げた。
グランシュタイン家長男、ウィルヘルム・グランシュタイン。
この国の第一王子であり、今は王国の財政を一手に担っている敏腕政治家でもある。
彼はソファに深く腰掛け、長い脚を組んでその膝の頂点で両手を重ね合わせたやけに偉そうな姿勢で、アルバートの到着を立ち上がりもせずに出迎えた。
「おかえり。無事で何よりだ。旅はどうだった?」
ウィルヘルムは優しい声で、楽しそうにそう尋ねる。
態度も姿勢も不遜なままなのに、ウィルヘルムの笑顔はまるで心から可愛い弟の帰着を喜んでいるように見える。
アルバートの貼り付けたような愛想笑いとは違い、ウィルヘルムの作り笑いは完璧に本心からの笑顔のように思えるのだ。
間違っても口にはできないが、テオドアにとっては彼の表情や仕草ひとつひとつが胡散臭くて恐ろしい。
「ただいま戻りました。良い経験になる、実りある旅でしたよ」
しかし、兄が兄なら弟も弟というべきか、アルバートは一切気後れすることなく、舌先だけでウィルヘルムと楽しく世間話に花を咲かせる。
旅先での出来事とその感想を話すアルバートの言葉に嘘は一つもないが、本当は興味もないくせに旅についてあれこれ尋ねるウィルヘルムの相槌も相俟って、二人の会話はどこまでも薄っぺらく聞こえた。
上辺だけの会話をしばらく続けてから、ウィルヘルムは書類の束をアルバートに差し出す。それが本題だろう。
今回の旅にまつわる提出書類だけでなく、旅に行きたいという我を通すためにアルバートが引き受けることとなった面倒でややこしい仕事の書類も多分に含まれている。
アルバートは嫌な顔一つせずにそれを受け取った。
「任せていただいて光栄です。兄上の顔に泥をつけぬよう、職務邁進いたします」
「ああ」
フッと口角を上げて、ウィルヘルムは華麗に笑った。
その後も国王との会合やいくつかの手続きを終え、いたるところで手渡されて集まってきた書類を手にアルバートは広く長い廊下を歩く。
行く先はアルバート専用の執務室だ。
王城の中は回廊になっており、扉がいくつも隣同士に並んでいる。扉の向こうは大きな一部屋になっているところもあれば、小部屋がいくつも連なっているところもある。
決まった人しか使えない隠し部屋なんかも少なくないため、アルバートはともかくテオドアはその全貌を知らない。
何を隠そう、今から向かう第三王子に割り当てられた執務室にも、防音の隠し部屋がついている。
そこで世間には明らかにできない問答がなされているのをテオドアは幾度も聞いたことがある。
王族には……特に彼には秘密が多い。
執務室の鍵を開け、アルバートはカーテンの閉まった薄暗い部屋に入っていく。
テオドアもあとに続き、執務室の扉を後ろ手に閉めた。
「悪いけれど、手分けしてくれるかい? この量では今日が期限のものを終わらせる前に今日が終わってしまう」
アルバートは執務机の上に大量の書類を広げ、困ったように眉を下げた。テオドアはその近くまで歩み寄り、書類の内容を見分する。
「元より手伝うつもりです。事実を書くだけの書類はもらいますので、殿下は殿下ご自身にしか書けないものを……」
そう言いながら、一例としてテオドアが紙の束から抜き出したのは、国王専属の執事から手渡された一枚の用紙。びっしりとマス目で埋め尽くされたそれは感想文の原稿用紙である。
「私に紀行録を書かせるとは。長くなるに決まっているのにね」
何を読んで育ったと思っているのか――どこか少し恍惚とした表情でアルバートはそう呟いて、執務机に向かった。




