29.行き違いの心配
血にまみれたルーガクックの羽根を見て、ナターシャとアルバート王子はほぼ同時に同じことを考えた。
「行かなくちゃ」
そう言ってアルバート王子が立ち上がるのと、ナターシャが手元に残った乾パンを無理やり口に詰め込んだのが同時だった。
降ってきたのが食べられた側の小鳥の羽根なら、ナターシャは何とも思わなかっただろう。自然の中を旅していれば、ときに残酷な光景を目にすることもある。
しかし、この場で巻き起こる食物連鎖のおそらく頂点であろう巨鳥、ルーガクックが血を流しながら叫び声をあげていたとなると話は別だ。
自然の摂理ではなく、何か事情があって傷ついたとしか思えない。
そもそも人里にめったに姿を見せない怪鳥に、こうして2日連続で遭遇している時点で何か事情があるに違いないのだ。
誰もそれ以上言葉を発さなかったが、なんとなく互いの考えていることを察する。
テオドアもアルバート王子に続いてしぶしぶ立ちあがった。
「様子を見に行くつもりですか? どこにいるかもわからないのに」
あまり乗り気ではない様子で言いながらも、アルバート王子が行くというなら護衛であるテオドアもついていくしかない。
荷物を片付けて、頭上を通り過ぎた鳥の影が向かった方向に歩き出そうとする二人を、ナターシャが制止する。
「……ここから先はかなり切り立った崖になっていて危険です。渓谷に向かうなら北東側の獣道から下ること。ルーガクックが向かった北西側に進むと、急な岩肌に沿って不安定な山道を登っていくことになります」
「そう言って君も向かう気だろう?」
「ええ、向かいますよ。でもひとりでです」
あとから遅れて立ち上がったナターシャはにべもなくそう言った。
事実、山に慣れていないアルバート王子や大荷物のテオドアが安全に歩けるような道は、向かう先にはないのだ。
かといって、傷ついた訳アリの生き物を見捨てて観光する気分にもなれない。それはアルバート王子たちもそうだろう。
だからこそ、ナターシャが様子を見に行かないという選択肢もない。
「お二人は先に下に降りていてください。ルーガクックの様子を見て……できれば手当てをしたら、すぐに追いかけますから」
「手当てって……」
テオドアも眉をひそめてナターシャを見る。
旅のこととなるとナターシャには異を唱えない二人だが、今回ばかりはそうもいかなかった。
「君がひとりで行くのはナシだ。絶対にダメ、全権力を使ってでも許さないよ」
「全権力って……冗談でもおそろしいこと言わないでください」
「冗談なものか! 危険な道と聞けばなおさら、女の子ひとりで行かせるわけないだろう!」
アルバート王子は眉間にしわを寄せ、語気を強めてナターシャに詰め寄った。
端正な顔できつく睨まれると凡庸な顔立ちの人のそれより何倍も恐ろしい。つまり兄や父に叱られたときよりずっとナターシャはひるんでしまう。
こんなところで、初めてアルバート王子の容姿の美しさを実感した。それも悪い意味で。
「でも……本当に、この先は、お二人の安全を保証できません」
気勢をそがれて、ナターシャはそう言うことしかできない。
自分の役目は、アルバート王子とテオドアという旅の初心者たちを安全に、楽しく、旅の最後まで送り届けること。ナターシャはそう思ってここ二日間動いてきた。
それをここまで来て、明らかに危ないとわかっている崖の方へ王子たちを先導していくなんて、絶対にしたくない。
ナターシャは目を閉じて少し考え込み、ため息をついた。
息を吐ききって次に目を開けたそのときには、まっすぐな眼差しで王子の方を見て、すっぱりと言い切る。
「では、あの鳥のことは見捨てましょう。野生の動物はたくましいもの、人の手などなくとも自分でなんとかするでしょう」
「それは――」
「そういうことでしょう? シュタイン王国第三王子の命とどちらが大切ですか?」
わざと嫌な言い方をした自覚はあった。今度はアルバート王子が反論の言葉をなくす番だ。
最初から助けに行くことに乗り気でなかったテオドアは、会話の潮流を見て即座にナターシャの味方をする。
「ナターシャ様の言う通りです。もちろん有事の際は必ずお守りしますが、無用な危険に自ら飛び込む必要はないはずです」
「そうですよ。さ、気持ちを切り替えて待望の絶景を楽しみましょう?」
ナターシャは顔に笑顔を張り付けて、床に広げたままだったレジャーシートをたたむ。
荷物をまとめて向かうのは上り坂ではなく下り坂、渓谷のそばまで下っていく安全な道の方だ。
有無を言わせないナターシャとテオドアの態度に圧されて、アルバート王子も後ろ髪を引かれながらそちらに続く。三人の間に、冷えた気まずい空気が流れる。
しかし、ナターシャはバレないようにほっと安堵の息を心の中だけで吐いていた。
怪我をしたルーガクックのことを諦めるつもりは、ナターシャには到底なかった。ただ、少し順番を変えるだけ。
とりあえず渓谷の美しい景色を楽しんで、アルバート王子たちが下山するのを見送って、そのあとで改めて戻ろうと考えたのだ。
王子たちの目が届く範囲ではきっと単独行動を許されないだろうから、それしか手段はない。
そうと決まれば、とにかく今は目の前の絶景を心行くまで楽しんで、満足してもらうしかない。
秘めた作戦を悟られないように、あたりの地形について説明しながらナターシャは渓谷まで続く獣道を早足で先導した。




