戦の始まり4
勅使河原会長は心の広いお方だ。
勅使河原勇次郎は沖縄の巨大ヤクザの会長で、仲宗根の親分である。
彼は沖縄全体を仕切っている。
彼の人生は凄まじいものだった。
今から四五年前の一九六一年、第一沖縄抗争はアメリカ統治下の沖縄で起きた事件だ。那覇派対コザ派の抗争で、多くの死者が出た。
もともと那覇派とコザ派は親睦会を開く仲であったが、両団体が勢力を拡大したため
縄張りが接するようになった。
やがて、コザ派が那覇派の本拠地・那覇市に進出したという情報が流れ、一気に険悪
化して抗争が起きた。
当時の勅使河原会長は、那覇派に配属されたヒットマンだった。
コザ派の配下組織を一人で襲撃し、コザ派を追い詰めたが、一九六二年に沖縄県警が総勢百人の組員を検挙し、抗争は幕を閉じた。
その後、那覇派とコザ派は分裂し、コザ派は「泡瀬派」と「山原派」に、那覇派は「普天間派」に再編成された。
1970年、那覇派とコザ派は島内進出を狙うために大同団結し、「沖縄連合語句流会」を結成した。そして勅使河原勇次郎も語句流会に所属することになった。
しかし、その2年後の1972年、語句流会幹部が「林一派」という組織に殺害され
た。この殺害された幹部こそ、当時の勅使河原会長の親分であった。
勅使河原は親を殺された怒りに狂い、林一派の構成員と幹部を一人で殺害し、林一派を壊滅に追い込んだ。
さらに、1973年6月には、勅使河原がシマ周りをしている最中に何者かに襲撃され、腹部に二発の弾丸を受けた。
絶体絶命と思われたが、見事に生還した。
そして、自分を襲撃させたのが語句流会の会長であることを知る。
裏切られた悲しみと怒りで感情が爆発し、語句流会会長と幹部を殺害することを決意した。
1973年11月、彼は語句流会幹部と会長を殺害し、生き残った語句流会組員を自分の傘下に置き、勅使河原会を結成した。
以降、沖縄のヤクザ組織の中で「伝説の男」と称されるようになった。
数時間が経ち、仲宗根組長に訪問者が現れた。
村井が組長室に案内する。
ドアが開き、村井が入ってきた。
「組長、前田さんがお見えになりました」
「あぁ、通せ」
「前田さん、お入りください」
ドアの向こうから黒スーツ姿で、少し白髪が混じった男性が入ってきた。




