9.裏切りと罠の輪舞
「資料、ありがとうございます。これを元に、農業プラントを見直してみます」
そう言って、宇松が資料を受け取った数日後──。
いつものように喫茶店で待つ、と連絡をもらい、京極天亜蘭は職場を出た。
今日も実りのある話になるだろうと、足取りも軽やかであった。
「お待たせしました」
京極が喫茶店に入ると、奥の席で、こっちこっちと宇松遼治が手をあげている。いつもながらセンスのいい服を着こなして、それを見るだけでもテンションがあがる。
宇松とはビジネスパートナーとして、仕事上のつきあいとして交流が始まったが、いつしかそれだけではない交際に及んでしまっている。決して最初からそんなつもりではなかったのだが、そういう流れになってしまったのは、京極自身、意外であった。男女の間柄というのは、想像していた以上のものがあった。ときめく、というのはこういうことなのかと、戸惑いと高揚を感じ、それに身を任せる心地よさはなにものにも代えがたくなってきていた。
京極がテーブル席に落ち着くと、ウェイトレスがお冷と使い捨てのウエットティッシュを置く。
「ホットをひとつ」
ウェイトレスが去ると、宇松は言った。
「さっそくだけど、いまの状況を説明します。こないだいただいた資料をもとに、御社の業務を担う農業プラントの拡充を計るため、その規模と費用を計算しました。その計画書をもって、銀行からそれを借りるための交渉をしましたところ、なんとか必要な額を借りられそうです。審査はたぶん通るでしょう」
「そうですか、それはよかったです」
「これで工事はできます。ところがですよ……」
宇松はやや表情を曇らせた。
「以前、僕が携わったべつの事業でプラントを建ててくれた工務店が倒産してしまっていて、工事をするには新たな業者にお願いすることになったんですが、プラントは初めてで、調査と手付費用、つまり材料の発注費用が先に発生して、それが五千万円かかるそうです。この費用が捻出できません」
「五千万円……」
「その費用を早く調達しないと、業者もべつの仕事を優先すると言ってきています。銀行からの融資を当てるには、間に合わないです。計画をここでいったん止めてしまうのは、他の関係会社への影響も考えると、僕としてはなんとしても避けたい──」
「わかりました。その費用、こちらでなんとかしましょう」
「本当ですか!」
「はい、わたしとしてもこの事業にかけています。なんとしてでも成功させたい」
「でも、すぐにできますか? 五千万円ですよ」
「わたしの裁量でどこまでできるかわかりませんが、上司を説得してでも予算をとってきます」
「ありがたい。では、できるだけ早くお願いします。銀行からの融資が入れば、すぐに返却しますから」
「わかりました、五千万円、早急に用意します。任せてください」
「どうかお願いします」
宇松はテーブルに額をつけた。
そのあと、宇松は、プラントの詳細や作る製品の加工場の選定など、より詳細な資料を見せて進捗を語った。それを聞いた京極は輝かしい未来を描く宇松とともに成功する夢を疑わなかった。
会社に戻った京極だが、予備予算の範囲ではとても五千万円は調達できないとわかった。会計資料に目を通しても、京極の裁量で予備費から動かせるのは、どうがんばっても一千万円が限度だった。
上司である部長に訊いてみた。いくつもの事業を統括する立場にある、五十代の部長は、禿頭を動かすことなく、じっくりと話を聞いてくれた。
が、
「すぐにって、どれぐらい待てるんだね。たしかに新事業に対する予算は確保するつもりでいるが、現段階では具体的なプランとしてまだ承認されていないから、どう早く進めても来期だぞ。もう二月だ。来期予算の配分はもう決定されていて、いまさら追加は厳しい。それにな……農業は、数年のスパンで見なけりゃ成果はでないだろ。農作物の生産は他の工業製品とは違う。うまくいかないこともあるし、まずは実験用のプラントからどんな作物が商品として適しているかを検証していくって話だと理解していたが……」
性急に事業を進めようとする京極に、シミの浮いた顔をしかめて部長は難色を示した。
そこは京極も日常の業務もあって、じゅうぶんな報告ができていなかったことを認識していた。しかし部長ならこの情熱をわかってくれるだろうと思っていたのだが。
「わかりました……」
京極は、ここは引き下がった。
(どうしよう……)
引き下がったものの、デスクに戻って宇松からもらった資料を見つめ、頭を抱えた。なにか手はないだろうか……。
他部門にも話をもっていき予算の融通を求めたが、期末も近くどこの部門もとりあってはくれなかった。社外の人脈を活用することも考えたが、間に合うような気がしなかった。
時間がない。急がないといけない。
その日、マンションに帰り、自室にこもって考えた。
夫であり部下である永盛には相談しなかった。永盛になにかができるとは思わなかった。永盛には社内に人脈も権限もない。社外になにかがあるようにも見えない。相談するだけ時間のムダだ。
とはいえ、いまのところいい案は思い浮かばない。中堅の商社に勤めているとはいえ、まだまだ自分の地位の低さを残念に感じる京極だった。これが予算を左右できる立場にあれば、五千万円ぐらいなんとかなったろう。
京極は一層、この事業をなんとしてでも成功させ、事業部長、ひいては重役にまで出世し、強力な権限を持たなければならない、と強く願うのだった。
「課長、よろしいでしょうか」
ドアの向こうから声がした。永盛の鼻がつまったような声は、宇松の低い男らしい声との差が激しい。
「なによ、こんな時間に」
「明日の有給休暇についての確認です」
「わかっているわ」
「すみません、お願いします」
労働基準法で労働者は年五日以上の有給休暇の取得が義務づけられている。しかし大半の社員がそれを取り損なっているのが現状だ。多忙な社員もそうだが、そうでない社員もなんとなく有給休暇をとらずにいたりする。管理職の課長の立場としては、部下にきちんと決まりを守ってもらわなくてはならない。
結果、期末の二月と三月にあわてて休暇を取得するよう求めた。
永盛の休暇は明日だ。休みを取っても、とくにその日になにかをしなければならないわけではないし、なにかをする予定もなく、時間を浪費するしかないのだが。
「明日、もし期末の売り上げの伝票が回ってきましたら、明後日に処理しますので」
「わかったわ」
期末のこの時期、あちこちの小売り事業所から売り上げ伝票が上がってくる。
「ではおやすみなさい」
ドアの向こうの気配が去った。
(待てよ……)
京極は思いついた。通常業務はそろそろ期末でお金が入ってくる。その金を回せないだろうか──。
もちろん、会社のお金だ。しかるべき口座に入っていなければ、決算のときに計算が合わなくなる。しかし集計にはタイムラグがある。
その間に、口座に戻しておけば問題ないのでは。
「…………」
宇松に話してみよう。いつまでに銀行の融資が得られるのか? 決算に間に合うようなら、その手が使える!
タイムリミットは三月だ。
翌日、すぐに宇松に電話した。
「三月まで、ですか……。おそらくだいじょうぶですよ」
宇松はそう返事をしてくれた。
「鴻円商事さんがバックにいてくれますからね。銀行の信用度がぜんぜん違いますから、今回の融資は問題ないと思いますよ」
そういうことは確かにあるのだ。企業が事業拡大のための資金を銀行から借りるにあたって、名も知らぬ零細企業よりは大手の上場企業のほうが審査が通りやすい。個人が退職後になんらかの起業をするにしても、有名大企業に勤めていた場合のほうが借りやすいのだ。そこには貸す方のリスクが関わる。焦げ付くことなくお金を回収できるかどうか──。保証人を立てても、その保証人に金がなければ回収できなくなる。そんな人脈があるかどうかも計算される。まことにシビアであった。
宇松の心強い返答をもらった京極は、今度は五千万円の調達にとりかかる。
期末を前に、会社が関係する小売業者から売上金が上がってくる。商事会社はその金を使って次の買いつけをしたり、新商品の開発をしたりする。
パソコンを立ち上げる。予定管理ソフトを起動、連絡欄を表示させた。
来ている。経理処理すべき伝票だ。
受領書の作成は、普段は永盛が行っている業務だ。振込先の口座をここで指定するが、普段の振込先の総合管理口座から、京極の管理する「新事業のための予算口座」に書き換えればいいのだ。
京極は受領書を慎重に作成する。
口座番号の変更の旨を伝える文書を作成し、送信。
それをいくつもの小売業者にわたって繰り返した。
今日一日で来た伝票の合計金額だけでもかなりの額になるだろう。その予想どおり、伝票は次々と入ってきた。
五千万円を超えたところで、京極は裏工作をやめた。これでじゅうぶんだ。あとはその金が振り込まれてくるのを確認すればいい。
京極は安心した。宇松も喜んでくれるだろう。本来ならこんなイレギュラーな操作が許されるわけはないのだが、そのときの京極はどんな手を使ってでも新事業を推進したいと自分が見えなくなっていた。
そしてそれは、大きすぎるしっぺ返しとなって京極を苦しめることになるのだった。
宇松の指定した会社名義の口座に五千万円を振り込み、その旨を連絡した。
宇松は、
「これで工事業者に発注をかけられます! ありがとうございます」
と電話口で礼を述べた。
「銀行の融資が来たら、すぐに返しますから、しばらく待っててください。この事業、ぜったい成功させましょう!」
しかしその直後から、宇松との連絡がつかなくなってしまった。
電話も出なければ、LINEメッセージもIDが消滅していて、送れなくなっていた。
名刺を見てもスマホの電話番号しか書かれていないし、そもそも自宅の住所さえ知らなかったことに京極は気づいた。それはお互い様なのだが、そういえば、京極も、宇松の会社に行ったことはなかった。嫌な予感にさいなまれながら、名刺に刷られたその場所へ行ってみると、案の定というか、やはりそこにはそんな会社などなく、というより、そんな「住所」すら存在していなかった。
京極は蒼白になった。
宇松からもらった事業計画書にはカラー印刷された農業プラントや加工工場の写真が載っていたが、それらを自分の目で確認に行ったこともなかった。存在しているかどうかすらわからない。いや、写真があるのだから存在はしているだろう。しかしそれが宇松のいう「付き合いのある会社」なのかどうか、わかったものではないのだ。
そういえば、宇松は一度も鴻円商事の事務所内に足を踏み入れたことがなかった。社内の人間で、宇松の顔を知った者は誰もいない。それは宇松が顔を知られないようにしていたのではないかと、いまなら考えられた。
血の気が失せた。
宇松遼治の笑顔が思い出される。その名前もおそらく偽名だろう。
(やられた!)
これまでさんざん語ってきた夢はすべて京極をだますためのニセモノだったのだ。
いいえ、いいえ、そんなことがあるものか、と心のどこかで思いたかったが、現実は無慈悲であった。このまま決算を迎えれば、売上金が消えていることが発覚してしまう。単純に新事業計画のための予算から失われてしまったのなら、警察へ被害届を出すことで済む。それとて京極の落ち度は免れないが、今回は不正に他所の部門の金を流用してしまっている。これが知れ渡れば、会社での京極の立場は最悪だ。懲戒解雇もあり得た。
これをいかに回避するべきか……。
事務所で動揺を覚られないよう振舞おうとしても、これまで会社で築き上げてきたキャリアが、輝かしい今後の展望が、音を立てて崩れていく恐怖によって、ときどき心ここにあらずの挙動不審に陥ることもあった。
(なんとかしなければ、なんとかしなければ……!)
「あの……課長、どうかしましたか?」
「ひいっ」
思わず声を上げてしまった。
デスクにやってきていたのは永盛だった。
「な、なに……?」
「いえ、新事業に関する資料で、小売り業者のほうへの説明会日時を決めないといけませんが……どうしましょう?」
「ああ、それね……」
もはや宇松に任せるつもりの上流の工程がすべて白紙になったいま、構想の説明より先はなにも言えなくなっていた。
「それ、ちょっと、延期しましょう」
「延期……ですか?」
「小売り業者さんに連絡しておいてちょうだい」
「はい……わかりました。そのように伝えます」
背中を向けてデスクに戻る永盛。
京極は大きく吐息をつき、額の汗をぬぐった。
京極課長の様子がどこかおかしい。
マンションに帰ってきてもシャワーさえあびないこともあった。自室に直行し、リビングに顔を出さない日が続いていた。
永盛と会話をしないのはいつものことなのだが、最低限のコミュニケーションですら、どこか齟齬を感じるのだ。
新事業のプロジェクトリーダーとしてがむしゃらに働いている姿は見ている。その疲れからだろうか、と思ったりする。あまりのプレッシャーで精神的に不安定になっているのかもしれない。
が、知ったことではなかった。
アリサとの交流を禁止された永盛は、まだそれを引きずっていた。課長に対するわだかまりは、永盛のなかで消化できていない。会社では職務上の指示には従うが、プライベートではより一層、永盛のほうからはなるべく必要以外のことについて話しかけないようにしていた。
三月も半ばになっていた。期末が迫り、今期までにやっておく仕事が多くなって、残業も増えてきた。
四月を前に人事異動が通知されるのもこの時期だ。
そんなとき、永盛も上司に呼ばれた。時期が時期だけに、不審には思わなかったが、なぜか社長室に行くように言われ、今年はどういう趣旨なのだろうかと小首を傾げながらそこへ向かった。
入社以来、一度も入ったことのない社長室。それほど大きな部屋ではないが、盾や表彰状が飾られたキャビネットが左側の壁に、大きなデスクが奥に置かれ、訪問客用のソファセットが低いガラステーブルを囲むように配されていた。
そこには社長以下、専務、部長と、会社の主だった幹部が顔をそろえていた。
(仰々しいな……)
深々と礼をし、永盛は思った。
「蟹山くん、いや、京極部長と結婚しているから、京極くんになるのかな。まぁ、それはどちらでもいい」
口を開いたのは社長だった。
六十代で、元はロサンゼルス事業所の所長だった。海外での手腕を買われ、五年ほど前に社長に就任した。その後、会社は業務を拡大し、利益を上げ続けていた。いくつもの新事業を手掛け、今回の農業事業への挑戦も社長のアイデアのひとつだと聞いた。
「きみがここへ呼ばれた理由は、うすうす見当がついていると思う」
「はあ……」
人事異動だろうか。それ以外思いつかない。
「たいへんなことをしてくれたね」
「? ええっと……」
なんのことかわからない。
「証拠は上がっている。警察には詐欺の被害届は出したが、今回のことはそれだけではすまない」
「詐欺?」
「本来なら、業務上横領ということで告訴するべきところだが、会社としては単に被害者になったと世間に言いたいので、ここは依願退職として処理したい」
「あの……なんのことでしょう?」
「しらばっくれるな」
横から言ったのは強面の部長だった。
「おまえが書類を変造して、売上金をかき集めたのだろうが。わかってるんだぞ」
永盛は口をぱくぱくさせた。
「とにかく依願退職ならわずかだが退職金も出せる。これ以上、状況を悪くしたくないなら、そうそうに辞表を書け。でないと懲戒解雇にするぞ」
「待ってください。ぜんぜん心当たりがないんですが」
「社内調査ではもう結論が出ている。期末の忙しいこの時期、ややこしい問題で手をわずらわせた責任は重いぞ」
(だめだ、平社員の言うことなんか、聞く耳を持たない……)
一方的な発言に、永盛は絶望した。このままなんのことやらわからないままで寄り切られてしまう。
会社を辞めさせられる?
確かに永盛は仕事に対してそれほど前向きに努力してきたかといえば、成績も芳しくなく、評価は低かった。しかしだからといって一方的に退職させられるなんて。
これが世に言うリストラというものなのか。適当な理由をつけて辞めさせられてしまう。
「下がってよい。今週中に書いて部長の私に提出すること。わかったか?」
「すまんが、そういうことで頼んだよ」
最後に社長が言った。穏やかな口調で死刑宣告をした。
それはまるで夢のなかの出来事のように、現実感がなかった。