第33話 再び二人で
吊り橋渡りの森に久々に足を踏み入れたライオスは、何やら感慨深いものを感じた。
この森の存在を知ったのは九歳の時、ルルイエと婚約して一年後だ。
心の声や他人の感情を感じ取ってしまうライオスは、休養とストレス発散を目的によくグレイヴ家に訪れていた。そこでマシューからこの吊り橋渡りの森の話を聞いたのである。
それから一年。ライオスはこの吊り橋渡りの森に通い詰めて、全コース制覇し、ルルイエと挑戦したのが十歳の時だった。
「この森に入るのは懐かしいね」
「はい」
この森はある一定の距離を歩くと、途端に歩きにくくなる。
森の明るさや地面の傾斜、それから木々の高さを分からないように調整しており、人為的な目の錯覚を生み出していた。
安定しない足元に女性は不安になってしまうし、男性は身体を支えようと相手の身体に腕を回すようになる。
そんな緊張感と密着する状況が三十分近くも続けば、嫌でも互いに意識してしまうだろう。
ふとライオスは足を止めて、地面を見つめた。
「ここからかな?」
通い詰めていた頃の感覚はまだ残っていたらしく、分かりにくい地面の高低差をライオスは見抜いた。
少し不安げな顔をするルルイエに、ライオスは背中から腕を回し、手を握り直す。
「大丈夫。今度はしっかり支えてあげるから」
十歳の時、ルルイエと挑戦したライオスだったが、当時はバランスを崩した彼女を支える力もなかったため、何度も転んだ。
そのうちルルイエが泣きそうになる雰囲気を感じ取って、ライオスは早々に引き返したのである。
子どもだった頃とは違い、ライオスの身体も成長した。あの時のように転ぶことはないだろう。
ルルイエは少し緊張した顔を上げると、ゆっくりと頷いた。
「はい」
ルルイエから幼い頃のリベンジへの気合と転ばないかの不安。そしてライオスとの距離の近さに緊張する感情が伝わってくる。
そんな彼女の感情が愛おしく、心地よいと思いながら、ライオスはルルイエの歩幅に合わせて歩みを始めた。
若干ふらつきはするものの、ライオスの支えがあってルルイエも落ち着いて歩いている。
この森はゆっくり自然を観察しながら歩けないのが残念だが、一種のアスレチックのような楽しみがあった。
(初めてここを使った王族は何を考えて、ここを歩いたんだろうな)
下心があったのか、それとも君主想いのグレイヴ家に放り込まれたのかは分からないが、今もこうして語り継がれているのだから、悪い思い出ではなかっただろう。
(偶然にも人の心理を利用した仕掛けになったとはいえ、誰もが吊り橋効果に引っかかったわけではないだろうし。思い出作りにはよかっただろうね)
幼い頃に失敗したライオスも、あの頃の思い出を悪いとは思っていない。あの経験を得て、ルルイエを格好良く支えられる男になるとライオスは胸に誓った。がっつり鍛えたわけではないが、今では簡単に彼女を支えることができるだろう。
(でも、意外だな。ルルイエがここにまた来たがるなんて)
あの頃のルルイエが『もうイヤ……』と心の中で呟いていたことを思い出し、ライオスは小さく笑った。
「殿下……?」
ルルイエが不思議そうに顔を上げ、ライオスは微笑む。
「ああ、ルルイエとまたこの森に入れて嬉しいなと思っただけさ。ルルイエはあまりいい思い出がないだろう?」
「え……あっ、それは……」
恥ずかしそうに俯き、彼女が昔のことを思い出しているのが分かった。
「そうですね……せっかく殿下が誘ってくださったのに、何度も転んで殿下に迷惑をかける自分が嫌になってしまって、泣きそうになったのをよく覚えています」
(え……そうだったの?)
てっきり転ぶのが嫌で泣きそうになっていたと思っていたライオスは、ぽかんとしてしまう。
「……ですが、いつかはちゃんと完走したいと思っていました。ライオス殿下、誘ってくださりありがとうございます」
恥ずかしそうに笑いながらルルイエはそう言い、ライオスの手をぎゅっと握った。それが嬉しく思うと同時に、彼女を抱きしめられないもどかしさがライオスを襲った。
ここで勢いに身を任せて抱きしめれば、心臓の弱い彼女のことだ。医師を待たずして昇天しかねない。
「私こそ、またこの遊歩道を一緒に歩いてみたいと思っていたんだ。こちらこそありがとう、ルルイエ」
ルルイエの頬が赤く染まり、彼女はこくこくと頷いた。
『や、やったわ! 誘えなかったらどうしようかと思ったけれど、ライオス殿下から誘ってもらえたし、今度こそ、完走もできそう!』
喜びに湧いている彼女の心の声を聞きながら、ライオスは内心でうんうんと頷く。
(ルルイエが喜んでいるようで良かった良かった)
『でも……』
(ん?)
『ロマンス小説のようにはいかなかったわ……エスメラルダ王女もライオス殿下が目的でやって来たわけではなかったみたいだし』
ルルイエの頭の中に再びロマンス小説の悪女が浮かんだ。
(あれ……また悪女?)
そういえば、ずっと彼女の頭に浮かんでいた悪女の意味がライオスは分からなかった。おまけにエスメラルダがお見合いを潰すために来たことを伝えていない。伝える時間もなかったが、ミカエルから「何もするな」と言われていたので、話すつもりもなかったのだ。
(そういえば、ルルイエは何がしたかったんだろう? この森に入りたかったのは確かみたいだったけど。これだけは分からなかったな……)
いっそう聞いてしまった方が早いかもしれない。しかし、彼女がロマンス小説を読んでいることは知らないことにしているので、やんわり訊ねてみることにした。
「そういえば、ルルイエ。エスメラルダ王女達が来る直前、何を言いたかったんだい?」
「えっ」
「何か私と二人でしたいように感じたのだけれど、こうして二人きりになったことだし、したいことがあるなら言ってごらん?」
「そ、そ、それは…………」
彼女は頭に悪女を思い浮かべながら右往左往した後、誰もいないのに周囲を見渡してからライオスに耳打ちをした。
「じ、実は、二人でこの森に入るところをエスメラルダ王女に見せつけて…………そ、その……ライオス殿下を、独り占めしたいなぁ……と」
彼女はそう言うと、『言ってしまった!』と真っ赤になった顔を両手で隠した。
つまり、ルルイエの浮かべていた悪女とは、エスメラルダ(ヒロイン)の前でライオス(ヒーロー)を奪う自分(悪女)だった。
彼女の脳裏に『ライオス殿下はわたくしのものよ!』と悪ぶる姿が浮かんでおり、ライオスは静かに震える。
(と…………とんだ悪い女がいたもんだなぁ!)
なんて恐ろしい女なんだろう。こんな恐ろしい女が今、自分の腕の中にいると思うとライオスは震えが止まらない。
ずっと自分の腕の中で捕まっていて欲しいと思った。
(独り占め……独り占めか……そうか……)
ルルイエが望むなら応じようではないかとライオスは内心で静かに頷いた。
ライオスがずっと黙っているのが気になったのか、顔を隠していたルルイエがライオスに顔を向ける。
「…………あのう、ライオス殿下?」
「いいよ」
「はい……?」
「ルルイエなら、私を独り占めしてもいいよ」
「はひっ⁉」
せっかく赤みが引いたルルイエの顔が再び赤く染まる。そんな彼女の姿がますます愛おしくなった。
「もっと我儘になって、自分だけのものだと私を独占するといい。ね? 私の可愛い婚約者さん?」
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」
声にならない悲鳴を上げたと同時にルルイエの頭の中が音を立てて爆発する。
ライオスが驚くよりも先にルルイエの姿が視界から消え、ライオスは咄嗟に彼女の身体を抱き留めた。
「うわぁっ⁉」
「ふぇっ⁉」
腰に力が入らなくなったのか、ルルイエは完全にライオスに身を委ねる形となり、彼女の心音が直に伝わってくる。
ドドドドドドドドドドドドドドドッ!
服越しであるにも関わらず、彼女の鼓動はライオスの身体に激しく打ち付けるようにして鳴り響いていた。
ルルイエの身体がみるみる熱くなっていき、パニックになったルルイエの心から悲鳴と狼狽える声が聞こえてくる。
『ひゃぁあ~~~~~~っ⁉』『か、身体が』『ああ、どうしましょう!』『熱い』『溶けそう』『ドキドキがすごい』『心臓が』『心臓が、破裂してしまいそう!』
(がんばれぇえええええ、心臓ぉおおおおお⁉)
まさかルルイエの心臓がここまで弱かったとは。
ルルイエの胸の苦しさを直に感じたライオスは、彼女を落とさないように抱え直す。
「ル、ルルイエ……大丈夫?」
「す、すみません……ライオス殿下。ま、また、わたくし……」
心臓の音が落ち着いてきた頃、ライオスの胸にしがみつくルルイエから『このままでは幼い頃の二の舞に⁉』と焦る感情が伝わって来た。
彼女はリベンジに燃えていたのだ。このまま引き返したら、リチャード達に合わせる顔がないだろう。
しかし、この遊歩道には落ち着ける休憩場所はない。腰も抜けて心臓が辛い状況で彼女を歩かせるのは困難だ。
「……ルルイエ、私の首に腕を回してくれる?」
「は、はい……きゃっ」
ライオスはルルイエを横抱きにして持ち上げると、そのまま遊歩道を歩き出した。
「じゃあ、行こうか」
「え、でも、殿下⁉ わたくし……」
ルルイエの心は申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちで荒れ狂っており、そんな彼女を落ち着かせようとライオスは笑いかけた。
「ルルイエ、あの時と違って、私は君をこうして抱きかかえられるようになったんだ」
そう、何度も転んで、泥だらけになって引き返したあの頃とは違う。こうして彼女を抱えて歩けるようになった。
「また君とここを歩けることも、こうして抱きかかえて歩けることも、私にとって喜びしかない」
「で、殿下……」
「だから……今は私に身を預けてくれて構わない。それでまたこの森に来て、私が転びそうになった時は、今度はルルイエが支えておくれ。将来、互いに支え合う夫婦になるのだから」
ライオスがそう言うと、ルルイエはライオスの胸に顔をうずめ、小さく頷いた。
腕の中にいるルルイエの心臓はいまだ早鐘を打っており、ライオスは彼女の心音を感じながら胸の内で呟いた。
(うーん、受け身でいるって、意外に難しいなぁ……)




