1. ムルデ湖、またの名を『旅好き娘』聖地
小鳥のさえずりが響く春の草原。小さな黄色い花々が、風に揺られてふわふわと光っている。
ナターシャは口と目を閉じて、鼻から大きく息を吸い込んだ。自然の香りを胸いっぱいに吸い込み、一瞬、息を止める。
何度訪れても素敵な場所だ。
ふう、と口から吐いた息に感嘆の笑みが混ざる。
ナターシャはこのパルメール領を治める辺境伯家の令嬢である。しかし、貴族令嬢らしからぬ出で立ちで草原の真ん中で伸びをしていた。
オリーブ色の髪は無造作に頭の上でひとまとめにし、寸胴の長袖シャツを着ている。服の上から巻いたベルトにはポーチや水筒、サバイバルナイフなどさまざまなガジェットがくっついているし、何よりスカートではなくパンツスタイルだ。ゴツゴツとした頑丈な手袋とブーツ、そして背中の大きなリュックに至っては、男物を改造して作ったものである。
貴族らしいところといえば、首に巻いたケープくらいだろうか。上質なシルクをふんだんに使ったなめらかな茶色の生地に、銀の糸で家紋が刺繍されている。とはいえナターシャにとっては、雑に使える丈夫で便利な布以上の何物でもないのだが。
そんなナターシャの旅装束は、厳格な貴族が見れば目を回すようなスタイルだ。かと言って改めるつもりはさらさらない。だって、旅をするのに一番いい恰好なのだ。
ナターシャの生活における第一の基準は、旅。
偏執的なまでの旅好き令嬢、それがナターシャである。
そしてそんな彼女の旅好きが始まったのが、この場所だ。
草原の緩やかな下り坂の先に、大きな湖が顔を覗かせる。地元の人々にはムルデ湖と呼ばれる山奥の秘境。
空の色を反射したのか、草花の緑が混ざったのか。深い蒼色をたたえた湖を前に、ナターシャは座り込む。
10年ほど前の冬、今は亡き父に連れられてナターシャはここに来た。そして、フロストフラワー――凍った湖面に降りた霜が成長し、雪の花が乱れ咲いたように見える壮大な現象を目撃したのだ。
感動したナターシャはそれから隙を見つけては旅に出かけるようになった。外に出かけるときは、馬車ではなく自分の足で。遊びに行く先は、城下街ではなく山や海へ。もともと辺境生まれでアウトドア派だったナターシャだが、拍車をかけて冒険にのめりこんだ。
……ついでに、父の出来心をきっかけに紀行録もつけるようになった。年に一度、細々と自費出版しているナターシャの紀行録は、絵日記のような体裁を取っており、風景画と簡単な文章だけなので庶民にも読めると人気である。
貴族の邸宅や学院の図書館にあるような分厚くて豪華な本ではなく、紙を重ね合わせて留め、厚紙で表紙をつけただけのシンプルなものだが。なにせ1年分のナターシャの旅が詰まっているので、ページ数はなかなかのものになる。旅行のガイドブックのように使う人、読み物として楽しむ人、地域学習として用いる人。さまざまな人から感想をもらうのも、ナターシャにとっては楽しみだ。儲け度外視の安価で本を売り出しているのもそのためである。
今日ももちろん、ナターシャは紀行録をつける。地面に下ろしたリュックからスケッチブックと鉛筆を取り出した。
まずは日付と場所、天気――風向きや雲の量まで、詳細に記録する。紀行録に事細かくすべてを載せるわけではないが、一通りの情報を集めておくのがくせづいている。
それから、その旅で一番心に残った風景をスケッチする……とはいえ、いろんな風景が心に残ってしまって何枚もスケッチすることになるので、結局いつもどの絵を採用するか迷うのだが。
ムルデ湖を訪れたときには、必ず一度スケッチを描くようにしている。曇天でも雨でも夜でも。初めて見た日からナターシャにとって大切で特別な、お気に入りの場所だから。
元々、絵も文章も得意ではない。むしろ苦手意識があったくらいだ。でも、自分が旅で得た感動を伝えたい一心でずっと記録をつけていたら、いつの間にかするすると筆が動くようになった。
ひたすら目の前の光景をなぞるように、紙の上に線を引く。文章を書くときもそう、心の中に浮かんだ気持ちをどんどん言葉にしていくだけ。
特別なテクニックはないが、ただ一人でも多くの人に伝わるように。これはいわば宣伝活動である。旅の楽しさを世界に広める重大な仕事だ。
自分の好きな世界を他の誰かにも味わってほしくて、ナターシャは懸命に筆を動かすのだ。
スケッチを始めてしばらく経った。
もうすぐ完成、というところで、ナターシャは筆を止める。
普段はこんな山間部に誰も来るはずないのに、足音が聞こえたのだ。動物ではなく人間の足音、それも複数人である。サバイバル慣れしたナターシャの耳には、はっきりと足音が聞き分けられる。
こんな山道を使うなんて、山賊や密入国者ではないだろうか。自分のことを棚に上げて怪しむ。最近はそんな治安の悪い噂は聞いていないが、現領主である兄から、昔は山を越えて密入国してくる移民がいたと聞いたことがある。
できるだけ気配を消しながら、足音の方をうかがう。
「――に、こんな……に――」
「間違いない……私……だからね――」
男性の声が二つ。声量を抑える様子もない。
それに、よくよく聞いてみれば足音も規律よく整っている。育ちのいい人間に違いない……なぜこんな辺境の地に育ちのいい人間が二人してやってくるのかはわからないけれど。またまた自分を棚に上げながらも、ナターシャは緊張をとく。
見つかって驚かれたり引かれたりすることはあっても、危害を加えられることはないだろう。そう判断して、定位置に戻りスケッチを再開した。
「ほら、言ったとおりだ! 私がこの場所を間違えるはずないだろう?」
男たちの声は近づいてくる。片方が上機嫌にそう言った。どうやら彼らもムルデ湖を見にきたらしい。
秘蔵っ子が日の目を見るのは誇らしいことである。ナターシャは彼らの邪魔にならないよう、獣道の端に寄って作業を続けた。
「……! 本当ですね。これは……なんというか、想像以上です」
「そうだろう? まあ、私も本物は初めて見るのだけれどね。胸に迫るものがあるよ」
会話の内容が気になって、ナターシャはちらりと後ろを振り返る。二人とも全身を黒いローブにすっぽり隠し、フードまでかぶっているので人相はわからなかった。
前を歩く上機嫌な方は、けして小柄ではないがスラッとした細身で、山登りに慣れていないような雰囲気だ。その一歩後ろを歩く男は反対にがっしりしていて、多少のサバイバルはものともしない風格がある。
二人のローブには金の糸で刺繍がほどこされている。ナターシャのケープに家紋が入っているのと同じく、彼らの出自を示しているのだろう。金色ということはえらい人だ。先陣を切る細身の男は身軽だが、後ろのがっしりした方は大きな荷物を背負っている……つまり荷物持ちか護衛係か。
細身の方が上位の貴族で、それに仕える部下といったところだろう。ナターシャは内心で男たちについて考察する。
しかし姿を隠しているということは訳ありなのだろう。盗み見たことがバレないよう、ナターシャは湖に向きなおった。ちょうどもうスケッチが終わる。彼らと鉢合わせないよう移動すべきか、ここで文章まで書いてしまうか……悩んでいる間に、足音はもうすぐそこまで来ていた。
「まず一番にここに来ることは決めていたけど……私は本当に運がいいよ」
よし移動しよう、と決めて腰を半分浮かせたのと同時に、そんな言葉とともに背後で男たちの足音が止まった。前を行く方の男が急に立ち止まったらしい。ついナターシャもその場で静止してしまう。
このタイミングで立ち止まったということはナターシャを見つけたのだろう。ナターシャはゆっくりとした動作で、おそるおそる後ろを振り返る。
「"聖地"に来てみたら、いきなり君に会えるなんて――夢にも思わなかった!」
「え……」
わけがわからずマヌケな声をあげるナターシャの前で、ゆっくりと男はしゃがみ込み、フードを外した。後ろのもう一人が肩をすくめる動作が、現実逃避のようにナターシャの目にはっきり写った。
だって、しかたないだろう。
フードの下にあったのが、有名人の顔だったのだから。
「あ、アルバート王子!?」
「会えて嬉しいよ、"旅好き娘"――ナターシャ・パルメール嬢。王立学院ぶりかな?」
田舎の山奥に相応しくないきらめく金の髪をなびかせて、男は目を細めて美しく笑った。
いよいよ本日より本編開始です!
せっかくのゴールデンウィークなので、今日から5/6までの連休の間は1日2話更新していきますので、ぜひたくさん読んでいただけると嬉しいです!