エピソード1
今日もある私鉄の始発電車に乗車した稲山は遠慮しながら、また好奇心を殺しながら乗車した人々を観察している。稲山は車両の最後尾のシートに身を沈め、社内全体が見渡せるいつもの定位置を確保した。2時間後だとほとんど通勤、通学の乗客で8割程度の乗車率になるが、スマートフォンを見つめる人々の静かな空間が続く。彼は、この時間帯が嫌いだ。時々、大声を出したくなる。ある人の秘密を話したくなる衝動を抑えるのに一苦労する。
だが始発だと、様々な雑音が彼の耳に入ってくる。これから旅行にいくであろう薄手の服を着た親子の明るい話し声がマスクから漏れ出し嫌でも耳に入る。彼は、すでに家族と呼べる人間関係はコロナ禍以前に崩壊していた。今では懐かしいというより、本当に家族がいたのかも明確に誰かに話すことができない。
彼の斜め前には朝まで時間をつぶしていたであろうストッキングが伝線し化粧が崩れた女性がだらしない格好で座っている。その女性から少し離れた所には、見た目に50代後半だと思われる男。加齢臭が身体全体から染み出したくたびれた感じ。彼から対角線上のドア付近に座っている化粧をしても代り映えがしない女性、各々が周囲を気にすることなくどこかに向かっている。