戦場の誓い
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黒い霧の中から、人の形をした影が浮かび上がる。
しかし、それは明らかに人ではなかった。
「下がれ」
カインが葵を庇いながら、よろめく体で剣を構える。
(まだ完全には回復していない)
葵には、彼の体の状態が手に取るように分かった。
魔獣は、おぞましい姿で変貌を遂げていく。
人の形を模しながらも、その肢体は歪に伸び、全身から黒い霧を滲ませている。
そして、その赤い瞳だけが、禁忌の魔獣の名残を示していた。
「隊長、私たちが!」
騎士たちが、剣を抜いて前に出ようとする。
「動くな!」
カインの声が、夜空に響く。
「これは...私が」
その時、彼の膝が折れかけた。
体内の毒は、まだ完全には消えていない。
「カイン様!」
葵が支えようとした瞬間、魔獣が動いた。
一瞬の出来事だった。
黒い影が、まるで霧のように二人の間を すり抜けていく。
次の瞬間、葵は強い衝撃と共に吹き飛ばされていた。
「葵!」
地面に転がりながらも、葵は冷静さを失わなかった。
(この動き...人の動きを完全に理解している)
前世の救急救命士としての経験が、彼女に危険を察知させる。
これは、ただの魔獣ではない。
人の意識を持ち、人の動きを完璧に再現している。
「く...」
カインが、再び剣を構える。
しかし、その動きには明らかな乱れがある。
(このままでは)
葵は、咄嗟の判断を下した。
「皆さん、私の指示を!」
彼女は騎士たちに向かって叫んだ。
「えっ」
「しかし、お嬢様...」
「今、私は医務官です」
葵の声には、迷いがなかった。
「戦場での救命には、チームワークが必要」
それは、前世で幾度となく経験してきた真実。
一人では救えない命も、チームなら救える。
「カイン様の毒を完全に除去するまで、時間を稼いでください」
騎士たちは一瞬、戸惑いを見せた。
しかし、彼らは葵の医務官としての力を、すでに知っていた。
「了解!」
「お任せを!」
彼らは、見事な連携で魔獣の注意を引きつける。
その隙に、葵はカインの元へ。
「また...無謀な」
「医務官の仕事です」
葵は、ためらうことなくカインの傷に触れた。
「生命の痕跡」が、残された毒を探り当てていく。
「少し、痛みますよ」
「...好きにしろ」
その返事に、葵は小さく笑みを浮かべた。
これが、彼なりの信頼表現だと分かっていた。
光が、再び傷を包み込む。
しかし今度は、より深く、より強く。
(前世で学んだ全て、現世で得た力、全てを)
葵の意識が、カインの体の中で毒を追いかける。
血管の隅々まで、組織の一つ一つまで。
見逃すまいとする強い意志が、光となって広がっていく。
「葵...」
カインが、静かに彼女の名を呼ぶ。
「お前が、ここにいる理由は何だ」
「それは...」
葵は、治療を続けながら答えた。
「誰かの命を救うため。それだけです」
「命を、救う...」
「はい。前...いいえ、それが私の使命だから」
言い淀んだ言葉に、カインは気づいたのかもしれない。
しかし、彼は何も問わなかった。
代わりに―
「俺が、お前を守る」
その言葉は、まるで誓いのように響いた。
「カイン...様?」
「医務官殿が、その使命を全うできるように」
彼の体から、最後の毒が消え去る。
そして、その瞬間。
「来るぞ!」
騎士たちの警告が響く。
魔獣が、凶暴な叫び声を上げながら襲いかかってきた。
しかし、今度は違う。
カインの剣が、確かな軌跡を描く。
その動きには、迷いも隙もない。
「葵」
彼は、背中を向けたまま言った。
「お前の戦いは、ここまでだ」
「はい」
葵は静かに頷いた。
「でも、私はここにいます」
「...分かっている」
それは、二人だけの約束のような言葉だった。
戦場に咲いた、小さな信頼の花。
戦いは、新たな局面を迎えようとしていた―。