2.ファン第一号(シュタイン王国第三王子)
「会えて嬉しいよ、"旅好き娘"――ナターシャ・パルメール嬢。王立学院ぶりかな?」
透き通る翡翠色の目を細めてそう笑ったのは、何を隠そうどこからどう見ても間違いなくこの国の第三王子。アルバート・グランシュタインその人だった。
驚愕のあまり、ナターシャは弾かれたように立ち上がり、数歩後ろへ後ずさる。
貴族は苦手だ。貴族社会になじめないから、こんな恰好でこんな山奥にばかりいるのである。
彼の言うとおり、ナターシャはアルバート王子と歳が近いため、王立学院の在学時期がかぶっていた。学院の人気者であった王子のことを当然ナターシャは認識している。
肩までさらさらと流れる金の細い髪に陶器のような白い肌、微笑むと絵に描いたように上がる口角と、王家の血を引く者だけが持つ翡翠色の瞳――とにかく整った容姿をしているうえ、頭脳は明晰。王子という高貴な身分にもかかわらず、他者を尊重する人格者だという評判も聞いていた。
そのうえで、ナターシャは学院生活で王子の視界に一度も入っていない自信がある。ナターシャも興味がなかったし、興味を引かれることもしていない。慣れない社交と慣れないスカートに苦戦しながらひっそりと過ごしていたのだから。
それなのに、どうしてアルバート王子はこんなにきらめく満面の笑みで自分との出会いを喜んでいるのか。ナターシャは眉間にシワを寄せながらなんとか答える。
「ええと……喜ばれるようなことは何もしていませんが……」
「ああ、たしかに、この気持ちは私の一方通行だったね。きちんと説明しよう。テオドア、あれを」
「はい」
テオドア、と呼ばれた後ろの青年は、そこで初めてフードを外した。異国風の顔立ちに短い黒髪。やはりナターシャの見立てどおり肉体派らしく、ローブの隙間から見える首だけで筋肉量の多さがわかる。彼はそんな大きな身体を丁寧かつ慎重に動かして、懐から1冊の本を取り出した。
「げっ」
見た目だけで何度も読み返されていることがわかるそのくたびれた本を見て、ナターシャは思わず低い呻き声をあげてしまう。
「『旅好き娘の気まま紀行録』第7巻――つらいときいつも読み返しているんだ。もちろん最新の10巻まで揃えてあるけれどね? これが特にお気に入りの巻さ」
「そんな用途の本では……」
凝った装丁ではないその本は、持ち歩きに堪えなかったようで表紙は色あせているしところどころ破れそうだ。しかし、テオドアから受け取ったぼろぼろの本を、アルバート王子は大切そうに撫でる。本当に気に入られているらしい。
つらいときに読んで助けになるようなことは……少しくらいは旅先で浮かれて書いているかもしれないが、ナターシャにそんなつもりはなかった。服の下で冷や汗を流して変な顔をしているナターシャに、アルバート王子は笑顔を向けた。
「当然、君の旅路そのものにも惹かれているよ。それまで紀行録は読んだことがなかったのだけれど、君のおかげでこの国で旅をすることが私の夢になった……そしてその夢が今まさに叶っているのさ!」
アルバート王子は手の中の『紀行録』第7巻をナターシャの方に向ける。向けられなくとも作者なのでよく知っているが、その表紙には今と同じくらいの季節の、緑溢れるムルデ湖畔の絵が描かれている。なるほどその景色を見に、この時期と場所を選んでやってきたのだろう。
ナターシャの内心で喜びと困惑が渦巻く。
自分の紀行録をきっかけに誰か旅を始める人がいたら――それはずっと夢見ていたことだ。ナターシャが旅の記録を熱心にまとめつづけている理由の一つであり、実際にあとがきにも何度か書いたことがある。相手をおすすめの酒場にでも案内して乾杯したいくらいだ……ふつうの読者ならば。
しかし、いま目の前にいるのはこの国の第三王子だ。学院では黄色い声援を浴び、将来は王にはならずとも国の要職に就くのだろう。貴族社会を遠ざけて生きているナターシャは、どんなふうに振る舞えばいいのかわからない。
「そ、それは光栄です……あはは……」
愛想笑いをしようにも顔を引きつらせるナターシャを見て、アルバート王子は慌てて言葉を掛ける。
「そんなにかしこまらなくていい! 『旅先では生まれ持った身分もしがらみも関係ない』――君が言ったことだろう?」
「な、なにそれ、私そんなこと書きましたっけ」
「うん。第8巻、君がフルルシール領の道の駅で庶民の子どもたちに交じってカードゲームをしたときの描写だったかな」
あ、この人怖い人だ。
いろいろ取り繕おうとして浮かべていた笑顔がとうとう崩れる。ただでさえ愛想笑いは苦手なのに、突如現れたこの王子はナターシャの理解の範疇を越えていた。自国の王子が自分の本を読んでいて、しかも文章を暗記しているほどの熱心なファンだなんて。いっそ厄介なドッキリだと言われたほうがまだ納得がいく。
ナターシャは体の向きを変えないままそっと後ずさる。後ろ手で、足元に置いていたリュックの場所を確かめた。つまり、この場から逃げようとしているのである。
左手の指先が使い慣れた革の感触をとらえる。手を伸ばしてリュックの上部についた手持ち用のベルトを握った。逃げる準備が整ったまさしくその瞬間に、アルバート王子が口を開く。
「旅は初めてで、詳しくなくてね。ここで会ったのも何かの縁、よければご一緒させてくれないかな?」
よければ、などと言っているが王子の頼みだ。つまり勅令、断るという選択肢はない――
「――ごめんなさい嫌ですちょっと怖いので!!」
しかしナターシャは勢いよく頭を下げて断った。そのまま湖に沿って走って逃げる。追いかけられても山道で逃げ遅れることはないと思っていたが、彼らはそもそも追ってこなかった。
あとで後悔することになるだろうか。でも旅先では身分は関係ないと言ったのは向こうだ。いや過去のナターシャの言葉らしいが。
見つからないようにできるだけ鬱蒼とした道を通って、湖を離れる。
森を抜けたところで歩調をゆるめる。ただ走っただけとは思えないほど息が上がっていた。気が動転しているのだ。突然すぎる、とんだ出会いである。
スケッチは終わっていたからよかったものの、これはさすがに紀行録にも書けないだろう。気を紛らわせるようにそうぼやきながら、ナターシャは一時の宿としているパルメール家の別邸へ戻った。




