24.無事の帰還
長い道のりを経て、ナターシャたち一行は旅の宿である雪割邸へ帰り着いた。
到着するやいなや、体力の限界を迎えていたらしいアルバート王子がナターシャに弱々しく尋ねる。
「この服のまま応接室のソファを借りたら怒るかい……?」
そう言われて改めてアルバート王子の様子を確認する。
地面に直接座っていたせいでズボンには土がついているし、服の裾も山菜採りのせいか茶色く汚れている。ところどころ裾や襟元が濡れているのは、汗か森の木々についた露を吸ったのか。
別に全身がどろどろに汚れているわけではないが、気になるところを挙げればキリがない。
王子だけでなくこの場にいる三人ともそんな状態だ。
幼い頃外出着でそのまま寝転んで父に叱られたことを懐かしく思いながらも、ナターシャはくすくす笑って言う。
「今日だけ特別ですよ」
まあ彼らが雪割邸に泊まるのは今日までなのだが。ナターシャの許可を得てアルバート王子は応接室へ直進していった。
ナターシャとテオドアも汚れた靴を脱いで王子に続く。
ソファに沈んで溶けているアルバート王子を横目に、ナターシャとテオドアはこのあとのプランを立てる。
王子のようにこのまま寝転んでしまいたいところだが、まだ体力の残っている二人が率先して動かないと明日の朝に後悔する羽目になるだろう。
まずはお風呂に入って、ついでに汚れた服も洗えたら完璧だ。そういえば昨日雨に濡れて干したローブもあるんだった、と嫌なことを思い出した。
明日の朝にはアルバート王子とテオドアの分の荷物は全て持って出なければならないのだから、それも回収しておかないと。
幸い、フローラルチョークは買い足したばかりで大量に持ってきていた。風呂に入るのに面倒な手段を経る必要はなく、レバーをひねれば出てくる井戸水にフローラルチョークをポンと放り込むだけで入浴の準備は完了だ。
動きたくなくなる前に交代で風呂に入ることにして、ナターシャとテオドアは荷物の整理と入浴の準備を始める。
もうすでに動きたくなくなっているらしいアルバート王子も、渋々といった様子でテオドアとともに作業を始めた。
今日は昨日とは反対に、ナターシャが先にシャワーだけ浴びた。アルバート王子とテオドアができるだけゆっくりできるようにという計らいだ。
入浴後、さっぱりした体で干してあった三人分のレインコートを回収したうえ、取ってきたキノコと山菜を厨房で洗い終えた。そして今はアルバート王子が先ほどまで溶けていたソファの泥を早くも掃除している。
風呂上がりの爽快感で作業速度が段違いである。今なら何でもできそうだ。
先に料理を作って待っておこうかと思ったが、ナターシャが用意しても毒味の手間を増やすだけだろう。
昨日のようにアルバート王子が作りたがるかもしれないし、と二人が風呂からあがってくるのを待った。
しばらく経つとほっこりと穏やかな顔を浮かべたアルバート王子とテオドアが階下に戻ってくる。
どうやら十分リラックスできたらしい。疲れ切って失われていたアルバート王子の輝きが元に戻っていた。
「今日もいいお湯だった、ありがとう」
アルバート王子は上機嫌にそう言って、しれっとナターシャの座るソファに自分も座る。
密着こそしていないものの突然隣に座られて、反対にナターシャは弾かれたように立ち上がった。
「つ、次は夕食を作らないと。たくさん動いたし、お二人もお腹が空いているでしょう」
「……そうだね。悪いけど今日は任せてもいいかな」
今料理をしたら手を炙りそうだ、と冗談めかして言うが半分本気なのだろう。機嫌こそよくなっているものの、風呂に入っただけで体力が劇的に回復するなんて魔法のようなことはあり得ない。
アルバート王子には休んでいてもらうことにして、ナターシャはテオドアとともに厨房へ向かう。
ナターシャが洗って乾かしておいた山菜を見て、テオドアが苦笑する。
「こうして見るとずいぶんたくさん集めましたね……」
「ええ。サラダにスープに、炒め物までいけそうです」
かなりじっくり料理ができそうだ。それも、昨日の干し肉粥とは違って栄養価と彩りのある料理が。
トレイに並べて置かれた山菜を眺めて、テオドアは言いにくそうに口を開く。
「念のため、何かこの植物について情報を確認しておきたいのですが……」
ナターシャは、困ったように眉を下げる。
テオドアの言いたいことはもちろんわかる。王子の口に得体の知れない植物を入れるわけにはいかないだろう。
しかし、ナターシャが伝えられる情報は山の中で話したものと大して変わらない。
「それなら書斎に植物図鑑がありますので、持ってきましょうか。ただ……」
懸念の表情を浮かべるナターシャを見てテオドアが尋ねる。
「何か問題が?」
「はい。ええと……古典語なので、私には読めないのです」
古典語というのは言葉通り古代に使われていた言葉だ。しかし、生活の中で話されなくなってからも、しばらく学問の分野では使われていた。かつてこの雪割邸が政治の場として栄えていたころに集められた、古い図鑑類がそのまま残っているのである。
読めれば旅の役にも立つのだろうが、ナターシャには古典語は難しすぎて何度挑戦しても読めるようにならなかった。古典語を習得するより先に、現地の知識に現地で詳しくなってしまったため、無用の長物となっている。
参考にならないだろうとおずおず提案したが、ナターシャの予想に反してテオドアは軽く頷く。
「それなら問題ありません。私も読めませんが……あの様子でも、頭脳労働ならしてくださるでしょう」
「へえ」
遠回しなテオドアの言い方にナターシャは目を見開く。アルバート王子は、ナターシャが幾度も挫折した古典語を読めるらしい。
さすが、学生時代に頭脳明晰と噂になっていただけある。あるいは、王族にとっては古典語が必修科目だったりするのだろうか。
予想外の戦力を借りるため、ナターシャは書斎から応接室まで植物図鑑を運ぶことにした。
歩き通しの1日でしたが、やっとゆっくりできた3人です。そして次回はアルバート王子の特技が役立ちそうな予感。
次回は明日夜更新です!よろしくお願いしますー!