第29話 本心
乗馬を始めてしばらくしてリチャードは、ヨルンに声をかけた。
「叔父上達は?」
ゆったりベンチに座っていたライオスとルルイエの姿が見えないのでそう訊ねると、ヨルンはおどおどした様子で答える。
「王弟殿下は、さきほどローウェン公爵令嬢とお茶をしに裏庭へ」
「ああ、ならちょうどいい。これからフロイス公爵令嬢と森へ散歩に出掛けてくる」
また変にちょっかいをかけられると色々面倒臭いので、彼らがいない今が出かけ時だろう。
リチャードとキャロラインが馬から降りると、ヨルンが「お供します」とついてこようとし、リチャードは首を横に振った。
「ここの土地は安全だからついて来なくて大丈夫だ」
「え、でも……」
いつもはすぐに頷く彼が、なぜか妙に渋る。それに不思議に思っていると、カレンがやけにニコニコしながら近づいてきた。
「ヨルン」
「お、お姉様……」
「ダメよ。少しは気を利かせなくては。殿下、キャロライン様、いってらっしゃいませ」
なぜかウィンクを飛ばされ、リチャードは怪訝に思いながらもキャロラインに手を差し出す。
「では、行こうか」
「はい」
キャロラインが手を取り、二人は森の中へ歩を進めた。
木々の隙間からこぼれる陽の光が、森の中を明るく照らし、柔らかい風が流れている。
グレイヴ家の敷地は広いが、森の中もよく手入れされており、陰気な場所は一つもない。図書館や美術館などとは違う静けさが心地よく感じる。昔、ライオスが好んで訪れていたという気持ちがなんとなく分かる気がした。
しばらく歩いて、後ろにカレンやヨルンがついて来ていないことを確認すると、リチャードはキャロラインに声をかけた。
「フロイス公爵令嬢」
「はい、どうかしましたか?」
淑女然としている彼女の笑みを見たリチャードは、少し躊躇いながら口を開く。
「また、キャロルと呼んでもいいだろうか?」
一晩たった今、昨日見たの彼女の素顔が夢のような気がしてしまい、リチャードはおそるおそる訊ねた。
キャロラインは何度か目を瞬いてから歯を見せて笑う。
「いいわよ、リック」
その笑顔にホッとして、リチャードはキャロラインから手を離す。
「良かった……ありがとう」
「何よ、別に礼を言うほどじゃないでしょ?」
両手を上に伸ばして、うんと伸びをする彼女の背中に向かって言った。
「キャロルは今の自分を人に隠しているだろ? その顔を、オレに見せてくれるだけでも嬉しい。だから、十分に礼を言うのに値すると思う」
リチャードがそう言うと、振り返った彼女が怪訝そうに眉を顰めていた。
「……何それ? もしかして口説いてるの?」
「く……く、くどぉっ⁉」
そんなつもりじゃなかっただけに、動揺して声が裏返ってしまった。そんなリチャードが面白かったのか、彼女は小さく失笑する。
からかわれたのが分かって、頬が一気に熱くなっていき、ぐっと口を閉じた。
「ほんと、リックは可愛いわね」
「可愛いって……それ、女に使う言葉だろ」
「そう? 別に男の子に使ってもいいじゃない。すかした男よりずっと魅力があると思うわ」
そう言ってキャロラインはゆっくり歩き出し、リチャードは彼女の背中を追うようにして歩き出した。
彼女にからかわれた時、不思議と悪い気がしない。ライオスの時と違って自分を小馬鹿にしているように聞こえないからだろう。
「それで? 私を散歩に連れ出してどうしたの? 何か内緒の話?」
背を向けたままの彼女に訊ねられ、リチャードは頷くのを躊躇った。
これから話すことは、昨日話したこと以上に自分の内面に触れる内容だからだ。
しかし、彼女になら話せるような気がした。
「内緒ってほどでもないが……まあ、そうだな。実はオレ、先月まで好きな女の子がいまして……」
「え、何、恋バナ⁉」
急に振り返ったキャロラインがぐいっと詰め寄ってきて、リチャードは思わず身をのけぞらせた。
「なんで急に元気になるんだ?」
「別にいいでしょ、そんなこと!」
普段のイメージを守るためか、あまり話題にしないのだろう。目を輝かせる彼女を見れば、人並みに興味があったことがよく分かる。
「それで、一体誰だったの⁉ あ……でも、先月までってことは失恋?」
キャロラインが察して声のトーンを落とし、リチャードはため息交りに頷いた。
「そう。相手はルルイエ嬢の異母妹だ」
「ルルイエ様の異母妹って……え、ヴィオ様?」
相手が意外だったのか、キャロラインがどこかぽかんとした様子でリチャードを見上げる。
「あまり私はお話したことがないけど……ほら、すごいガード高かったじゃない? カレン様とヴィオ様のお友達で……あ、つまりそういう?」
「そう。他国の留学生を連れている時に、失恋相手と鉢合わせたら気まずいだろうって周囲が気遣ってキャロルから遠ざけていたんだ。相手は叔父上の婚約者の異母妹だから余計に。もちろん、叔父上やルルイエ嬢も配慮してくださっていた」
「…………ああ~、なるほど?」
彼女は一度、カレンの友人達とヴィオ達が揉めていた現場に遭遇しているので、納得がいったのだろう。
「でも、なんで失恋? 異母妹って言っても、身分は保障されてるし、ただの私生児じゃないんでしょ? 陛下がお認めにならなかったとか?」
「いや、父上に直接何かを言われたわけではないんだが……実は彼女には両想いの婚約者がいたんだ。オレはそうとも知らずにアプローチを……」
「わ~、お気の毒~…………」
感情のこもっていない慰めがリチャードの心に刺さった。
この出来事は公然の秘密となっているため、ライオス以外は誰もこの話題に触れてこない。むしろ、腫れ物に触るような目を向けられるため、キャロラインの相槌は感情がこもっていないくらいでちょうどよかった。
「で、今もヴィオ様を引きずってると?」
「いや、もうその日に諦めついてるんだ。ただ、後からになってよく考えれば、彼女はオレと話す時に困ったような顔で笑う子だったと気付いて…………あれはオレの対処に困っていたんだな、と」
「………………ああ」
キャロラインが言葉では表現できない複雑な顔で頷き返した。彼女はそれ以上何も言わなかったし、リチャードも意見を聞きたいわけではなかったので、さらに続けた。
「事実を知る少し前に叔父上から『もう少し人に気を配りなさい』と忠告されていて、その時は『偉そうなこと言いやがって』としか思っていなかったが、あとからになって的を射ていたなって気付いたんだ。それで、昨日キャロルの素顔を知って、オレは人の表面しか見ていなかったことを痛感した」
「私は公爵令嬢だし、猫かぶりの中でも特殊な方だと思うけど?」
「むしろ、だからだろう? 政界には腹に一物を抱えてる貴族はわんさかいるだろうしな」
「いや……まあ、そうね?」
どこか納得いかない所があるのか、彼女は曖昧に頷く。
「昨日の晩、オレはヨルンやほかの友人達のことを知ったつもりになっていただけで、お前みたいに人に見せない一面があるんだろうなって考えたんだ。父上や叔父上達の信頼関係も、その部下との関係も、それをクリアして今があるんだなと思った。これはオレが勝手に感謝しているだけなんだが、お前にそれを気付かせてもらった。ありがとう、キャロル。残り一週間しかないが、このまま仲良くしてくれると助かる」
「………………」
キャロラインの空色の瞳が大きく見開かれたかと思うと、彼女はため息をついた。
「…………っかじゃないの?」
「キャロル?」
彼女はかぶりを振ると、リチャードを睨みつけた。
「リック、あなたって…………本当に素直でいい子ちゃんよね」
「………………は?」
「何感謝してんの? 例え、あなたが勝手に思っているだけだとしても、私は感謝されるような女じゃないの……っ!」
キャロラインはその目に怒りを滲ませ、力強く拳を握ったのが分かった。
「私はサイテーな女なの! 社交なんてクソくらえって思いながら人前で笑ってたし、私の外面ばかり褒めてくる輩の背中に唾を吐きかけてやりたくなったことだってあるし……弟が出来た時なんか、全然嬉しくなかった‼ それどころか初めて抱っこした時、そのまま床に落としてやろうと思った! あなたに素顔を見せたのだって、私のことを何も知らないくせに勝手に羨ましがってムカついたからだし、今だってあなたの話を野次馬同然に面白がって聞いてたの! 私は、そういうサイテーな女なの! そんなサイテーな女の素顔を勝手に美談にしないでちょうだい!」
叫びと共にキャロラインの感情がリチャードに痛いほどぶつけられる。
二人の間にキャロラインが肩で息をする音だけが響き、彼女の空色の瞳にはじんわりと涙が浮かんでいた。
「分かった、リック? 私は……私はっ!」
「キャロル」
リチャードが名前を呼ぶと、涙をにじませた目に怯えが交じった。
その怯えがなんなのか、リチャードには分からなかったが、ただ思った言葉を口にした。
「オレはそんなサイテーな女の言葉に、今心を救われている」
「…………………………は?」
未だかつて見たことない彼女の間抜けな表情に、リチャードは笑った。
「オレはそういう風に感情をぶつけられたことがない。オレが王族で、王太子だからだ。逆に感情を直接曝け出したことがある相手は、叔父上だけだ」
ライオスが心を閉ざし、人の言葉を理解できなくなった時、リチャードは人前で「本当は言葉が分かってるくせに、そうやって父上の気を引いて! 卑しい魔女の血を引く化け物め!」と罵ったことがある。あの時のライオスは本当に言葉が理解できなかったらしいが、理解できるようになってからは彼の態度は変わった。
「オレに執拗に絡んでくるのも叔父上だけだ」
真っ先に小言を言うのも、リチャードをからかってくるのもライオスだけである。失恋後もバカみたいに絡んでくるようになったのは参ったし、その後も彼のことを知ろうとも思ってなかった。
「叔父上はずっとオレを小馬鹿にしたくて絡んでいたと思っていたんだが、そうやって感情をぶつけられたからこそ、見えてくるものがあるんだな」
拳を握りしめるキャロルの手を取り、リチャードは言った。
「お前が自分を押し殺しながら家や周囲の為にどれだけ頑張ってきたかも、弟ができて突き放されたことが苦しかったことも、人並みに他人の恋に興味があることも、そんな自分の一面をサイテーな女って思いながらも、ちゃんとオレと向き合ってくれていたことも……分かるんだな」
「………………」
「サイテーな女の言葉がなかったら、人のことも知ろうともしない傲慢な王になるところだった。ありがとう、キャロル。オレは公爵令嬢として振舞うお前の努力も、自分でサイテーな女と罵るお前の素顔にも、全てに感謝したい」
そう告げると、彼女の空色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「………………本当に、バカじゃないの? こんなサイテーな女に感謝するなんて」
「自分が本当にサイテーな女と思ってるんだったら、泣かずに『私に騙されるなんて馬鹿な男』って笑ってろ。それが本当のサイテーな女だ」
彼女の頬を伝う涙を拭っていると、彼女は鼻をすすりながら言った。
「どこで仕入れてきたのよ、そのサイテーな女像は……」
「オレが最近読んだ本に出てきた」
「あなた、ロクな本を読んでないわね」
「市井で一番人気って聞いたんだがな? まあ、いいだろ」
そう言って笑うと、彼女もへらりと笑い返した。




