33.王家の紋章
「一人だったら今ごろ君はあのトラと一緒にこの崖を真っ逆さまだ。分かっているのかい?」
ナターシャを襲おうとしたのは、小さな羽のついたトラだった。
倒れ込むアルバート王子とナターシャに向かってグルグルと唸っていたが、後ろからテオドアの手刀で気絶させられて今は目を回している。
やっと驚きで抜けていた体の力が戻って、アルバート王子から離れて立ち上がることができた……と思ったそばから、怒涛のお説教が始まった。
心配されていたこともわかるし、実際一人では命を落としていたかもしれない。
ナターシャ自身も分かっているので反論はできなかった。
「……ごめんなさい」
ナターシャは力無くそう呟くしかない。
アルバート王子の咄嗟の行動のおかげで、ナターシャには一つの外傷もなかった。強いて言うなら地面を転がったときにぶつけた膝が痛むくらいか。
しかし、ナターシャを庇うために地面に下敷きになってくれたアルバート王子の方はそうもいかないだろう。地面にも岩壁にも、ナターシャより強く体を打ちつけていたはずだ。
テオドアが王子に駆け寄って怪我がないか確かめるのを、ナターシャはオロオロしながら見守った。
「背中がチクチクする……」
アルバート王子がそう言ってテオドアの方に背を向けると、テオドアは血相を変えた。ナターシャも近寄ってよく見ると、服が破れて血がにじんでいる。崖だか有刺鉄線だかで深くこすったらしい。
テオドアが手当てのために素早く王子の服を脱がせはじめたので、ナターシャはそっと目を逸らす。
自分のせいで王子殿下に怪我をさせたことのある貴族令嬢なんてそうそういないだろう。
どんな処分が下るのだろうとナターシャの背中を冷や汗が伝う。何事もなく帰るにはアルバート王子が『紀行録』のファンでいてくれることに賭けるしかないのでは。
一瞬で最悪の事態を想定するナターシャだが、アルバート王子本人はけろりとしていた。
「血が出るような怪我なんて何年ぶりかな。もしかしたら初めてかもしれないね、いい経験をした」
大切に育てられすぎると人の価値観は歪むのだろうか。傷を消毒されながら楽しそうなアルバート王子に、テオドアは困ったようにため息をついている。
しかし、自然の中で負った怪我は後々菌が入って悪化することも少なくない。アルバート王子が思っているより大ごとだ、というのはナターシャだけでなくテオドアももちろんわかっている。容赦なく消毒液をかけ、回復薬の染みこんだガーゼで傷口を守ったところで、テオドアは立ち上がった。
テオドアが自分の方に向きなおるのを見て、ナターシャは覚悟する。
ひどく怒られ責任を問われるに違いない。王子の言いつけを破って一人でここに来たのだから。
ルーガクックを助けに行くことももう叶わなくなってしまったし、帰ったあとは家を巻き込んで王家に謝罪して――そういうことが起こらないために社交から遠ざかってきたのに。
ナターシャは諦めムードでテオドアの言葉を待つ。
しかし、次に紡がれた言葉はナターシャの予想とは真逆だった。
「お待たせしました。応急処置は済みましたので、進みましょう」
「え?」
わけもわからず間抜けな声をあげるナターシャのことはほったらかしで、テオドアは有刺鉄線に近づく。
厚い手袋をして鉄線を掴み、ずいぶん軽量化されたように見えるぺたんこのバックパックの中から護身用の短剣を取り出して、ざくざくと切っていく。あっという間にバリケードはすべて切れて通れるようになった。
その間もナターシャの頭の中は疑問だらけで、何が起こっているのか理解できない。
そのまま土砂崩れの名残をどけて進んでいこうとするテオドアに、ナターシャは慌てて駆け寄る。
「ま、待ってください、テオドア様は反対していたのでは? 危険でしょう、王子も怪我をして、いや私のせいなのですが……!」
言いたいことがまとまらずあたふたと顔の前で手を振ることしかできないナターシャに、テオドアはふふっと笑いをこぼした。笑われるいわれもないのでますますナターシャはわけがわからなくなった。
助け舟を出すように、アルバート王子が横から説明を挟む。
「ふふ。そのバリケードについている紋章旗は見たかい? どこかで見たことはないかな?」
そう言われてバリケードを改めて見る。絡み合う有刺鉄線の真ん中に、たしかにどこかで見たような紋章の刺繡がなされた布が吊ってある。こんな山奥で見かけるにはつりあわない、豪華な模様だ。
何のしるしだったか、と一瞬考えるが答えは目の前にあった。アルバート王子とテオドアの着ている服やあらゆる持ちものに、同じ紋章が入っていた、つまり。
「王家の紋章? こんなところにどうして……」
「どうしてだろうね。とにかく――」
アルバート王子は有刺鉄線で手を切らないよう注意を払いながら、風に吹かれてなびく王家の紋章旗に手をかける。そして、思い切り引きちぎった。
刺繍糸がぷちりと切れてせっかくの荘厳たる紋章が見るも無残にくずれる。
「私が知らないということは、よくないことだと思わないかい?」
引きちぎった布を手の中でぐしゃりと握りつぶして、アルバート王子は笑顔を見せた。旅の中で何度か見た、目じりを下げて楽しそうに笑うあのキラキラした笑顔ではなく、口角は上がっているが目はちっとも笑っていない貴族の笑顔だ。
先ほどまでとは違う理由でナターシャは冷や汗をかく。やっぱり、貴族社会っておそろしい。
言葉を失うナターシャの前で、アルバート王子は威圧的な笑顔をといた。
「まあ、君は政治闘争には興味はなさそうだからね。誰の仕業だとかは話さないでおくよ。今言いたいのは、王家の関係者がここまで安全にやってくる術が他にあるんじゃないかってことだ。まさかあの細い崖を好んで登ってくる王族なんて私くらいだろうからね」
へらりとそう言って目を細めたアルバート王子の表情を見てナターシャはひどく安心する。
このおてんばで愛嬌のある王子も本来は貴族なのだと、当然のことを今更実感して怖くなっていたのだ。
緊張を少しゆるめたナターシャとは対照的に、先を行こうとしていたテオドアは顔をしかめてため息をついた。
「誇ることではないでしょう。しかし、この先にもっと安全な道があるのは確かだと自分も思います」
反対は反対でしたが、と目を半分にしてげんなりした表情を隠しもせずに言う。
しかし、テオドアはナターシャを責める気は一切ないらしく、安心させるように肩をすくめた。
「ほかに懸念は?」
「え――ええと。王子に怪我をさせてしまい、」
「ああ。うちの殿下が勝手な行動をして申し訳ございません。自業自得ですので、ナターシャ様が案じられることはありません。では、行きましょうか」
ぴしゃり、と効果音がつくほどの即答でテオドアは答えた。そのまま先頭を進み、土砂崩れの跡が残る道を切り開いていく。
呆気にとられながらアルバート王子の方を振り返ると、王子はウインクしてみせる。
「テオドア、ああ見えて今すごく怒ってるんだ」
悪びれもせずにそう言うアルバート王子に、ナターシャはいたたまれない気持ちになりながらテオドアの後に続いた。
実は深い思惑が交差する王家の事情……ですがナターシャはちっとも知らないことなので、隅に置いておきましょう。ナターシャにとって今大切なのは、ルーガクックの安否だけです!




