境界線の向こう
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本日は2話目の更新です。
夜明け前の空は、まだ暗かった。
葵は馬に乗りながら、カインの背中を見つめていた。
「本当に大丈夫なのか」
「はい。馬の扱いには慣れています」
実際、辺境伯爵家の令嬢として、乗馬の訓練は受けていた。それに―
(救急車のサイレンの中、揺れる車内で処置をしていた経験が役立った)
「到着まで半日はかかる」
カインの声が、朝靄に溶けていく。
「辺境の村々は、魔獣の脅威に晒されている」
それは葵も知っていた。貴族の令嬢として、表向きは知らないふりをしていたが、実際は街で見聞きしていた話だ。獣害による怪我人、不十分な医療体制、そして...
「来たぞ」
カインの声で顔を上げると、濃い霧の向こうに村の輪郭が見えてきた。しかし、その光景に葵は息を呑んだ。
集落を囲む柵は所々が壊れ、修復の痕が生々しい。畑には深い爪痕。そして、村人たちの表情には、どこか諦めのような影が潜んでいた。
「カイン隊長!」
駆け寄ってきた村長は、老いた体で深々と頭を下げる。
「ご巡回、感謝いたします」
「被害状況は?」
カインの声は、いつもより柔らかかった。
「昨夜も、また...」
村長の言葉に、葵は即座に馬から降りた。
「怪我人は?」
「集会所に...」
案内された集会所には、すでに数人の負傷者が横たわっていた。魔獣の爪による裂傷、打撲、中には子供も。
(これは...)
葵は迷うことなく、負傷者たちの治療を始めた。触診による状態確認、応急処置、そして薬草の活用。前世の知識と現世の技術を組み合わせながら、次々と手当てをしていく。
「痛みが...消えていく」
「傷が、塞がっていく...」
村人たちの驚きの声が響く。そして、彼らの表情から、少しずつ影が消えていくのが分かった。
「お嬢様...いや、お薬師様」
老村長が涙ながらに感謝を述べる。
「こんな辺境の村まで...」
「私にできることをしただけです」
葵はそう答えながら、ふと背後の気配に気づく。
カインが、黙って彼女を見つめていた。その表情は相変わらず無表情に近かったが、瞳の奥に何かが揺れているように見えた。
「次の村へ向かうぞ」
簡素な言葉だけを残し、彼は外へ出て行った。
その日、彼らは三つの村を回った。
どの村でも同じような光景があった。魔獣の痕跡、負傷者、そして―希望を失いかけた人々の表情。
夕暮れが近づき、最後の村を出た時だった。
「なぜ、そこまでできる?」
突然、カインが問いかけてきた。
「普通の貴族令嬢なら、この様な場所には...」
葵は少し考えてから、答えた。
「誰かが苦しんでいるなら、助けたい。それだけです」
「...お前は変わっているな」
「そうでしょうか」
「ああ。だが...」
その時、カインの表情が一変した。
「伏せろ!」
葵の体が宙を舞う。カインが彼女を抱き寄せ、地面に転がった直後、巨大な影が二人の頭上を掠めた。
「グルルル...」
現れたのは、成獣の魔獣。漆黒の体躯に赤い眼光を放ち、牙を剥き出しにしている。
「距離を取れ」
カインは葵を庇いながら、剣を抜いた。
しかし、魔獣は一頭ではなかった。
茂みの中から、次々と姿を現す赤い眼。群れで行動する魔獣の中でも、最も危険な種だった。
「葵」
初めて、カインは彼女の名を呼んだ。
「私が囮になる。その間に...」
「嫌です」
葵は断固として言った。
「見捨てて逃げるなんて、できません」
その瞬間、不思議な光が葵の手から溢れ出した。
「生命の痕跡」が、今までとは違う形で発現する。
守りたい。
それは、前世から変わらない彼女の願い。
「カイン様、私に触れていてください」
「何を...」
説明している時間はなかった。
迫り来る魔獣の群れ。
しかし、葵の手から放たれた光は、確かにカインの体を包み込んでいた。
「行きましょう」
戦いが始まった―。