穏やかな日常
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「医務官殿、それは違いますよ」
医務室に、若い騎士の困ったような声が響く。葵は手の中の包帯を見つめ、頬を赤らめていた。
「あの...」
「包帯は内側から外に巻くのです。それでは血が...」
「ごめんなさい」
葵は小さく謝る。実は包帯の巻き方を間違えるのは、今日で三度目。前世では救急救命士として完璧だったのに、この世界の包帯となると何故かぎこちない。
「意外ですね」
騎士が笑う。
「いつもは手当ての神様なのに」
「からかわないで」
葵が膨れっ面をすると、医務室に柔らかな笑いが広がった。
「ほら、ここをこうして...」
若い騎士が丁寧に教えてくれる手つきに、葵は懐かしさを覚えた。前世で、先輩に教わったことを思い出す。
アンナが温かな紅茶を運んでくる。
香り立つ湯気が、冬の医務室に穏やかな空気を運んでいた。
「アンナ、この子、大分上手くなりましたよ」
若い騎士が笑う。
「最初の頃は、手当ての時にいつも震えていたのに」
「もう、そんな昔話を...」
確かに、医務官になりたての頃は緊張の連続だった。「生命の痕跡」という特別な力はあっても、この世界の医術には戸惑うことばかり。
でも今は―
「皆さんのおかげです」
葵は、心からの笑顔を向けた。
「医務官殿!」
突然、別の騎士が飛び込んできた。
「大変です!」
「何かあったの?」
「隊長が...!」
葵は立ち上がる。
しかし―
「隊長が、キッチンで甘いものを盗み食いしているのを、料理長に見つかってしまって...」
一瞬の静寂。
そして、医務室に笑い声が響く。
「まったく、カイン様ったら」
葵は、思わず吹き出してしまう。
戦場の英雄、凛々しい騎士団長。
でも意外なことに、彼には甘いものへの隠れた執着があった。
特に、王城のパティシエが作るプリンには目がない。
「助けに行かなくては」
葵は、くすくすと笑いながら立ち上がる。
途中、廊下で料理長の怒声が聞こえる。
「隊長殿!それは今晩のデザートです!」
「...」
黙って立ちすくむカイン。
その姿は、まるで叱られる子供のよう。
「料理長」
葵が、にこやかに声をかける。
「プリン、余分に作れますか?医務室用に」
「医務官殿」
料理長は、一瞬考えて頷く。
「分かりました。後ほどお持ちします」
カインの表情が、わずかに綻ぶ。
「医務室で、一緒にいただきましょう」
葵の言葉に、カインは咳払いをしながら答えた。
「...ああ」
その日の午後、医務室では珍しい光景が広がっていた。
戦場の英雄が、幸せそうな顔でプリンを食べている。
騎士たちは、遠巻きにその姿を見て微笑む。
「カイン様」
葵は、向かいの席で自分のプリンを口に運びながら尋ねた。
「甘いものがお好きだったなんて」
「...母上が作ってくれたものの味が、忘れられなくて」
珍しく、カインが昔話を始める。
「たまに、思い出すんだ」
夕暮れの医務室。
甘い香りと、穏やかな語らいが、
冬の陽射しと共に、ゆっくりと溶けていく。
「明日は、また包帯の練習ですね」
アンナが、使用済みの食器を片付けながら言う。
「ええ」
葵は、窓の外を見つめた。
庭では、若い騎士たちが訓練を終えて、笑顔で話している。
(こんな日常が、あるなんて)
前世でも、現世でも、
彼女は人を救うことに全力を注いできた。
でも、こんな穏やかな時間。
温かな笑顔。
そして、大切な人との何気ない会話。
それは、新しい宝物になっていた。
医務室の窓に、夕陽が差し込む。
カインが立ち上がり、さりげなく葵の肩に手を置く。
「そろそろ、夕方の巡回の時間だ」
「はい」
葵は、小さく頷いた。
日常は、こうして続いていく。
時には慌ただしく、時には穏やかに。
でも、確かな幸せと共に―。




