25.王子vs古典語
応接室のテーブル上に、分厚い植物図鑑をドカンと広げる。
厨房で洗って乾かしたキノコと三種類の山菜をそれぞれ1つずつ、サンプルとして横に並べている。
古典語で書かれた植物図鑑を読める唯一の戦力、アルバート王子は眠たそうに目を擦りながら図鑑に向かった。
「しかし悲しいな。学院時代、私の研究はかなり話題を産んだと自負があったのだけれど」
アルバート王子は、自分が古典語を読めることをナターシャに知られていなかったとわかって拗ねていた。
王立学院では卒業のために生徒ひとりひとりが自身でテーマを決めた自由研究のレポートを提出しなくてはならない。その時にアルバート王子は医学書を読むために古典語を一から学んだと言う。
学習量もレポートの出来も、そもそも王子が医学について研究したという事実も評価され、結構な話題になったそうだが……残念ながらナターシャは他人の研究に一度も興味を持ったことがなかった。
旅にまつわるレポートを1日で書き上げて卒業の権利を得た記憶だけがある。
「すみません。旅にしか目がないもので」
「そうみたいだね」
アルバート王子はまだムスッとしていたが、文句は言わず図鑑のページをめくって内容を確認する。
図鑑には、植物の名前と分類、それからかなり写実的なスケッチと細かな説明が数行分、記されている。
1ページにいくつもの植物の説明が記載されているため、見た目はごちゃごちゃとしている。
「すごい情報量の本だね……」
遠い目をするアルバート王子が少しでも早く目的のページにありつけるよう、メモ帳を取り出す。そこに、さらさらと4つの植物の学名を書き連ねた。普段ナターシャや地元の人々が呼ぶ通称ではなく、図鑑に書かれている古典語の長ったらしい名称だ。
「読めませんが名前は覚えていますので、参考にしてください」
メモを受け取ってアルバート王子は目を丸くする。
「読めもしない言葉を覚えてるのかい?」
「ええ。文字は現代のものとほとんど同じですし」
「だとしても……君は本当に旅に関わることにだけ特化しているんだな」
感心したようにそう呟いて、アルバート王子は図鑑に向き直る。
ナターシャが好奇心から読めない図鑑を何度もたどり、絵を頼りに覚えただけの文字列だ。
意味のない知識だと思っていたがこんなところで役に立つとは。
他の植物の解説も翻訳してもらえないだろうか、と邪なことを一瞬思ったが、ただでさえ疲れている王子にそんなこと頼めないので黙っておく。
そこからは、アルバート王子が黙って図鑑とにらめっこするのをひたすら待つ。
索引があってナターシャのメモと照らし合わせられるため、どのページに載っているかを見つけるのは簡単だ。しかし、習得済みとはいえ普段使わない言語で学術的な文章を読み解くのには多少時間がかかる。
索引をたどり、見つけたページでスケッチと実際の植物を照合し、説明を読んで翻訳する。
その繰り返しを4回、アルバート王子は着実にこなした。
オドリダケ、カギツキグサ、ブドウ草、ツチイモ――すべて火を通せば食用に適することと、ついでに豆知識のような性質の解説まで読み上げて確認する。
「――これで安心して食事ができるかな?」
アルバート王子は、最後に開いていたキノコだらけのページを閉じて微笑む。テオドアも納得の表情を浮かべて頷いた。
ナターシャはそれを見て安堵の息をつく。
自分の言ったことが間違っていて、王子に変なものを食べさせてはいけない。
もちろん自らの旅の知識に不安はないが、万が一の間違いがなくて何よりだ。
図鑑を書斎に戻そうと、ナターシャはアルバート王子のもとへ向かう。
閉じた図鑑を差し出しながら、アルバート王子は微笑みを浮かべたまま尋ねた。
「古い本にしては中のページが捲りやすかった。君が何度も読んだのかい?」
「……ええ」
古典語が読めないと言った手前、自分がそのページを捲っていたとバレるのはどこか恥ずかしい。
目を逸らすナターシャに、アルバート王子は続けて尋ねた。
「興味があるなら現代語版を買えばいいのに。領地をより深く理解する助けにもなるだろう?」
「ここまで網羅的で細かいものは売っていなくて……マイナーな野草の情報はどうしても抜けがあるので、決め手がないんです」
これをそのまま翻訳したものがあればいいのですが、とぼやきながら、図鑑を受け取ってナターシャは書斎に向かう。
さすがにそろそろお腹も空いてきた。早く料理を始めなくては、と急ぐナターシャは、アルバート王子が不自然にニコニコ笑っていることに気が付かなかった。
書斎から戻ると、サンプルとして移動させていた山菜をテオドアが厨房に戻してくれているところだった。そのままテオドアは厨房に残るらしい。
廊下ですれ違いざまに、ナターシャへと提案をくれる。
「今日は私が厨房を借りて料理をしてもよろしいでしょうか? 見ている必要があればいらしてもいいですが、ナターシャ様も気を休めていただければと」
ありがたいが突然の提案に、ナターシャはぱちりと瞬きをする。
当然のように自分も料理を手伝うつもりだったが、テオドアが一人のほうがやりやすいならその方がいいだろう。昨日も一緒に料理をしたので、調理器具の場所なんかはテオドアもわかっているはずだ。
休息を勧めてくれるのも嬉しい。
そう思いつつも不思議そうにしているナターシャに、テオドアは恥ずかしそうに言い募る。
「実は……先ほど殿下が図鑑を読んでくださっているのを聞きながら、いいレシピを思いついてしまって。ああ、スパイシーな料理は苦手ではないでしょうか?」
「なるほど。そういうことでしたら、お任せしましょうか。スパイスも平気です」
どうやら、テオドアの故郷の料理を振る舞ってくれるらしい。ナターシャは彼の魅力的な言葉に甘えることにする。
「では、後ほどお呼びしますので。殿下とご一緒にお待ちください」
「ええ。ありがとうございます」
感謝を述べてナターシャは応接室に戻った。
ひと仕事終えた様子のアルバート王子はソファでくつろいでいる。ナターシャもテーブルを挟んだ向かい側のソファに座り、つかの間の休息を楽しむのだった。




