最期の救命
お読みいただきありがとうごさいます。
毎日1話、更新。
日によって2話の日もあります。
「救急車到着まであと五分!」
月城葵は傷病者の脈を確かめながら、無線の声に頷いた。路上に横たわる老人の意識は朦朧としているが、なんとか持ちこたえている。
「大丈夫ですよ。もうすぐ病院に着きます」
葵は老人の手を優しく握り、声をかけた。二十六年の人生で、彼女は何度この言葉を口にしただろう。それは決して形だけの励ましではない。救急救命士としての彼女の誓いだった。
「命を...守る」
それは葵が救命士を志したときから変わらない想い。医師でも看護師でもない。しかし、現場で命をつなぐ最後の砦として、彼女は誇りを持っていた。
「葵さん、気圧の変化やばいです」
後輩の山田が空を見上げながら告げる。
確かに、今日の天気は朝から不安定だった。台風の接近で、街全体が落ち着かない空気に包まれている。
「了解。今日は忙しくなりそうだね」
葵は救急車に戻りながら、空模様を確認した。灰色の雲が低く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな気配が漂う。
病院に到着し、老人を医師に引き継いだ直後、無線が鳴り響いた。
『全車両注意!台風の影響で各地で被害発生!特に東部地区の小学校で建物の一部が崩壊!多数の要救助者あり!』
葵の背筋が凍る。東部といえば、古い校舎が多い地域だ。
「山田くん、行くわよ」
「はい!」
サイレンを鳴らし、救急車は暴風の中を走り抜けた。到着した現場は、想像以上に悲惨だった。体育館の屋根が強風で一部剥がれ、避難していた児童たちが下敷きになっている。
「トリアージを開始します!」
葵は即座に現場指揮者に報告し、負傷者の確認を始めた。雨が激しさを増す中、赤・黄・緑・黒のタグを次々と付けていく。その瞬間、かすかな声が聞こえた。
「先生...」
がれきの陰から、小さな手が伸びている。葵は躊躇なく走り寄った。
そこには一人の少女が倒れていた。制服は埃まみれで、右足は建材に挟まれている。しかし、意識ははっきりとしていた。
「大丈夫?お姉さんが助けてあげるからね」
「うん...でも、まだ中に...」
少女の言葉に、葵は息を呑んだ。奥を覗くと、さらに数人の児童が見える。このままでは、建物が完全に崩壊する可能性もある。
「山田くん!この子を頼む!」
「え?葵さん、どこに!?」
葵は返事をする暇もなく、がれきの間を縫って進んでいった。風雨は更に強まり、建物のきしむ音が不吉に響く。
奥で見つけた児童たちは三人。幸い、大きな怪我は見られない。
「順番に出るわよ。一人ずつ、ゆっくりでいい」
一人、また一人と、児童たちを脱出させる。最後の一人を送り出したとき、上から不穏な音が聞こえた。
「葵さん、早く!建物が!」
山田の必死の叫び声が聞こえる。
葵は最後の児童を思い切り押し出した。その直後、轟音と共に、天井が崩れ落ちてきた。
(ああ、これが私の...)
激しい痛みと共に、意識が遠のいていく。しかし、不思議と恐怖はなかった。守るべき命を守れた。それだけで、彼女の人生は誇れるものだった。
「よく頑張りましたね」
突如、優しい声が響く。目を開けると、そこは真っ白な空間。美しい女性が微笑んでいた。
「あなたの覚悟と献身、見させていただきました」
「私は...死んだんですね」
「はい。でも、あなたの物語はまだ終わりではありません」
女性―女神は葵に手を差し伸べた。
「今度は、違う世界で。でも、同じ想いを持って生きてみませんか?」
「違う...世界?」
「ええ。そこでも、きっとあなたの力が必要とされています」
葵は迷わず、その手を取った。命を救いたいという想いは、魂そのものに刻まれているのだから。
「では、新たな人生を―」
光に包まれる感覚。そして、すべてが闇に溶けていった。
*
「お嬢様、お目覚めの時間です」
聞き慣れない声に、葵は目を開けた。見知らぬ天蓋付きのベッド。豪華な調度品に囲まれた部屋。そして、メイドらしき少女の穏やかな微笑み。
(ここは...)
体を起こそうとして、葵は違和感に気づく。手は小ぶりで白い。明らかに子供の体だ。
記憶が一気に押し寄せる。
救急救命士としての人生。最期の救助。そして、女神との約束。
「辺境伯爵家の令嬢」
そう、これが私の新しい人生―。
そして、これが新たな誓いの始まりだった。