第30話 二人の仲に水を差しに
一方、その頃ライオスはグレイヴ家の裏庭で優雅に婚約者とお茶をしていた。
(まさか押し込められるとは……まあ、グレイヴ家の敷地内だし、エスメラルダ王女も下手なことはできないだろう。…………で、ルルイエはどうしたんだ?)
目の前でお茶を飲んでいる彼女はなぜか落ち着きなく、そわそわとしていた。
伝わってくるのは、焦りや緊張だけでなく、闘志に似たやる気が伝わってくる。一体、何と戦う準備をしているのかは分からないが、頭の片隅にはロマンス小説の悪女が浮かんでいた。
いくら好きな人が相手でも断片的な感情だけではライオスは何も推測できない。
「ルルイエ、どうしたの?」
「えっ⁉ 何がですか⁉」
「何か悩んでいるような顔をしていたから……何かしたいことがあるなら言ってごらん。グレイヴ家に頼んであげるから。ね?」
マシューへ顔を向けると、彼は恭しく頭を下げた。
ライオスの頼みならともかく、ルルイエなら無理難題は言ってこないと分かっているからだろう。
マシューが了承する態度を取ったことでルルイエは慌てて首を横に振る。
「い、いえっ! グレイヴ家の方々のお手を煩わせるほどのことではないのです!」
彼女がそう言う背後で、テレサがルルイエを応援している。
彼女がやりたいことは、何か特別のことではなさそうだが、よほど気合を入れるほどのものらしい。今でも頭の片隅に、ロマンス小説の悪女が高笑いしていた。
(なんだろう? このやる気のある感じ。彼女が思い浮かべているロマンス小説の悪女にしたって、あのキャラはなんかしてたっけ?)
彼女が思い浮かべている悪女はヒーローの婚約者で、彼を独占しているところをヒロインに見せつけるのである。
『婚約者の私と、婚約者でもない平民の貴方じゃ何もかもが違うのよ! もちろん、その子どももね!』
高笑いしながら、主人公の心を傷つける彼女はまさしく悪女だった。
「えーっと、ライオス殿下……その……」
指をもじもじさせながら、口をもごもごさせるルルイエの頭には『彼は私のものなのよ!』と笑う悪女の姿がずっと浮かんでいる。
ここは彼女が言いたいことを待ってあげるのがいいだろう。
徐々に頬が赤く染まっていくルルイエを見つめながら、ライオスは優しく見守る。
「わ、わたくしと、そ、そのっ…………二人でっ!」
「いけませんっ! エスメラルダ王女!」
ルルイエの言葉に被せるようにして、シシリーの声が裏庭に響いた。
彼女の声がした方へ目を向けると、大股でこちらに向かってくるエスメラルダと彼女の背中を追いかけるシシリーの姿があった。
マシューとテレサが身構えたのを見て、ライオスは手をあげて制止させる。
「ご歓談中失礼しますわ、ライオス様!」
ずかずかとライオス達の前まで来ると、エスメラルダは声を張り上げて言った。
「私を、森へ散歩に連れて行ってくださいませ!」
庭中に彼女の声が響き渡ったと同時に、シシリーの悲鳴に似た心の声が聞こえた。
それだけでなく、背後にいるマシューとテレサや傍に控えていたグレイヴ家の使用人達も、なぜか心の中で寒さに震えているのが分かった。
「………………エスメラルダ王女、それは一体どういうつもりで言っているのだろうか?」
ライオスは静かにカップを置いて、エスメラルダに笑みを向ける。
「私に、婚約者の前で他の女性を連れ歩けと?」
『ひぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!』
この場にいた者達だけでなく、遠くからライオス達を観察していた者達までもが心の中で悲鳴が上げた。
彼らはライオスがどれだけルルイエを愛しているか知っている。八歳の時に婚約してから、よく彼女を連れてグレイヴ家へ遊びに行っていたからだ。
それと同時にライオスも彼らのことをよく知っている。
彼らはライオスに人とは違う何かが備わっていることに勘づいていた。それ故に、ライオスに対して畏敬の念を抱いていることも。
陰で彼らが関係各所に緊急事態を知らせているのを感じながら、ライオスはさらに笑みを深めると、シシリーが慌ててライオスとエスメラルダの間に入った。
「ち、違うんです! ごっごごっ、誤解です! おっおおっ王弟殿下!」
「何が違うんだい、クワント侯爵令嬢?」
「じ、実は! リチャード王太子殿下とフロイス公爵令嬢が、もっ森の中へ散歩に出かけて、エスメラルダ王女も森へ遊びに行きたかったんですけど、グレイヴ家の方々に止められたんです!」
グレイヴ家にはエスメラルダの事情を知っているので、リチャード達の邪魔をさせないために森の中に入るのを止めたのだろう。そこまでは理解が出来た。
しかし、なぜライオスに声をかけたのだろうか。
「ふーん、それで?」
「そ、それで……お二人が入れたのに自分が入れないのはおかしいって、エスメラルダ王女が抗議したら、リグレー伯爵令嬢が王族はこの森を歩き慣れているからと説明されて……じゃあ、王弟殿下が一緒ならいいと思ってエスメラルダ王女は王弟殿下をお誘いしたんです」
(なるほど……確かにそう言えば、彼女の足止めにはなるな)
王族は休息のためにグレイヴ家によく訪れる。防犯もしっかりされているし、森の中も整備されているので危険はない。実際にライオスはあの森の中へ何度も足を運び、歩き慣れているので、カレンの言葉に噓偽りはなかった。
それに加え、この場で一番身分が高いライオスの許しがないと森に入れないということにしてしまえば、エスメラルダは諦めると踏んだのだろう。
(王族を上手くダシに使ってくれたな……まあ、彼女の言っていることは間違いではないのだが……)
ひとまず、凍り付いたこの場を戻そうと、ライオスは大袈裟にほっと息をついた。
「なんだ、そういうことか。良かったよ。危うく婚約者の前で最低な男に成り下がるところだった」
ライオスが笑ったことで、周囲の緊張が解けて空気が和らぐ。
「エスメラルダ王女。こう言ってはなんだが、あの森には特段面白いものはない。グレイヴ家に服を借りて、アスレチックで遊んでいた方が、余程楽しめると思うのだが?」
「そ、それは、確かにそうなのですが! 昨日たくさんはしゃいで疲れているので森の中を歩いてリフレッシュしたいのです!」
そう言う割には、彼女の心の天秤はアスレチックで遊びたい気持ちとキャロラインを追いかけたい気持ちで揺れ動いている。ライオスはもう少し突いてみることにした。
「そうか、残念だ。あそこには滑車付きロープで滑り降りるアスレチックや池の上をジャンプして渡る石橋もあったのだが……残念だな」
「ほ、本当に……残念ですわ、おほほほほ」
大きく揺らぐ天秤は、どうにかキャロラインへ傾き、ライオスは心の中で拍手を送る。
連れて行ってあげたいところだが、前方ではシシリーが後方ではマシューが激しく「ノー」を突き付ける。これではどうしようもない。
(まあ、私が連れて行く理由なんてないんだけど。どちらかと言えばルルイエとお茶をしている方が有意義だし)
『…………うう』
(ん?)
すぐ目の前でルルイエがしょんぼりとした空気を漂わせている。
そういえば、彼女は自分に何かを伝えようとしていたのだ。
今も頭の片隅には悪女がいる。あの時ルルイエは「二人で」と言っていたので自分と何かをしたいと思っていることは分かる。
ふと、ルルイエの感情が伝わり、ライオスの脳裏にリチャード達が向かった森が浮かんだ。あの森には過去にルルイエと足を運んでいるが、彼女はあまりいい思い出はなかったはず。
(もしかして、ルルイエ。あの森に行きたいの? うーん、どうしようかな。今日の靴は歩きやすそうで大丈夫そうだけど、久しぶりだし。この二人も連れていくとなると……)
「ラ、ライオス様」
不意に声をかけられた方へ顔を向けると、エスメラルダがおずおずと口を開く。
「あの……とても悩まれているようですが、あの森は王族しか入れない理由があるのですか? たとえば、森の奥に王家にまつわる何かがあるとか……とんでもない曰く付きがあるとか?」
「あははっ! エスメラルダ王女は面白い発想をするな。あそこにそんなものはないさ」
そう、あそこはただの森だ。他のアスレチックと違って障害物は一つもないし、コースはいくつかあるが、全て一本道で一周にかかる時間もおおよそ四十分ほどのものだ。
「じゃ、じゃあ、本当に歩き慣れているからとか、そういう理由で?」
「そう説明されただろう? ああ、でも……そういえば」
ライオスがこのグレイヴ家に休みの度に訪れていた理由は、ただ遊びたいだけではなかったことを思い出した。
「曰く付きってほどでもないのだが……あの森は川もなく、橋になるものが一つもないのに吊り橋渡りの森と呼ばれていて、不思議な力がある場所なんだ」
「吊り橋渡り?」
「不思議な力……?」
エスメラルダとシシリーが前のめりになって、まるで怪談話を聞いているような顔をしている。あの森のことを知っているルルイエまで真剣な顔をし出したのが面白く、ライオスはつい興が乗ってしまった。
「ああ、歴代の王族とその婚約者があの森に入ると……その不思議な力により、みんなラブラブになって森から戻ってきたという話が……」
ライオスがそこまで口にした瞬間、エスメラルダを除いたみんなが『あっ……』と心の中で呟く。
そして、ライオスが自分の失態に気付いた時にはもう遅かった。エスメラルダの脳内に、やけに密着しているリチャードとキャロラインの姿が浮かんでいたのである。
「キャ、キャロライーーーーーーーーーーーーーーーンっ‼」
「エ、エスメラルダ王女~~~~~~~~~~~~~~っ!」
叫びながら裏庭を走り去っていくエスメラルダとシシリーの背中を見送っていると、マシューからとてつもない怒りの念が飛んでくる。
「殿下……?」
「ま、まあ……彼女達は運動神経もいいし、大丈夫だろう。監視も付いているだろうしね」
マシューから『そういう心配をしているんじゃない』という感情がひしひしと伝わってくる。
しかし、ライオスはエスメラルダの去り際に伝わって来た感情が悪いものではないことを知っている。
お見合いを潰しに来たと聞いていたが、思ったよりも善意に溢れていたのだ。
ルルイエが心配そうにライオスを見つめる。
「本当に大丈夫なのですか、殿下?」
「ああ、大丈夫だ。一応、リグレー伯爵令嬢には、私をけしかけた責任を取ってもらうかな?」
そうライオスがそう口にすると、傍にいた使用人の何人かが姿を消している。おそらく、カレンとヨルンの下へ向かったのだろう。
ライオスは立ち上がると、ルルイエに手を伸ばす。
「じゃあ、行こうか。ルルイエ」
「え……あの、どちらに?」
「吊り橋渡りの森だよ」
先ほどライオスがした説明を思い出したのだろう。
ルルイエは頬を赤く染めながら小さく頷くのだった。




