22.一期一会を切り取るように
穏やかな風が頬を撫でる。
眼下に広がる花畑はまるで無限遠まで続くかのように果てしない。
黄、赤、紫――開花の過程とともにグラドゥーシャの花は色を変える。言葉にすればたった三色だが、目の前の景色はけしてそれだけには見えなかった。
ひとつとして同じ色の花はないのではないかというほどに、移り変わる花の色は一輪一輪異なっている。
うっすら赤みのさした黄色の花、枯れる間際のピンク色の花。一輪の花の中でも、重なった花弁同士が微妙に違う色をしているものもある。
近くの花々に顔を近づけてじっくり見ればそれがわかるが、はるか遠くまで、階段状になった山の斜面を埋め尽くす花は数えられないし見分けられない。
わかるのは、ただ美しい景色だということだけだ。
絵の具を混ぜてこぼしたような、たくさんの色の糸で織った布のような――いや、そのどれよりも綺麗であろう、混ざっても濁ることのない鮮やかなグラデーション。
アルバート王子は、翡翠色の透き通る瞳を大きく見開いて、目の前の光景に釘付けになっている。
その様子を隣で見ながら、ナターシャはなんだかいい気分だった。
ナターシャにとっても、もちろんこのグラドゥーシャの群生地の景色は絶景だ。天候や時刻によっても見え方は変わるし、何度も足を運んではその美しさに感動して、紀行録に言葉をつづっている。
しかし、何度見てどれだけ知識が増えて目の前の景色に対して使える言葉が増えたとしても、最初に見たときの感動には勝てない。
「すごく、綺麗だ。思ってた何倍も――すごい!」
語彙力を失って感激しているアルバート王子は、ナターシャに向けて無邪気な笑みを浮かべる。言葉通り、童心に返ったような反応だ。
目が合って、これまでのナターシャならすぐに逸らしていただろう視線を、今はなんだかそのままでいいと思った。
「良い景色でしょう?」
自慢げに目を細めてナターシャは笑う。
傾いた太陽が、ふたりの横顔を照らしている。
「……ふふ」
ナターシャから見てアルバート王子とは逆隣りから、思わず漏れたような小さな笑い声が聞こえた。テオドアだ。
すぐに振り向いたナターシャとアルバート王子を見て、彼は笑ってしまったことを恥じるように口元を手で隠して言った。
「すみません。幸せな光景だな、と……お二人を含めて」
「……からかわないでください!」
ナターシャは先ほどまでの柔らかな笑顔を引っ込めて、半眼になって答える。アルバート王子は特に気にしていないようでけらりと笑ったままだ。
テオドアの生温かい態度は、子どもが新しい友人を作るのを見守るようなむずがゆい視線だ。たとえるならそんな中で何のためらいもなく手を繋ごうとしてくるのがアルバート王子といったところか。
自分の性格的にはやっぱりちょっとハードルが高いかも、とついさっきまでのいい気分をひっくり返して、ナターシャはいたたまれない気持ちになる。そこから逃げるように、背負ったリュックの肩紐を片方外した。
「少しお待たせすることになりますが、スケッチを描いてもいいですか?」
「もちろん! では待つ代わりと言ってはなんだが、隣で見ていてもいいかい?」
「それくらいなら……感想を大声で語ったりしないなら」
「心掛けるよ」
不安な答えが返ってきた。まあ、人を待たせるのだから多少の恥ずかしさは受け入れるしかないだろう。
ナターシャが見晴らしのいい角度を探して地面に座り込むと、アルバート王子もその隣に座る。テオドアはさらにその後ろで膝をついて腰を落とした。
リュックからスケッチブックと鉛筆を出して、膝の上に広げる。
ひとりならあぐらをかいてその上にスケッチブックを置いて描くところだが、さすがに王子たちの前ではそれはできない。
硬い地面に膝を追って座り、スケッチブックを浮かせて片手で支えながら描くことにした。
目の前に見えるものを、さらさらと写し取っていく。その場で色を塗ることはできないので、色合いや光の加減を覚えておけるようなスケッチを描く必要がある。
誰かに見せるため以前に、まず自分の記憶を確かにするための、未来の自分に向けたスケッチだ。
「色はこの場で塗っているわけではないんだね」
アルバート王子はナターシャの著作『旅好き娘の気まま紀行録』の読者であり、ナターシャの絵の完成版をこれまで何枚も見てきている。
しかし、王子の目に入るのはあくまでナターシャが本邸に帰ってからじっくり清書したもの。今この場で描いている鉛筆だけのスケッチとは大きく異なる。
新鮮そうに、肩越しにスケッチブックを覗きこむアルバート王子に答える。
「昔は写生キットを持ち歩いていたのですが、あまりの重さに諦めました。そのぶん、鉛筆でのスケッチがより忠実でないといけませんが」
目に映る、色の溢れた景色をモノクロに変換する。濃い色は黒く、でも光が当たっている場所は白く。薄い色でもそこに色があることがわかるように、鉛筆を寝かしてうっすらとグレーを塗る。
輪郭線はできるだけくっきりと描く。それでも、ついつい試行錯誤して細い線を重ねてしまいがちだ。
「……でも、こうやって苦戦して描いた景色ほど、よく覚えていられる気がします」
じっくりと観察するから、目に焼き付くのだろう。自分の描いた絵を見るだけで、その瞬間の光景や出来事が鮮明に思い出される経験は少なくない。最近は、むしろスケッチをしておかないと忘れてしまうのではないかと焦燥感にかられることもある。
独りごとのようにそんなことを言いながら筆を進めていると、アルバート王子はスケッチから目を離してふたたび花畑の方を見た。
「君のように綺麗なスケッチはできないけれど――私も、焼き付けておかないとな。最初で最後の……」
「最後?」
突然飛び出した予想外の言葉を、思わずナターシャはオウム返しにした。
それに王子の声色がやけにしんみりしていた気がして、スケッチブックから顔を上げる。
隣をうかがうと、やはりアルバート王子は伏し目がちに遠くを見ていた。
「……また来ればいいでしょう。少なくとも私が初めて来てから十年、この山は変わらぬ景色ですよ」
ムルデ湖もグラドゥーシャも突然の雨もルーンディアもきっと十年や二十年では変わらずここにあるままだ。《木こりの暖炉》の店主も詳しい年齢は知らないがまだまだ現役だ。
王子の立場ではナターシャのように毎年毎季節旅に出るわけにはいかないだろうが、この国で生きていればいくらでも機会はあるだろう。
そう思って、何気ないふうを装ってそう言うと、アルバート王子はいたずらがバレたように笑った。
「君が書いたんだろう、『全ての景色に同じなんてことはない。旅先で出会うすべては一期一会、最初で最後のものだ』って。『旅好き』第――」
「第6巻、ですね。それは私も覚えていますが……毎度その、巻数を暗記しているのは、ふつうの読者の域を超えていると思います」
「うん、私はふつうの読者ではなく、熱心なファンだよ。君の紀行録は私のバイブルなのだから!」
ああ、墓穴を掘った。
ナターシャは自分の言葉を後悔しながら、また『紀行録』への愛を表明しはじめたアルバート王子を半ば無視するかたちでスケッチに戻る。
励まして損した、とまでは言わないし、何か大切なことをごまかされたような気もするが。
触らぬ神になんとやら――とにかく今はスケッチを完成させることに集中しよう、と、ナターシャは半分ほど描きあがった目の前の絵に意識を戻した。




