2.さあ次の旅へ
広い部屋の広い執務机に向かい、大男が大きな手で小さな本のページをめくる。
ちゃちな装丁のその本は、彼の妹が発行した紀行録である。あまり栄えておらず本来は日の当たらない「辺境」を旅した記録。旅先で心に残った風景のスケッチと、通った道のりや経験した出来事を綿密に綴る文章。
あくまで旅の感想を示すものだが、詳細で正確な情報は地理誌としても文化誌としても有用だ。そのため、領地の予算を使い公共事業として支援している。
男の名はルドルフ・パルメール。このパルメール領を束ねる辺境伯である。
父が亡くなり業務を引き継いでから三年。毎年冬の終わりごろになると妹のナターシャが書いた紀行録をこうして読み、評価する業務が発生する。限りある資産の一部を使うのだから内容を精査せねばならない――と言いつつも実の妹に対しての評価はどうしても緩む。ついつい楽しく読み終えてしまい、結局気を引き締めて最初から読み直す羽目になるのが常だ。
今回の『旅好き娘の気まま紀行録』第10巻も、ルドルフの元に届いてからもう4日は経っただろうか。娯楽向けの本を真剣に読むのは意外と難しいのだ。
妹のナターシャは父と仲が良く、生前の父とともによく旅に出かけていた。その影響で旅好きになった彼女は、四季に合わせて一度ずつ、つまり年に4回欠かさず旅に行く。その記録を一冊にまとめたのがこの本だ。国内の絶景や自然、グルメまで網羅した力作である。
ナターシャと違って、ルドルフは父とあまり仲が良くなかった。家族で旅をした記憶も幼いころのおぼろげなものだけだ。
ナターシャが実直に描く旅の様子は輝かしくて、いつもうらやましくなる。
(余計なことを書かないのがいいのかな。まどろっこしい比喩や遠回しな表現のない、心からの文章だ)
昨年の春、他領の海を訪れたときの記録を読みながらしみじみとする。
パルメール領も海に面しており、ルドルフも、もちろんナターシャも幼い頃から海に慣れ親しんでいる。その故郷の海と比較しながら綴ってあるおかげで、執務以外で他領を訪れたことのないルドルフでも遠くの海に想いを馳せることができるのだ。砂浜のスケッチをじっくりと見てから、ページをパラパラとめくっていく。
読むこと数分。執務室の扉を叩く音に、ルドルフは顔を上げた。
(……あ、また読みふけってしまった)
慌てて『紀行録』から顔をあげ、ノックに返事をする。部屋の扉を開けて入ってきたのは、まさにその『紀行録』の作者、ナターシャだ。
「兄さん、ちょっと相談が……あ、読んでくれてたんだ」
ナターシャはルドルフの手元の本に気付き、嬉しそうな笑顔を浮かべる。旅にしか目がない彼女は普段とてもクールだが、旅に関わることになると表情が柔らかくなる。家族であるルドルフの前であることも大きいのだろう。昨年卒業した王立学院をはじめ、社交の場でナターシャが引きつった顔ばかりしているのを見ていたルドルフにとって、今のナターシャの姿は安心できるものだった。
本来、妙齢の貴族令嬢としてはもっと社交に精を出し、嫁入りなんかを考えるべきなのかもしれない。実際そういうことを言ってくる親戚筋もいるのだが、ナターシャが楽しそうならそれでいいとルドルフは思っていた。幸い、辺境伯という身分は令嬢の嫁入り如何で揺らぐようなものでもない。
つまり、可愛い妹には旅をさせよというルドルフの兄バカ心である。
本人には、照れくさいので言わないが。
「審査しないとな、一応公共事業なんだから」
「へえ。どうだった?」
「なかなかおも……興味深い、な」
おもしろい、と言いかけて言葉を変える。意味は同じだが聞こえ方の問題だ。ナターシャはからかうようにくすくす笑いながら、手に持った書類をルドルフに差し出した。
「それで、コレなんだけど。次の旅の旅程表」
「もう次に行くのか」
「ええ。だってもう春でしょ? カトルフルールの季節だと思うの。ついでに雪割邸の整理もしてくるし」
カトルフルールというのは春にパルメール領北部の山間部で咲く黄色い花だ。四つに分かれた菱形の花弁が特徴的で、花の蜜は回復ポーションの材料になる。飲めば軽い病気は治るし、傷にかければたちまちのうちに修復するというすぐれものである。
そして雪割邸というのは、カトルフルールの群生地近くにあるパルメール家所有の邸宅のことで、父が使っていたときのまま荷物が散らかっていたはずだ。
「それは助かるけど……前の旅からもうそんなに経つか?」
「帰ってきてから作った本が兄さんの手元に届いてるのが証拠でしょう? 大事に読んでね。今回の旅程表も」
念を押すようにナターシャは言った。その様子はワクワクソワソワとして、旅行前夜の子どものようだ。嫌な予感がしてルドルフは慌てて渡された旅程表を確認する。
案の定と言うべきか、出発日時の欄には明日早朝と書いてある。
「明日発つのか!?」
「ええ。装備も揃ってるし泊まる屋敷もある、気軽な小旅行だもの」
まあたっぷり満喫する予定だけど、と付け加えながらナターシャは笑顔を通り越してニヤニヤしている。こうなればもう止めるだけ無駄だ。旅をさせたいとは思っているが、自由奔放なナターシャには振り回されてばかりだ。
「おまえは……父さんに似てきたよな。その自由さ」
前日に出発を報告してくるところなんかそっくりだ。ため息まじりに言うとナターシャも肩をすくめる。
「そう思うわ。小さいころのことはあんまり覚えてないけど」
自由すぎる自覚はあるがやめる気もないのだろう。ナターシャはそう言って煙に巻き、執務室を去ろうとする。その背中にルドルフは声をかけた。
「いい旅を。母さんと一緒に報告待ってるよ」
「うん。行ってきます」
明日の早朝に経つなら出発前にルドルフと顔を合わせることはないだろう。出立の挨拶を残して、ナターシャは部屋を出る。
二人の母は、父が亡くなるよりずっと前、二人が子どもの頃に難病で命を落としている。開いた窓から空を見上げ、ルドルフは天国の母を思う。
そして手の中で閉じた『紀行録』の表紙をなぞり、つぶやいた。
「どんな未来がアイツを待ってるんでしょうね、母様――」
暖かい春の風が、執務室のカーテンを揺らした。
止めても止まらない旅好きを妹に持って、きっとこのあと処理に追われるルドルフさんです。
次回からはナターシャ視点でいざ旅に向かいます。
どうぞ、ナターシャによる春のまったり小旅行をお楽しみに!