決戦
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黒い霧が渦を巻く中、半人の姿となった禁忌の魔獣が佇んでいた。その赤い瞳には、もはや獣としての混濁だけではない、何か別の意思が宿っていた。
「カイン様」
葵は戦いの準備をする騎士たちの後方で、静かに呼びかけた。
「古文書に、気になる記述がありました」
「どういう内容だ」
カインは剣を構えたまま、わずかに顔を向ける。
「禁忌の魔獣は、人の魂を喰らい、その記憶を取り込むとあります。そして...」
葵は一瞬言葉を詰まらせた。
「最期には完全な人の姿となり、その意識すら模倣しようとする」
まるでその言葉に反応するように、魔獣が動いた。
その動きは、明らかに人の戦術を理解していた。剣を持つ腕のような影が形作られ、騎士の構えに似た姿勢を取る。
「まさか...」
カインの表情が変化した。
「グオォォ...騎...士...」
魔獣の口から、かすれた人の声が漏れる。
「隊長!この動きは!」
若い騎士の一人が叫ぶ。
「まるで、あの時の...」
「下がれ!」
カインの声が、夜空に響き渡った。
その表情には、ある確信が浮かんでいた。
「葵」
彼は背を向けたまま、静かに告げる。
「これが、三年前に消息を絶った第四部隊の原因か」
葵の背筋が凍る。
三年前―カインが第三部隊の隊長に就任する直前、王立騎士団の誇る第四部隊が、辺境での任務中に忽然と姿を消した。
「彼らは...喰われたのではない」
カインの声が、重く沈む。
「変えられたのだ」
魔獣の姿が、さらに人に近づいていく。
その動きの中に、確かな剣術の型が見え始めていた。
騎士団の型。失われた第四部隊の記憶。
「我々は...帰還...する...」
魔獣の言葉に、人としての意識が混ざり始める。
「任務...果たす...」
「やはり」
カインが剣を構え直す。
「第四部隊の隊長、レオン・ヴァルデマールか」
かつての同僚の名を呼ぶ声に、深い悲しみが滲んでいた。
「私がやります」
葵が一歩前に出た。
「何を」
「この状態なら、私の『生命の痕跡』で、彼らの意識に触れられるかもしれない」
「危険すぎる」
「でも、彼らは今、苦しんでいます」
葵の声に、強い決意が宿っていた。
「人の意識を持ったまま、魔獣として存在することが、どれほどの苦痛か」
それは、前世で看取ってきた数多の命の重みが、彼女にもたらした確信だった。
「...勝手なことをするな」
カインは、ため息まじりにそう告げた。
しかし、その声には非難の色はなかった。
「私が、戦いで時間を作る」
彼は剣を構え直す。
「その間に、お前は...」
「はい」
葵は頷いた。
「必ず、彼らを解放してみせます」
## 第二節「魂の慟哭」
剣戟が夜空に響く。
カインの剣と、魔獣と化したレオンの影が交差する。その動きは、まさに騎士同士の激闘そのものだった。
「あの頃と...変わらぬ...腕前...」
レオンの意識が、魔獣の口を借りて語る。
「しかし...もう、人では...ない」
黒い霧が渦を巻き、その姿がさらに人に近づいていく。漆黒の鎧のような外殻が形成され、かつての騎士の面影が浮かび上がる。
「葵!」
カインが叫ぶ。
「今だ!」
葵は駆け出した。
周囲の騎士たちが、彼女の動きを護衛する。
完璧な連携。幾度もの戦いで培われた信頼が、そこにはあった。
「レオン隊長」
葵は、魔獣と化した騎士に向かって呼びかける。
「私に、触れさせてください」
「近づくな...」
レオンの意識が警告を発する。
「もう、制御が...」
その時だった。
魔獣の本能が、一瞬レオンの意識を上回る。
鋭い爪が、葵めがけて振り下ろされた。
「葵!」
カインの叫びが響く。
しかし、葵は動かなかった。
「生命の痕跡」が、彼女の手から強い光を放っている。
「させません」
彼女の声は、凛として揺るがない。
「あなたの魂を、これ以上苦しませません」
光が、爪を受け止めた。
接触した瞬間、葵の意識が魔獣の内側へと入り込んでいく。
そこには―
無数の記憶が渦巻いていた。
初めて騎士団に入団した日の誇らしい記憶。
共に戦場を駆けた仲間たちの顔。
夕暮れの訓練場で交わした約束。
「必ず、帰還しよう」
レオンの記憶。
朝露の中で剣を交える若きカインとの姿。
「お前なら、きっと立派な隊長になる」
そして、禁忌の魔獣との遭遇。
仲間たちが次々と喰われ、変えられていく光景。
最後の一人となり、自らも魔獣に飲み込まれる瞬間。
「守れなかった...」
「皆を、返して...」
「もう一度、あの日々に...」
(こんな、苦しみを)
葵の中で、前世の記憶が呼び覚まされる。
救急救命士として、どれほどの苦痛に向き合ってきただろう。
しかし、この魂の苦しみは、また別のものだった。
「レオン隊長」
葵は、意識の深層に呼びかける。
「もう、大丈夫です」
「私は...」
「はい。十分、戦いました」
光が、魂の奥底まで届いていく。
それは、まるで前世での看取りのように。
ただ、今度は違った。
魂を解放する光となって。
「カイン...」
レオンの意識が、かすかに笑みを浮かべる。
「お前に...会えて...良かった」
「ああ」
カインの声が、感情を抑えきれずに震える。
「立派な騎士だった」
その時、異変が起きた。
魔獣の体から、黒い霧が爆発的に噴き出す。
その中心で、レオンの魂が光に包まれていく。
「みんな...すまない」
最後の言葉が、夜風に溶けた。
しかし、それで終わりではなかった。
魔獣の体が、激しく歪み始める。
「これは...」
葵の目が見開かれる。
「レオンさんだけじゃない。他の隊員たちの意識も...!」
黒い霧が、渦を巻きながら暴走を始めた。
その中で、無数の魂が呻いている。
第四部隊の騎士たち。
全ての記憶、全ての意識を内包したまま。
## 第三節「解放の光」
葵の意識が、さらに深く潜っていく。
一人一人の騎士たちの記憶が、鮮明に浮かび上がる。
若き剣士、エドモンド。
故郷の村を守るため、騎士を志した少年。
初めての任務で救った少女から贈られた護符を、いつも胸に。
「必ず、戦場から帰ると、約束したから」
槍の名手、マーカス。
厳しい訓練の中にも、仲間への優しさを忘れなかった男。
「俺たちは、互いを信じ合える騎士団だからな」
魔法戦術の天才、リリアン。
女性騎士として、誰よりも強く在ることを誓った。
「私が、道を示してみせる」
そして、彼らを導いたレオン隊長。
誰よりも部下を想い、誰よりも騎士の誇りを持っていた男。
「みんな...殺せ...」
「解放...してくれ...」
「もう...戦いたくない...」
無数の声が、葵の意識に押し寄せる。
(これは、前世では経験したことのない状況)
しかし、彼女には確信があった。
この手の中にある光が、必ず道を示してくれると。
「カイン様!」
葵は叫んだ。
「この魔獣、人の魂を核にして存在しています」
カインは一瞬で理解した。
「つまり、魂を解放すれば」
「はい。ただし...」
葵の表情が曇る。
「一度に大量の魂が解放されれば、魔獣の体が暴走します」
その言葉通り、黒い霧は制御を失ったように膨張と収縮を繰り返していた。まるで、内側で何かが爆発しようとしているかのように。
「皆、後退!」
カインが即座に命じる。
「葵、お前も...」
「いいえ」
葵は静かに首を振った。
「私には、できることがあります」
彼女の手から、これまでにない強い光が放たれる。
それは前世の記憶と、現世での使命が融合した光。
葵の意識が、再び魔獣の内側へと深く沈んでいく。
一人一人の魂に、光が触れていく。
エドモンドの記憶。
最後の戦いの前夜、護符を握りしめながら書いた手紙。
「母上、私は騎士として、誇りを持って戦えました」
マーカスの記憶。
若い騎士たちを守るため、最後まで槍を手放さなかった背中。
「俺が、お前たちの盾になる」
リリアンの記憶。
魔獣に飲み込まれながらも、最後の魔法で仲間たちを守ろうとした瞬間。
「これが、私の誇り」
一つ一つの記憶が、光の中で解き放たれていく。
魂たちは、それぞれの最期の想いと共に、安らかな表情を取り戻していった。
「もう...十分です」
「よく...戦った」
「ありがとう...」
感謝の言葉が、光の中に溶けていく。
魔獣の体から、黒い霧が消えていく。
そこには透明な光の帯が、天に向かって昇っていく。
それは、まるで騎士たちの凱旋のようだった。
誇り高き戦士たちの、最後の行進。
「レオン...みんな」
カインが、剣を下ろしながら呟く。
「よく帰ってきた」
「終わり...ました」
葵の声が、かすかに震える。
「みんな、解放...」
その言葉と共に、彼女の意識が途切れた。
「葵!」
カインが駆け寄る。
その腕の中で、葵はかすかに笑みを浮かべていた。
「無事、看取れました」
それは、前世からの誇り。
そして、現世での新たな誓い。
夜明けの光が、戦場を優しく照らし始めていた。
カインは、葵を抱きながら、朝焼けを見つめていた。
戦場の英雄の瞳に、初めて温かな光が宿っている。
「帰るぞ、葵」
その言葉には、これまでにない優しさが滲んでいた。
「お前には、まだまだ救うべき命がある。医務官として、騎士団と共に」
光の帯は、まるで祝福するかのように、
朝焼けの空へと溶けていった。
騎士たちの魂は、今、安らかに―。