迫り来る脅威
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本日も1話更新です。
黒い影が月光を遮った。
禁忌の魔獣は、通常の魔獣とは明らかに異なっていた。漆黒の体表から黒い霧のようなものを放ち、その赤い瞳は異様な輝きを放っている。
「全員、後退!」
カインの声が響く。
(間に合って良かった)
茂みの陰から状況を窺う葵の手に、古い書物が握られていた。
その時、異変が起きた。
カインの剣が魔獣を捉えた瞬間、黒い霧が剣を伝って彼の腕へと這い上がっていく。
「カイン様!」
思わず声が漏れる。
一瞬の隙。
葵の姿が、カインの視界に入った。
「なぜ、ここに!」
その一瞬の油断が命取りとなる。
魔獣の爪が、カインの防御を突き破った。
「っ!」
漆黒の鎧に亀裂が入る。
そして黒い霧が、その傷口から体内へと侵入していく。
「隊長!」
部下たちが駆け寄ろうとする。
「下がれ!」
カインは苦痛に顔を歪ませながらも、凜とした声で命じた。
「感染の危険がある」
(この状況...)
葵は古文書の記述を思い出していた。
『禁忌の魔獣の毒は、傷口から侵入し、徐々に体を蝕んでいく。治療法は...』
そこで文字が擦れて読めなくなっている。
しかし、葵には一つの確信があった。
「生命の痕跡」で傷の状態が分かるなら、
この毒の進行も、きっと。
葵は茂みから飛び出した。
「葵!戻れ!」
カインの声が、痛みで途切れる。
その時、魔獣が襲いかかってきた。
しかし―
「させません!」
騎士たちが、葵を守るように立ちはだかる。
「お嬢様、早く!」
「隊長を...頼みます!」
彼らは、葵の能力を信じていたのだ。
「カイン様!」
葵はカインの元へ駆け寄った。
「無謀な...」
彼は苦しそうに言葉を絞り出す。
「なぜ命令に...」
「医務官として、現場に来るのは当然です」
葵は毅然と答えた。
「それに...」
言葉を終える前に、彼女は躊躇なくカインの傷に手を当てた。
「!」
触れた瞬間、全てが分かった。
黒い毒が血管を伝って広がっていく様子。
それを必死に押し留めようとする体の抵抗。
そして、深層に眠る古い傷跡たちの記憶。
(押し戻せる)
葵の手から、光が溢れ出す。
しかし、今までとは違う、強い光だった。
「ッ...」
カインが苦悶の声を上げる。
「すみません、でも...」
葵は必死で毒を追いかけた。
指先から伝わる「生命の痕跡」が、黒い毒の進行を一つずつ把握していく。
(前世で、何度も危険な状態の患者と向き合ってきた)
救急救命士として、限界との戦いは慣れている。
「葵...」
カインの声が、少しずつ確かさを取り戻していく。
周囲では、騎士たちが魔獣との戦いを続けていた。
誰一人として、背を向けない。
皆、必死に二人の時間を作ってくれている。
「もう少しです」
葵の声には、確かな手応えが滲んでいた。
しかし―
その時、異変が起きた。
追い詰められた魔獣が、突如として黒い霧を爆発的に放出したのだ。
「危険!」
カインが、反射的に葵を抱き寄せる。
霧は、辺り一帯を包み込んでいく。
そして、その中から聞こえてきたのは、
人の声にも似た、不気味な呻き声。
「まさか」
葵は息を呑んだ。
古文書に記されていた、最後の一文を思い出す。
『禁忌の魔獣は、人の魂を喰らい、人の姿になろうとする』
黒い霧の中で、何かが変容を始めていた―。