テキトウの国
マイルスの抜け殻。
これはうちの国に伝わることわざだ。マイルスというのはジャズトランペットで有名なマイルス・デイヴィスのことで、昔うちの国ではそのマイルスが蘇ったことがあったらしい。その時はもちろん国を挙げて彼に最高級トランペットを提供したのだけれど、一度死んでしまった彼はもう才能を持っておらず、作曲どころか死体のボロボロの指では音程を変えることすらも難しかった。自分の状態にミスタークールはため息を一つ吐いて、「こっちは一回気が抜けてんだ」、そう言い捨てる。すると彼は間もなく息を引き取った。こうして今うちの国にはマイルス・デイヴィスの墓が二つ存在するのだった。
マイルスの抜け殻ということわざはそれ以来言われるようになった言葉であり、どんな天才であっても少しの気の油断によってその多くを失ってしまう。だから毎日励みなさい。そういう教訓が含まれている。例文:お前そんなんじゃ明日にはマイルスの抜け殻だな。マイルスの抜け殻にならないためにも毎日のジョギングは欠かさない。など。
うちの国ではこんな言葉が、こんなエピソードが当たり前みたいな顔してまかり通っているんだ。どうかしている。マイルスの墓は本当に二つあるけれど、多分勝手につくっただけのもので偽物だ。うちはそもそもアメリカじゃない。でも弱小国だから、これまでアメリカから文句をつけられたことはなかった。テキトウの国だった。
朝に開かれる露店市では天ぷらを車イスとして販売している。つまりみんな天ぷらに乗っかって朝から車イスで遊びまくるのだった。そもそも車イスで遊ぶこと自体おかしいのだけれど、よく言えば誰も童心を忘れていない。では車イスの形をしたものが天ぷらと呼ばれているのかといえば違っていて、天ぷらとは果物のことを指す言葉だ。甘くて瑞々しい木の実のことを総じて天ぷらと呼んでいる。果物とは文章を印刷した紙を束ねたもので、本は最近流行りのカリブ音楽のことを指す。しかもややこしいのは、国民はみんなそのねじれた関係性を理解していることだ。今僕が説明できているのはまったく特別なことではなく、誰かにこのことを尋ねれば喜んで教えてくれるだろう。だからといって正しい情報をくれるとは限らない。テキトウの国ではみんなしてテキトウなんだ。
すると冒頭の話はどうなるんだろう。感のいい人なら気づいていると思うし、なんなら僕が冒頭の話に注意を向けた時点でイジワルな気配を感じた人だっていると思う。マイルスはほんとうにマイルスを指すのか。トランペット、墓、指もアメリカもすべての言葉が疑わしい。
コルトレンが蘇ってサックスを渡したのかもしれない。始皇帝が蘇って国の全権を渡してみたのかもしれない。必ずしも人とは限らないから、蘇ったのは誰かのお気に入りのペットで、どんぐりとか天ぷらを揚げてみたのかもしれない。だいたい蘇ったってのは蘇ったってことで合っているのかな。渡すと言っていても、それは法を行使すると言っているかもしれないし、渡るくらいのごく僅かな差しかないかもしれない。話を続けるために無視してきたけど、てにをはだって怪しいものだ。このまま怪しい怪しいで事が運び続ける国。テキトウの国。
「ああああ! あああああああああ!」
誰かが真昼間から発狂している。レンチンで辞書の水はねを公然に防いだんだ。
散々疑ってきたけれど、こうとも考えられる。疑わしいと思うのは、僕、私、オレ、あなた、誰かが物事に疑ってかかったときだけなんだ。そう思わないか。疑うなんてアホらしい。そう思うだろう。もしそう思うなら一度はテキトウの国に来てみなよ。嫌なことがあったらテキトウの国に来てみなよ。テキトウの国に来ればきっとあなたもテキトウになれる。