28.食物連鎖の頂点
翌朝。
ナターシャ、アルバート王子、テオドアの順で山道を歩く。今日も幸いにしていい天気だ。
空は快晴とまではいかないが、晴れて太陽の光が降り注いでいる。
昨日と同様、朝から準備運動と朝食を済ませ万全の体制で出発した。昨日の疲れが残ってはいるが、ぐっすり眠って体力も回復している。
一つ違うことがあるとすれば、テオドアの背負うリュックサックの大きさだろうか。
昨日はいらないものを雪割邸に置いていけたが、今日はもう雪割邸に寄らずに夕方そのまま下山するという王子たちの荷物は、すべてテオドアの背にのしかかっている。
これでも十分荷物は減らした方だが……ときどきテオドアが木に引っかかるので、そのたび三人は笑いながら足を止めることになる。
今日の目的地は、アルバート王子が見たいと言った絶景のうち最後のひとつ。コンコルド渓谷という場所だ。今夜、パルメール領の西側に広がる海のそばで野宿をするつもりだという王子たちにとっては、西へ移動する道中に立ち寄ることができる絶好のスポットである。
もちろん、かつてナターシャも訪れて『紀行録』に記したことがある。
川の流れによって形づくられた渓谷の、むき出しの地層は一種のアート作品のように独創的な模様を描き出す。今の時期は生い茂る緑も見られて、涼しく心地よい空気が味わえるだろう。
他にもナターシャは『紀行録』の中でいくつか自領の絶景スポットを紹介しているが、アルバート王子が選んだのはどれも季節に合った場所ばかりだ。おそらく『紀行録』を入念にリサーチした結果だろうと思うと作者としては気恥ずかしいのだが、とはいえアルバート王子の計画力はかなり優れている。
いいところに行くなあ、と、ナターシャは王子たちを案内しながら自分もしっかり浮ついた気分だ。
「結局最後まで案内してもらったが……君はよかったのかい? 他に行きたいところはなかった?」
ナターシャの心を読んだかのように、アルバート王子が後ろからそう尋ねた。前を歩くナターシャに聞こえるよう大きく声を張っている。ナターシャも大きめの声で端的に返事をした。
「ええ! 私はいつでも来れますから」
足を踏み外してはいけないので、顔は前を向けたまま声だけで答える。
実際、出発前に領主である兄に提出してきた旅程表は、いくつか今回の旅と違いはあれど大筋は変わらない。旅の楽しさを知ってから十年余りが経ち、改めて自領を旅してその美しさを再確認しようという趣旨の旅だ。父のメモ書きを見つけたことで行きたい店が増えたりもしたが、それは別の機会でもいいだろう。
今はとにかく、王子リクエストの渓谷だ。
もちろん、今日行く道もけして平坦ではない。一行は、上り坂をじわじわと落ち着いたペースで進んでいく。
やがて太陽が南の空の頂点を指す頃。
目的地である渓谷が近づいてきて、もうすぐ到着というところでナターシャは足を止める。上り坂が終わった、ちょうど丘の頂上の開けた場所だ。
「おや、ここまできて休憩かい?」
「もう木々の隙間から絶景がうっすら見えていますが……」
テオドアの言う通り、もうコンコルド渓谷は目前である。生い茂る木々が邪魔をして全貌は見えないが、下り坂の向こうに川とそり立つ崖のような地層面が見えている。
だからこその休憩だ。ナターシャは持ってきたレジャーシートを床に広げる。
そして、リュックから携帯食を取り出した。
「ええ、お昼休憩です。ここで食事をとっておかないと、渓谷に近づくと腰を据えられる場所がなくなりますから」
そう、ここから先は崖沿いに細い道を進んでいかなくてはいけなくなる。空きっ腹でふらふら歩いていてはあらぬ危険も生まれかねない。残念ながら今日の昼食はただの質素な携帯食だが、栄養補給にはなるだろう。
ナターシャの勧めに従って、アルバート王子とテオドアもレジャーシートの上に座り、乾パンの袋の封を開ける。
他愛もない会話をしながら――厳密にはアルバート王子とテオドアの会話に相槌を打ちながらちまちまと乾パンをかじる。そうしていると、ちらほらと周りに虫が集まってきた。
「う……苦手ではないけれど、食事中は勘弁してほしいね……」
あたりを飛び回る大きめの羽虫を手ではらいながらアルバート王子は顔をしかめる。
「自然のど真ん中ですからね。辛抱してください」
ナターシャも手をぶんぶん振ってはらうと、逃げていった虫が近くの低木の葉っぱにとまる。そこに小鳥が飛んできて、さっきまでナターシャにたかっていた虫をぱくりとついばんだ。小鳥はそのまま空に飛び去って行く。
「食物連鎖を目にしたね」
アルバート王子がそう呟いた次の瞬間、頭上の木々のさらに向こうから、悲痛な小鳥の叫びが聞こえた。
空にはもっと大きな捕食者がいたのだろう。
「ええ、耳にもしました……」
テオドアが顔をこわばらせながら空を見上げる。木漏れ日を遮る大きな鳥の影が通り過ぎていった。
「昨日からよく大きな鳥を見かけますね」
「そうだね。同じ鳥だったりして」
「まさか。昨日見たルーガクックはとても珍しい鳥ですよ。そんな頻繁に見かけるわけ……」
――キュキュワー!
ナターシャの言葉を遮るように鳥が鳴いた。ご飯にありつけた勝利のおたけびだろうか。昨日聞いたのによく似た声色だ。ナターシャたちは三人で顔を見合わせる。
そこにふわふわと抜け落ちた羽根が降ってきた。赤くごわごわしたその羽根は、昨日実物を見たからこそ、明らかにルーガクックのものだと確信できた。
「そのまさかだったね」
地面に落ちる前の羽根を空中で捕まえて、アルバート王子は得意げに笑った。
しかし、すぐに王子の笑顔が引きつる。慌てたように、王子は右手に持っていた羽根を左手に持ち替えた。そして自分の右手をまじまじと見つめている。何があったのかと横からその手を覗きこんで、ナターシャとテオドアも息を飲む。
アルバート王子の右手には――そして空から降ってきたルーガクックの羽根には、べっとりと赤い血がついていた。
旅3日目、ナターシャとアルバートたちが出会ったこの旅の最終日になります。さっそく不穏な血の気配……ふだん人里に現れないルーガクックですが、何か訳ありの様子ですね。




