8.魅惑の夜は更けて
自らのキャリア形成に突き進む京極天亜蘭。その働きぶりは猛烈で、京極自身、仕事に手応えを感じていた。
そこまで働けるのは、宇松遼治の存在が大きかった。
二人きりでバーで飲みかわすこともたびたびだった。
「京極さんは素敵な女性ですよ。いまは課長という役職ですが、いずれは社長になれると思いますよ」
「そうおだてないでください」
言いながらも、まんざらでもない京極は笑みをこぼす。
「いやいや、本当にそう思うんですよ」
宇松は饒舌だ。
「僕はいろんな経営者と会ってきてますが、みんな運を持ってるんですよ。起業家としていくら才覚があっても、運のない人はだめなんです。なにをやっても、うまくいかないんです。ちょうど体力も技術もあるのに、試合前になぜか怪我をしてしまうスポーツ選手のように。プロ野球選手を目指してプロテストにのぞもうとしていたのに、直前で病気になってしまってテストを受けられなかった人とか……そういう人は、たとえプロになっても活躍できません。チャンスがあってもモノにできないんです。それは努力とは違った、その人が持つ星の巡りみたいなものなんです。そこへいくと、京極さんは運を持っていると思うんですよ。このバーで、あのとき出会わなかったら、事業は迷走していたかもしれません」
「お上手ですね……」
今夜はショートカクテルをセレクト。マティーニなんか、気取っている感じで一人では飲んだことがなかったが、宇松に勧められて初めて味わってみた。
(甘くて、それでいて強い……。なんだか……宇松さんみたいなお酒……)
宇松の言葉のひとつひとつが甘くて、でも単なる社交辞令ではなく、京極の考えに賛同してくれていた。新事業を成功させようという前向きのベクトルが同じだった。
そして、彼自身の豊かな交友関係や趣味嗜好が、普段付き合いのある社内外の男たちからは感じられない魅力となっていた。
今回の事業が軌道に乗り、ひとつの部門として会社を支えるようになったあとでも、宇松となら、また次々と新たな事業を起こして拡大していけるような気がするのだった。
ビジネスパートナーとして、これほどの男性は他にない。これからもずっといっしょに仕事をしていきたいと感じさせた。
(ビジネスだけではなく、プライベートでも……)
そう思った京極だったが、そうなると蟹山永盛が邪魔だった。
もともと両親の薦める相手と結婚して新潟の家に入ってしまうことが嫌で、そのために偽装結婚した。
その目論見は見事にはまり、以来、両親はもうなにも言わなくなった。これでなんの憂いもなしに仕事に専念できる──。
結婚相手に選んだ永盛は四つも年下のうだつの上がらない平社員だし、人畜無害のどうでもいい男で、家政婦の代わりにマンションの掃除もしてくれる。部下ということもあって扱い易い。もちろん恋愛感情は欠片もないが、そもそも結婚に夢など見ていない京極だった。
結婚しても、上手くいかないとグチが絶えない旧友もいたし、いまの日本で女が結婚するメリットは、ほぼない、と言っていい。強いてあげれば子供だろうが、出世欲の強い京極にとって、子育てしながらではキャリアが積み上げられないのは我慢ならない。仕事を犠牲にするほど子供好きでもない。
威張りちらされる男と結婚するぐらいなら、独身でい続けるほうがよほどいいし。
そういうつもりで偽装結婚に踏み切ったのだが……あるいは、早まったかもしれない。
もしも──と京極は思うのだ。
もしも、ビジネスパートナーとしてだけでなく、宇松と結婚できるなら……。
それは甘美なささやきとなって、京極の脳に染み込んでいった。永盛を離婚して、宇松と再婚する──。
結婚にはなんの希望も抱いていなかった京極だった。男性に対して仕事上のつきあい以外には、なんの関心も持たなかった。が、もしかしたら理想の相手と出会ったら生活が潤うのかもしれない。
「酔ってしまったかな……」
宇松といると、時間がたつのを忘れてしまう。カクテルを何杯おかわりしただろうか。ギムレット、ジャック・ローズ、ソルティドッグ……。
「もう時間も遅くなりましたね。だいじょうぶですか、帰れますか?」
宇松の大きな手が優しく肩に触れる。それだけで夢見心地になってしまう。
「家まで送りましょうか」
京極はかぶりを振る。
「家に帰っても──」
誰もいないに等しい。明日は土曜日。翌朝の仕事に支障がでないなら、早く帰る必要もない。
「タクシーで帰りましょう」
「待って……」
酔った姿を永盛に見られたくはなかった。
「このままじゃ帰れない。酔いを醒まさないと……」
「しかたないですね。それじゃ、いっしょに出ましょう」
宇松が勘定をすませているのをぼんやりと見ながら、京極はふらつく足取りでスツールを降りた。
コートを羽織った宇松の大きな背中が振り返ると、京極はそこへ倒れこんでしまう。
その日、京極課長は家に帰ってこなかった。
帰ってきた気配もなく、午前一時をすぎて永盛は眠ってしまい、翌朝起きても課長の自室から物音も聞こえず、昨日は泊まりの出張じゃなかったのが急に予定が変わったのかな、とのんきに思っていた。
午前中、おもむろにリビングの掃除を始めていると、課長が帰ってきた。
「あ、おつかれさま」
おかえりなさい、ではなく会社と同じ挨拶。永盛は会社と同じ態度で課長と接しようと徹底する。ドライに。
課長は、永盛の冴えない顔を見たとたん不機嫌な表情になり、無言で冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、自室に引き上げていった。
(出張……じゃ、なかったのかな?)
永盛は小首を傾げたが、直接訊くこともせず、トイレの掃除まで一通りを終えると、昼食の弁当でも買いに行こうと思った。
ドアごしに、
「課長、お弁当を買いに行きますが、課長の分も買ってきましょうか?」
いらないと言われそうだったが、一応、訊いてみる。
「いらないわ」
ドアの向こうから予想どおりの課長の返事を聞くが、とくに気分を害することなく永盛は出かける。食べる習慣になっているから食べているだけの昼食は今日もコンビニ弁当だ。
まだ寒い外気に身を震わせながら、近くのコンビニまで歩いた。
乗り換え駅の駅ピアノは最近弾いていなかった。残業が終わった時間にはもう柵がしてあって演奏できなくなっていたし、今日のような休日に電車に乗ってまで行ってみても、アリサに会えなければ、なんだか張り合いがない。
いつも利用するコンビニで、さほど考えることもなく、なんとなく手に取った幕の内弁当を買った。
そういえば、アリサはコンビニで働いていると言っていた。どこのコンビニかは聞いていない。探そうにも、コンビニの件数を思うとやる気にならない。働いている時間帯にもよる。
永盛がマンションに帰って、リビングテーブルでコンビニ弁当をなんの感動もなく食べていると、課長が自室から出てきた。
スーツから着替えていたが、普段着といえどもこざっぱりとして隙がないファッションだった。きちんとメイクもしていた。
「昨夜はどこへ行ってきたんですか? 出張だったとは聞いていませんでしたが」
声をかけられるとは思っていなかった様子で、課長は、数瞬黙り、言った。
「わたしがどこでなにをしようと、蟹山くんに関係あるの?」
「関係ありませんが……」
「いちいちどこでなにをしていたか報告するなんて、いまどきそんな束縛の厳しい夫なんて、時代遅れも甚だしいわ」
「いえ、そういうつもりでは……」
永盛にしてみれば、べつに課長のプライベートにさしたる興味はなく、会社での会話のようにしたつもりだったのだが。
しかし失敗してしまった。課長の機嫌が悪いときには話しかけてはいけないようだ。とくに個人的なことについては──今回は出張ではなかったようだが、そうなると余計に触れてはならない。
課長は空になったミネラルウォーターのペットボトルをぐしゃりと握りつぶし、分別ゴミ箱に放り込んだ。
「じゃあ、どういうつもり?」
課長はいつもよりもとげとげしい。
「すみません……」
課長は大股で自室に戻り、コートを着て出てきた。
「昼食に出るわ。駅前のスターバックス」
まるであてつけのように行き先を言い、いつものごとく一人で出ていく。その態度に普段と違うところはない。会社での立ち振る舞いとなんら変わらない。
いや、なんらかの変化があってもよさそうなのに、と永盛は思った。同居しているのだから。
結婚してからもう二ヶ月だ。互いに無干渉でいるから続いているのか、それとも互いに無干渉でいてよく続いているとみるべきなのか、それはわからない。
家庭内別居。それでも夫婦として暮らしている例はよくある。永盛と京極課長の場合は、初めからそうだった、というだけだと考えれば、この暮らしが続けられないことではないのかもしれなかった。
課長にとって、結婚とは単なる制度上のものであって、それ以上ではないのだ。男性との個人的なつきあいというのは、課長には不要なのだ。端的にいえば、異性に興味がない。そうでなければ、よりにもよって永盛と結婚しようなどとは考えないはずだ。
しかし週明けの月曜日、永盛は聞いてしまう。
会社のトイレを出てデスクに戻るところだった。男子トイレと女子トイレは隣あって設置されている。永盛が女子トイレの前をとおりすぎようとしたとき、話し声が耳に届いたのだ。
──京極課長が男の人と仲よさそうに歩いていたそうよ。
──ホントに?
──ホテルから二人で出てくるところを見た人がいるんだって。
──うそぉ、あの課長が?
──長身のイケメンだって。
──やっぱり課長も女だったんだ……。
永盛はデスクに戻ると、離れた場所のデスクについている京極課長を一瞥する。今朝も早くに家を出ていった。永盛と連れ立って出社することなく。
(あの課長が、まさか……。僕がアリサと会っているところを烈火の如く糾弾しておいて、自分は男と……)
そんな課長ではないはず。
だが朝帰りしたことは事実だ。そうなると、これまでの出張でも翌日に帰宅したことは何度もあり、その際に、永盛が知らないだけで、男と会っていた可能性もあったわけだ。
疑いだすときりがなかった。
とはいえ、それを直接課長に問いただす勇気がなかった。もしも清廉潔白であったなら、そんな疑いをかけたこと自体を非難するだろう。
いつも家では永盛に対して不機嫌な課長が、もっと不機嫌になるのは目に見えていた。確実な証拠がないかぎり言い出せない。
かといって、トイレで噂をしていた女子社員が誰だかわからないから尋ねようがない。もっとも、声の主が誰かわかったとしても、やはり永盛には直接聞きだせないだろう。社内で気軽に口を利ける人がいないのだから。突然そんな生々しい話はできないし、そんなことを知りたがる永盛に向けられる目が怖かった。
(気にしないでおこう)
そう思った。
永盛は、いろんなことを忘れていくことで心の平静を保ってきた。それは「見ざる言わざる聞かざる」の精神だった。