38.きっとまた近いうちに
東の空がだんだん明るみはじめているのを見て、ナターシャは逡巡した。
ショートスリーパーで野宿にも慣れている自分と、おそらく日々上質なベッドで長時間睡眠をとっているであろうアルバート王子では必要な睡眠時間は全く違うだろう。
起こしていいものか、ぴっちり閉じられたテントの幌を見ながら数秒悩む。
「……起きてください。山で野宿して日の出を見ないなんてなしですよ!」
悩んだ結果、ナターシャは思い切りテントを開け放って大声で呼びかける。起こさなかったら起こさなかったでがっかりするアルバート王子の姿が予想できたからだ。
案の定、文句も言わずアルバート王子はもそもそと寝袋から這い出してくる。その隣で、夜の間ナターシャと交代で不寝番をしていたテオドアも渋々体を起こした。
「ほら、お二人ともこちらへ!」
ちょうど朝焼けがあたりを照らし、雲がだんだん紫に染まっていく。
幻想的な景色ができるだけよく見える方へ、昨日散々危険だとかなんとか言い争った急な山道に踏み入ってナターシャは手招きをした。
アルバート王子はまだ寝ぼけた顔でついてくる。
「急に遠慮がなくなりましたね……」
苦笑しつつも、テオドアがナターシャの分まで気を配りながら二人の後ろにつく。
崖際を少し進むと木々が減ってその分空がよく見える。
コンコルド渓谷の雄大な森と鮮やかな地層、それから日光を浴びてきらめくせせらぎ。
それらの絶景を全て引き立て役にして、遠くの空から太陽が登ってくる。
世界が紫色からピンク色、そして赤に染まっていくまでの少しの時間、ナターシャもアルバート王子もテオドアも、一言も発さずにその光景にただ見入っていた。
どこまでも幻惑的で非日常なその風景は、日常の全てを洗い流すような美しい光を放っていた。
* * *
「この食事ともこれでお別れか……」
三食連続で食べている乾パンを見ながらアルバート王子が呟いた。
不便を愛する好奇心旺盛なアルバート王子にとっては乾パンとの別れも寂しいものらしい。ナターシャにはもう思い出せない感情だ。
「またどこか旅に行けば飽きるほど食べることになりますよ。これが最後じゃないんでしょう?」
「ああ。近々他の場所にも行くと思うよ。君の書いていたところも含めてね、計画を練っているところだ」
「厳密には承認待ち、ですね」
テオドアに横から言われてアルバート王子は肩をすくめる。王子様ともなると旅行一つ行くのにも煩雑な手順があるらしい。旅程表を一枚、前日に兄に突きつけてきただけのナターシャとは大違いだ。
「貴族というものはまったく面倒だね」
いたずらっぽく笑ってそう言ったアルバート王子には、自分のズボラさを黙っておくことにした。
腹ごしらえを終えて、一行は出立の準備を始める。
アルバート王子たちの野営道具はさすが王家の所有物と言うべきか、丈夫なだけあって片付けるのも一苦労である。
終える頃には三人とも寝起きの気配をすっかりなくし、うっすら汗をかいていた。
「お待たせしました。出発しましょう」
最後まで荷物の用意に時間がかかったのはテオドアだった。二人分の荷物を一人で運んでいるのだから当然だろう。
いい従者を持ったというべきか、アルバート王子が人に世話を焼かれるのが上手いというべきか。
どちらかというと後者な気がする、とナターシャは少し自分の性格を恨めしく思った。
昨日通ったのと同じ、渓谷に沿って続く道を下っていく。
森を降りればアルバート王子たちの迎えが来るという海岸に出られる。今朝には迎えが来ると言っていたから、早く降りないと迎えを待たせることになるだろう。何かあったのではないかと不安になられても申し訳ないので、渓谷に見惚れていたい気持ちを抑えて早足で通り過ぎる。
やがて、昨日ナターシャとアルバート王子たちが別れの挨拶をした、森の入り口まで辿りつく。
「昨日はずいぶん淡白な別れで拍子抜けしましたが……今思えばあの時点で引き返す気だったのですね、お二人は」
「うん、その通り。君は隠し事が下手だとテオドアと話していたよ」
「気になっているものの方に視線を送るのをやめるところから心がけると良いかと」
耳の痛いアドバイスをされてナターシャは口ごもる。
そんなに昨日の自分は空ばかり見ていただろうか。社交は苦手なナターシャが百戦錬磨であろうアルバート王子とテオドアに隠し事をできないのは、言われてみれば当然かもしれない。
しかし、苦手だからといってずっと避けつづけられるわけでもない。ナターシャは昨夜自分で叩いた大口を思い出して、何か言い訳しようと言葉を探すのを止めた。
世界中に……少なくとも国中に自分の『紀行録』を、そして旅の楽しさを広めるには、まず影響力を持つところからだ。今までのように物好きな辺境伯令嬢の道楽として書いているだけでは、届く先は亡き親バカの父に定期購読の契約を頷かされた可哀想な貴族の皆様や、同じく物好きな王子様だけである。
少しは苦手克服に向けた努力をすべきだろう。そう思ってナターシャは苦虫を噛み潰したような顔になりながら地を這うような声で言った。
「精進します……」
「ふふ、嫌そうだな」
アルバート王子が思わずと言ったように吹き出した。笑われたって、王子のようにいかにも貴族らしい見た目も所作も言動も持ち合わせていないのである。
笑うと綺麗に持ち上がる口角とか愛想笑いにピッタリだろうな、とまじまじアルバート王子の顔を見つめていると、王子は眉と口角を軽やかにあげて微笑み、首を傾げた。そう、こういうのができない。ナターシャはげんなりする。
「では、今度こそ本当の別れを惜しみましょうか」
森に分け入る直前で立ち止まり、テオドアがナターシャに右手を差し出す。
ナターシャは躊躇いなくその手を取ってがっしりと握手をした。騎士らしい大きな手と誠実な眼差し。気遣いができて万能な彼が見た目だけで不利益を被らないよう、微力ながら祈って、握る手に力を込める。
想いが伝わったわけでもないだろうが、テオドアは顔を綻ばせて言った。
「大変お世話になりました。ありがとうございます」
「こちらこそです。何度も助けられました」
具体的にはパワー面で――と思ったのは心にしまって、ナターシャは握手した手を解いた。
続いてアルバート王子の方に向き直る。
「王子殿下におかれましても……えっと」
「そういうの苦手だろう? いいよ、名前で」
にこり、と笑ってアルバート王子は手を差し出した。握手にしては少し位置の高い気がする手を深く考えずに握ると、グッとそばに引き寄せられる。
抱き寄せるまではいかないものの、距離が近づいてまつ毛の本数が数えられそうなくらいだ。ナターシャは硬直する。振り払おうと思えば振り払えたが、振り払うほど悪いことをしているわけでもなく、ただ少し距離が近づいただけだから、余計にどうすればいいのかわからない。
アルバート王子はからかっているわけでもないらしく。
ナターシャの目を真剣に射抜いて言った。
「“旅好き娘”がずっと好きになったよ。きっとまた、近いうちに」
「近いうちに?」
「同じ貴族で、同じ旅好き。再会しないとは思えないだろう?」
ぱちり、至近距離でウインクを浴びてナターシャの硬直は解ける。王子様成分の過剰摂取だ。
アルバート王子の手をするりと抜け出して、ナターシャは半眼になって言った。
「王子殿下は社交辞令がお上手ですね。見習わせていただきます」
「だから、名前でいいって」
「ふふ」
改めてナターシャはアルバート王子の方に手を差し出し、しっかりと握手をした。
「再会を楽しみにしています。アルバート様」
名前を呼ぶと、アルバート王子は貼り付けた王子様スマイルを崩し、歯を見せて嬉しそうに笑った。
出会いがあれば別れもありますが、これはきっと前向きな別れ。
『旅好き』第1章、これにて完結となります! といっても、まだまだナターシャの使命は始まったばかり。
明日からは数話の幕間として、ナターシャとアルバート王子が戻っていくそれぞれの日常の話をお送りします。
そして第2章、ナターシャの夏の旅へと続きます。
どうぞお楽しみに!




