伯爵令嬢としての目覚め
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「お嬢様、本日の薬草学の復習を始めましょうか」
メイドのアンナが、分厚い植物図鑑を開きながら声をかけてきた。葵は窓辺から視線を外し、行儀よく背筋を伸ばす。
前世の記憶を持ったまま目覚めてから、一週間が経っていた。
この世界での自分―月城葵は辺境伯爵家の一人娘。十七年間、箱入り令嬢として大切に育てられてきた。しかし今や彼女の中には、二十六年の人生経験を持つ救急救命士の記憶が共存している。
「アンナ、この赤い花は何かしら」
「はい、それはブラッドローズと呼ばれる希少な薬草です。傷口の治癒を促進する効果があるとされていますが、採取が難しく...」
(止血と創傷治癒の促進...前世で言えばヘモスタットのような効果かしら)
葵は無意識に医療的な視点で考察していた。不思議なことに、この世界の薬草や治療法は、前世の医学知識と完全に一致はしないものの、どこか共通する部分が多い。
「お嬢様の薬学の才能は素晴らしいですね。貴族のたしなみとしてだけでなく、本当に理解されている」
アンナの言葉に、葵は苦笑を隠した。才能ではない。これは前世からの知識と経験だ。しかし、その説明はできない。
突然、城下町の方角から警鐘が鳴り響いた。
「魔獣襲来の警報!」
アンナの顔から血の気が引く。
「アンナ、状況を見てきて」
「しかし、お嬢様...」
「大丈夫。私は部屋で待機するわ」
アンナが出ていった後、葵は即座に行動を開始した。前世で救急バッグに詰めていた備品を思い出しながら、薬草と包帯を手際よく詰めていく。
(人が傷ついているかもしれない)
救命士の本能が、じっとしていることを許さなかった。
「申し訳ありません、お嬢様。城下町で魔獣の群れが―」
戻ってきたアンナの報告を遮るように、葵は言った。
「詳しい状況は後で聞くわ。今は負傷者の受け入れ準備をして」
「え?」
「この館には立派な医務室があるでしょう?きっと必要になるわ」
アンナが困惑する間も、葵は次々と指示を出した。医務室のベッドの準備、お湯の確保、包帯の用意―。前世で災害対応をしてきた経験が、自然と身体を動かしていく。
その判断は正しかった。
「負傷者到着です!」
程なくして、最初の負傷者が運び込まれた。魔獣に腕を噛まれた街の商人だ。
「失礼します」
葵は躊躇なく傷口に手を当てた。その瞬間、不思議な感覚が全身を走る。傷の深さ、組織の損傷具合、出血量―それらが手に触れただけで分かるのだ。
(これは...新しい能力?)
しかし、考えている暇はない。葵は的確に応急処置を施していく。止血、消毒、包帯。
「すごい...痛みが和らぎました」
商人が驚きの声を上げる。
次々と運び込まれる負傷者に対応しながら、葵は状況を把握していった。魔獣の群れが突如として城下町を襲撃。騎士団が対応しているものの、すでに多数の負傷者が出ているという。
「くっ...」
新たに運び込まれた騎士が苦悶の表情を浮かべる。胸部に大きな裂傷。前世なら即座に救急搬送が必要な重症だ。
「大丈夫」
葵は迷いなく騎士に手を当てた。すると、不思議な温かさが手のひらから広がっていく。
(私にできること、全てを)
必死に処置を施す葵の耳に、どこからか馬のひづめの音が聞こえてきた。
「第三騎士団、到着!」
凛とした声が響く。振り返ると、そこには一人の騎士が立っていた。漆黒の鎧に身を包み、凛々しい顔立ちの青年。しかし、その表情は無表情に近かった。
「辺境伯爵令嬢」
彼は葵を一瞥し、そう呟いた。
「カイン隊長!魔獣の群れは!?」
部下の叫びに、彼は短く答える。
「掃討完了。死傷者の確認を急げ」
カイン・ヴァルハイト。王立騎士団第三部隊長。その名を聞いたことはあったが、まさかこんな形で対面することになるとは。
「失礼します」
葵は軽く会釈すると、すぐに負傷者の治療に戻った。今は目の前の命を救うことが優先だ。
しかし、背中には鋭い視線を感じる。
カインは、じっと葵の動きを観察していた。
(これが、運命の出会いだった)
後に葵はそう思い返すことになる。
しかし、その時は誰も知らなかった。
この出会いが、やがて王国全体を揺るがす物語の始まりになることを―。