前世の記憶、現世の想い
お読みいただきありがとうごさいます。
毎日1話、更新。
本日2話目の更新です。
「葵様、お茶の時間です」
アンナの声に、葵は医務室の窓から視線を外した。辺境視察から一週間が経過している。
「ありがとう」
葵は差し出された紅茶に口をつけた。しかし、その味さえ今は上手く感じられない。
(あの時の傷...)
思い返すのは、カインの体に刻まれていた無数の傷跡。そして、それ以上に気になっていたのは、彼の孤独な背中だった。
「葵様?」
「ごめんなさい。考え事をしていたの」
「お疲れなのではありませんか?」
アンナが心配そうに覗き込んでくる。
「最近は医務官としての任務も増えて...」
確かに、騎士団での仕事は増えていた。しかし、それは葵にとって苦ではなかった。
むしろ―
「緊急案件です!」
突然の叫び声と共に、若い騎士が医務室に飛び込んできた。
「第三部隊が魔獣との交戦中!負傷者多数との報告が!」
葵の体が反射的に動く。
かつて救急救命士として身についた緊急対応の感覚が、現世でも彼女を導いていた。
「準備を!」
「はい!」
医務室のスタッフが素早く動き出す。包帯、薬草、治療器具―必要な物を手際よく揃えていく。
(前世なら、救急車のサイレンが鳴っている場面ね)
その時、騎士団の中庭に馬の蹄の音が響いた。
負傷した騎士たちが次々と運び込まれる。その中に、カインの姿はなかった。
「隊長は?」
葵は思わず尋ねていた。
「まだ戦線に」
若い騎士が答える。
「魔獣の群れが予想以上に...」
その言葉を最後まで聞く前に、葵は動いていた。
「私が現場に向かいます」
「しかし、令嬢様が!」
「医務官として」
葵は毅然と言い切った。
「現場で必要とされているなら、そこに行くのが私の仕事です」
それは、前世からの揺るぎない信念。
目の前に救助を必要とする人がいるなら、躊躇う理由などない。
「私も同行します」
アンナが駆け寄ってきた。
「アンナ...」
「お嬢様の補佐官として、当然の務めです」
葵は小さく頷いた。
今は一刻を争う。
*
戦場は、想像以上に混沌としていた。
魔獣の咆哮、剣戟の音、そして散る血煙。
(でも、これは)
葵は冷静に状況を把握する。前世で、大規模災害現場に何度も向かった経験が、今、確かな力となっていた。
「トリアージを開始します」
淡々と指示を出す声。
冷静な判断。
的確な処置。
それは、まるで前世の自分が蘇ったかのようだった。
「葵」
突然、低い声が呼びかける。
振り返ると、そこにカインが立っていた。
鎧には傷が付き、血が滲んでいる。
「無謀な真似をするな」
その声には、珍しく感情が滲んでいた。
「ここは戦場だ」
「分かっています」
葵は真っ直ぐに答えた。
「だからこそ、私がいなければ」
カインは何か言いかけて、口を閉ざした。
その横顔に、葵は複雑な感情を見た気がした。
「...好きにしろ」
そう言って、彼は再び戦線に戻っていく。
(心配、してくれたの?)
その想いは、すぐに打ち消された。
今は、目の前の現実に集中しなければ。
葵は再び負傷者の治療に没頭した。
「生命の痕跡」の力を使いながら、前世の経験を総動員する。
時間が過ぎていく。
戦いは続き、負傷者は増えていく。
しかし、葵の動きは止まらなかった。
(これが、私の在り方)
前世も、現世も。
命を救うことが、彼女の使命なのだから。
夕暮れが近づき、ようやく戦況が収まってきた頃。
葵は、ふと立ち止まった。
戦場を見渡すと、カインが部下たちに指示を出している姿が見えた。
その背中は、相変わらず孤独に見えた。
(いつか、その傷を癒やせるだろうか)
それは、医術では治せない傷。
だからこそ、葵の心に深く刻まれていく。
夕陽が地平を染める中、彼女は静かに自問していた。
前世の使命と、現世での想い。
その二つは、どこへ導いていくのだろうか―。