32.そんなことだと思ったよ
一歩足を踏みしめると、パラパラ……と砂か石粒かが崖を離れて遠い地上へと落ちていく。
横幅の細い道を歩いているため、渓谷に降りたときのように崖と反対側に寄って安全に歩くということができない。
特に崖に続く右側の地面を踏むたびにパラリと何かが落ちていくので、ナターシャは右足を踏み出すたびに肝を冷やすことになる。
かなりの時間をかけて歩いてきた気がしているが、まだ頂上は遠い。半分くらいまでは来ただろうか。
ここからさらに標高は上がり道行きは危険になっていくだろう。
しかし怯えているわけにはいかない――この先に、傷ついたルーガクックがナターシャのことを待っているかもしれないのだから。
慎重に歩かなければならない分、速度を出すことはできない。目の前に続く道を地道に越えていくしかないと、ナターシャは気を引き締めなおした。
* * *
ナターシャに見送られて森の中へと紛れたアルバートは、しばらくナターシャと距離を離したところで不意に立ち止まった。
後ろを歩くテオドアがアルバートにつっかえて止まった。その顔は明らかに不服そうだ。
「そんなことだろうと思いましたが……さては殿下、まだ帰る気がありませんね?」
「うん。言っただろう、ナターシャ嬢一人では行かせないって」
アルバートは当然のように答えて踵を返す。
テオドアも渋々それに続きながらため息まじりに言った。
「ナターシャ様の嘘が下手なのが悪いですね……」
あとで少しアドバイスをしなくては、とぼやく声が誰もいない森で消えていく。
アルバートとテオドアには、ナターシャが一人でルーガクックの元へ向かおうとしていることが完全にバレていた。
血がついたルーガクックの羽根を見てどこまでも心配そうな顔をしていたくせに、突然救助を諦めると言って谷底へ降りる方の道へアルバートを誘導した時点で、かなり不自然だった。
それから、コンコルド渓谷について紹介しながら歩いている間も、谷底について川で遊んでいる間も、ナターシャはずっとチラチラ空を見上げていた。
おそらく彼女自身も無意識なのであろうその行動に、アルバートはたびたび口元を緩めそうになるのを堪えていた。
嘘が下手だとテオドアは言うが、貴族社会で生きているとここまで素直な人に会うのは珍しい。むしろ好感が持てると思うのは、ナターシャの紀行録の読者だからこその贔屓目だろうか。
紀行録を読んでいて感じ取ったのと同じ、素直でまっすぐで自然をどこまでも愛する、ナターシャ・パルメールその人らしい行動だ、と思う。
まあそれはそれとして、今のナターシャの行動をよしとする気はないのだが。
「まったく、護衛もなしにあんな険しい山に入るとは……」
アルバートの視線の先、そしておそらくナターシャが向かった先には針のように尖った山々が連なっている。
おそらくそのどこかにルーガクックは身を寄せ、羽を休めているはずだ。
危険を伴う道行きだからこそ、大勢で力を合わせて乗り越えていくものではないか――少なくともアルバートはそう思っているのだが、ナターシャは違うらしい。
末っ子とはいえ一国の王子であり、さらには山に慣れていないアルバートを危険に晒さないため、一人でルーガクックの手当てをしにいくとナターシャは主張した。
平気そうな顔をして淡々と言ってのけていたが、昨夜かその前かは旅で過剰な無理や危険は冒さないと自分で豪語していたはずだ。彼女だってあんな山々を余裕で踏破できるというわけではないだろう。
アルバートも譲らずついていくと主張したのだがかわされてしまった。
言葉で言って連れて行ってもらえないのならば、黙ってついていくしかない。
アルバート自身、別に自分が山の中で頼れる存在になれる自信はないが、いないよりはマシだろうと思う。それにテオドアもいる。
「護衛ありでも入らない方がいいと思いますが」
不平を言いながらも、テオドアはもしものときにアルバートを守れるだけの距離から絶対に離れず、誠実にどこまでもついてきてくれる。
二人は来た道を戻り、昼休憩をとった丘の上まで戻ってきた。そこにはレジャーシートに包まれたナターシャの荷物が置かれている。
自らの予想があっていたのを確信してアルバートは笑った。
「さて、“旅好き娘”はこの先かな?」
テオドアはナターシャのレジャーシートを再度広げなおして、自分の荷物もそこに置く。
身軽になって、二人はナターシャのあとを追いかけた。
* * *
王子たちが後ろから自分を追ってきていることなどつゆ知らず、ナターシャは地道に山を登る。
山の中腹を越えると道幅は広くなり、ここまでの道に比べて崖に落ちる恐怖は和らいだ。
とはいえ、もちろん道は整備されているわけではない。でこぼこした地面に足を取られないように進む。
しかし、しばらくしてナターシャは足を止めた。
「これは……」
ナターシャの目の前にあるのは、崩れて岩や砂が斜めに転がっていく地面、それから張り巡らされた有刺鉄線。
地面に人の身長ほどの高さの鉄網フェンスが突き立てられており、どこに触れても怪我をする勢いで有刺鉄線が絡ませられている。
土から勝手にこんなもの生えてくるはずがない。人の手が加わっている証拠だ。
土砂崩れが起きたから、うっかり人や動物が立ち入ってしまわないようバリケードをしたのだろうか。
それならまだ納得がいくが、このあたりに住む人々がわざわざこんな山で工事をして鉄線を張るとは思えない。せいぜい近くの岩壁や木に印をつけて終わりだろう。
一体誰が――と追求したくなるが、ナターシャは首を振ってかき消した。
何にせよ、ここを越えないとルーガクックのもとへは行けない。幸い土砂崩れの跡はそこまで大きくなく、注意を払いながらすぐ向こう岸の安定した地面まで渡れそうだ。問題はその前にある有刺鉄線である。
何か使えるものはないか、ふもとで荷物を置いてこなければよかっただろうか。そう思いながらリュックを下ろす。
しゃがみこんでリュックの中身を漁るナターシャの頭上にふと、影が差した。
「危ない!!」
人なんて来ないはずの険しい山道の後ろから大きな声が聞こえる。
頭上を見上げると何か動物がこちらに飛びかかってくる姿が見えた。
しゃがみこんだ足が絡まったせいで咄嗟にその場を動くことができず、ナターシャは防御態勢だけをとってぎゅっと目をつむる。
「何してる!」
次の瞬間、大声とともに強い力で突き飛ばされる。驚いて目を開くと、視界に金の髪が映った。
ナターシャと、その金髪の持ち主は、勢いのままに地面を転がり、岩壁にぶつかる。
「最初からそんなことだろうと思っていたけれど……一人はダメだと言ったはずだろ」
ナターシャを守るように下敷きになったアルバート王子が、真剣な怒り顔でそう言った。
一人で行くのをアルバートが許すはずもなく。
ヒーローのようにナターシャを救ってくれたアルバートでした。結局三人とも危険な山の中です。
次回は明日夜更新予定です!よろしくお願いします!