31.気掛かりの谷底から
川の水とじゃれあったり、足元の石を選んで水切りをしたり。ナターシャがスケッチを描くのを、アルバート王子とテオドアがそれぞれ左右から覗き込んできたり。
一通り渓谷を楽しんで、ナターシャたち一行はまた歩き出す。
「いい遊びだね、水切り。王城の湖でもできるだろうか」
もっと練習が必要だ、とアルバート王子は真面目な顔で呟いた。
アルバート王子は外で遊ぶこと自体に慣れていないようで、水切りという遊び自体を知らず、どういう仕組みで石が水面を跳ねて進むのか不思議そうに見ていた。
反対にテオドアは意外にも腕がよく、川の向こう岸まで石を届けていた。
予想以上に白熱したその空気のまま、川に沿って下流へと歩いていく。
この先は今まで歩いてきた道よりずっと急斜面になっているので、川の流れも速く、このまま川沿いを歩いていくことはできない。
しかし、方角的にはこの川の進む先にアルバート王子たちの今日のゴールである海岸がある。少し迂回すれば、安全に、迷う心配もなく、時間もかからず海沿いに出られるはずだ。
太陽もまだ空高くにある。時計をわざわざ見てはいないが3時過ぎくらいだろうか。王子たちの足でゆっくり歩いても日没までには余裕で海岸まで辿りつけるだろう。
つまり最高のプランで、アルバート王子とテオドアをここまで送り届けたわけだ。
ナターシャのこの旅における役目は完遂されて、あとは王子たちを見送るだけ。
本当は、もっと海の近くの、森を抜けるところまで送っていくつもりだったが。ここからの道は今まで歩いた山道ほど過酷ではないし、何かあっても頼れる騎士であるテオドアがいる。
ナターシャがついていく必要はないだろう――と決めつけるのは、大きな気掛かりがあるからだ。
――キュイーーーッ!!
先ほどから、ナターシャたちが下ってきたコンコルド渓谷の上の上、山岳の先で助けを求めるように鳥の鳴き声がしていた。
きっと渓谷に降りる前に見た、血を流していたルーガクックの声だろう。
本音を言うなら、ナターシャは渓谷の景色など放っておいてすぐにでもルーガクックの様子を見に行きたかった。
このあたりの山中に入り浸っているナターシャですら昨日初めて見た珍しい種類の鳥が、傷ついて悲痛な声を上げている。あの大きな体で他にこの地域に天敵がいるとも思えず、きっと何か事情があるに違いないのだ。
しかし、鳴き声の出処である山岳地帯までの道のりはかなり危険が多い。
山に慣れているナターシャならともかく、アルバート王子たちを連れて踏み入るのはリスクが高すぎる。
だから、とりあえず王子たちを見送ってから、単身で様子を見に行くつもりだ。今も内心気が気でないが、悟られないように行動している。
もちろん、渓谷を楽しんでいたのは演技ではなく本心だ。アルバート王子とテオドアが感動しているのが伝わってきたことも素直に嬉しい。
だからこそ、このまま丸く収めて見送ってしまうのが最適だとナターシャは思う。
渓谷を降りる前、鳥を助けにいくとかいかないとかそんなことで揉めて生まれた気まずい空気は、できればもう二度と味わいたくないものだった。
「ここから脇道に逸れて、ちょうど南西に進めば近くの村の住人が使っている整備された道に行き着きます。そこからは道なりで海岸まで。安全な場所に……いえ、自宅に帰るまでが旅ですので、どうぞお気をつけて」
ナターシャは軽く手振りを交えながら道順を伝えて、その場で立ち止まって一礼する。
「ふふ。……いや、なんでもないよ」
ナターシャの様子を見てアルバート王子は笑いを漏らしたが、理由ははぐらかされた。
不思議そうな顔をするナターシャに、アルバート王子は右手を差し出す。
「世話になった、ありがとう」
ナターシャはアルバート王子の手をおずおず取って握手をした。隣のテオドアは握手の代わりに、綺麗な立礼を残していく。
予想外のあっさりした別れに、ナターシャは拍子抜けする。
いや、ナターシャにとってはこれくらいの方が後腐れなくていいのだが、王子はもっと情の出やすいタイプかと思っていた。ナターシャはこっそり首を傾げる。
森の中へ紛れていくアルバート王子とテオドアの背が見えなくなるまでその場で見送る。
二人は振り返ることもなく進んでいった。
姿が完全に見えなくなったところで、ナターシャは踵を返す。気合いを入れるように、ふう、と長く息を吐いた。
さあ、傷ついたルーガクックを助けにいかなくては。
ナターシャが昼食時に王子たちに主張したとおり、ルーガクックの寝床まで登る道のりはかなり険しい。
山に慣れているから平気だと王子たちの前では言ったが、危険であることに代わりはない。旅の安全性を最優先にするナターシャにとっては、何事もなければ絶対に立ち入らないような区域だ。
まずは、昼休憩をとった丘の上まで戻る。そこに昼と同じくレジャーシートを広げ、荷物を置いた。
人に荷物を減らせと口すっぱく言っていたナターシャだが、自分のリュックの中にもスケッチブックやノートが入っている。
要らないものを出してレジャーシートで包んでその場に置いていくことにした。どうせ誰も来ない山奥だから問題はない。
そこから北東に進むとルーガクックの声がした山の方へ登っていける。道の先を眺めると、途中から切り立った崖の上の細い道を歩かなければならないことがわかる。
怖くないと言えば嘘になる。
しかし、ここで怯えてもたもたしていては、日が傾いてより危険になる。それに――
――キュウウーーン!!
自然に生きる、あの雄大な動物のためだ。
ナターシャは自分を奮い立たせて、命綱代わりのコイルスネークの抜け殻片手に急な坂道を登りはじめた。
一人で行ってはだめだと言っているのに、ナターシャは無茶をしますね。アルバートはあっさり森へ降りていってくれたようですが……熱心なファンを名乗るおてんばな彼がそんなに簡単に引くものでしょうか?ふしぎだなー。
次回は明日夜更新です。よろしくお願いします!