30.コンコルド渓谷
鬱蒼とした獣道をしばらく進むと、向かって左側だけ草木が少なくなり、視界が開けてくる。
植物の生えない岩肌がむき出しになっていて、そのまま谷の下へとつながっているのだ。
当然、人の来ない山奥の渓谷なので手すりやロープは整備されていない。傾斜のある岩肌の先は地続きに見えているとはいえ、もしも足を踏み外して落ちようものなら谷底の川まで隔てるものなく一直線だ。
間違ってもそんなことにならないように、ナターシャたち一行は道の右側、森へと続く方にできるだけ寄って歩いている。
幸い、崖の端まで近づかずとも、雄大な渓谷の景色はよく見える。
渓流のゆく方向と並行に続く道を慎重に下りながらも、三人は絶景に囲まれて感嘆の息を漏らしていた。
「もう少し進むと、滝も……ほら、あそこです」
ナターシャが先頭で指をさした遠く先、川を挟んだ向かい側では、川の支流から流れ込んだ水が白く流れをきらめかせながら、ごつごつした岩場を流れ落ちている。
「本当だ! たしか、もう少し先まで行けば川の近くまで降りられるのだったよね。あの滝にもいけるかい?」
「それは難しいかもしれません。向こう岸に渡らないといけませんが、近ごろは雨が多いので川の水が多くて」
「そうか。滝行というものに興味があったのだけれど」
「あの小さな滝ではできないと思いますよ……」
ナターシャが呆れ声で言うと、後ろの方でテオドアが笑っているのが聞こえてきた。アルバート王子もつられて恥ずかしそうにくすくす笑う。
気まずい雰囲気は、壮大な自然のおかげかかなり解消されている。
しばらくまっすぐに歩き続けると、だんだん渓流のそばまで近づいてきた。
透き通る水面と、反射する緑の音がよく見える。川の中を小魚が群れをなして泳いでいるのが見えて、ナターシャは微笑んだ。
「そういえば、雨のあとですが川は濁って見えませんね」
水面をしみじみと見つめながらテオドアが言った。
ナターシャも懸念していたことだが、幸い泥水や濁流が混ざることはなかったのか、混ざったとしても大雨から丸一日経って流れ切ったのか、川の水は透き通っている。きっとこの三人のうち誰かの運がいいのだろう。
長い下り坂をどんどんと進んで、やっと谷底に辿りついた。川のそばは砂利が転がっていて、ざくざくと踏みしめながら歩くとなんだか楽しい気分になってきた。
ナターシャは谷底で立ち止まって振り返り、川の上流の方向を眺める。
「上から見下ろすより下から見上げた方が、ずっと迫力があると思いませんか? 自分が自然の中に入り込んだ気分になれて」
「そうだね……」
アルバート王子とテオドアもナターシャと同じように渓谷の風景を仰ぎ見る。
横並びになってしばらくそうしてぼんやりと景色を眺めた。
ときどき白い波を立てながら流れる水と、風にそよぐ水草。
透き通っていながらも新緑の色も反射してエメラルドグリーンに輝く川の水と、谷底に広がる砂利の灰白色のコントラストが目に映える。
そこからもっと上に視線を向けると、茶色い山肌に地層が現れているのがわかる。山肌の凹凸に沿ってうねる地層の流れは、一言に茶色と言っても何十、何百もの色が重なりあっている。
きっとこれまでこの山が経てきた時代の重なりが、そのまま可視化されているのだ。
そしてその山肌の上には、まるでナターシャたちの方を飲み込みに向かってくるかのような森の木々が見える。青く茂った葉が風にそよいで、森はひとつの巨大な塊のようになって動いていた。
自分たちの足で下ってきたとは思えないほど遠い山道の先まで、ずっと巨大な森は続いている。
感動しながらも、まったく人の手の入っていない風景が少し底知れぬ怖さも感じさせる。
アルバート王子はおそらく声に出すつもりもなかっただろうひとりごとを小さく呟いた。
「この道を歩いてきて……そして帰るのが、旅か」
深刻に放たれた言葉が聞こえてきて、ナターシャは思わず顔をほころばせた。
相手が王子でなかったら固く握手して同意を示したいくらいだ。
旅というのは自然との出会いで、帰るまでが旅だが帰りたくなかったり、無事に帰れるか不安になったりもする。
それでも非日常に足跡を刻んで、その思い出を持ち帰って日常に戻るまでのこの特別な時間が、ナターシャが旅に魅入られた理由でもある。
自然の中の空気をめいっぱいに吸って、ナターシャは目を閉じ、数回深呼吸をした。
その間にアルバート王子はもう隣からいなくなって、川のせせらぎの方に移動してしゃがみこんでいた。興味津々に水の中を覗きこんでいる。
テオドアも王子についていって、心配そうに後ろから見守っている。
「念のため聞いておくけど、ここに毒のある魚はいるかい?」
水を触ってみたくなったのだろう。ナターシャはこっそり保護者気分になりながら答える。
「ここの小魚はみな無毒ですよ、大丈夫です」
ナターシャの答えを聞いてアルバート王子は嬉々として川のせせらぎの中に手を入れた。冷たい水に驚きながらも水面で遊んでぱしゃぱしゃと水滴をはねさせている。
「あ、でもカニがいるので、挟まれないように気をつけてください」
そう言いながら横から覗きこむと同時に、水面の揺らぎを感知した小ガニが水底の岩の裏からひょっこりと顔を出した。
アルバート王子は慌てて水の中から手を引っ込める。
「早く言っておくれ!」
手を引いた勢いで後ろにのけぞり、そのまま背後に立っていたテオドアの足に背中をぶつけていた。アルバート王子の過剰な怯えようを見て、ナターシャはからかうようにけらけら笑う。
笑われて不服そうにしながらも、王子も楽しそうに濡れた手を拭いた。




