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7.新婚夫婦のカタチ

 宇松遼治が提示した事業計画の資料を読んで、京極天亜蘭は目を輝かせた。

 これこそ望んでいたプランだ。新事業が具体的な形として見えてきた。

 天候に左右されない農業プラントを建て、収穫された農作物をすべて加工品に回して製品化するという事業。懸念であった長期保存できる仕組みにより製品の生産量調整も可能だ。この事業に必要な協力企業は、宇松のおかげで全部そろったことになった。京極の考えていたパズルのピースがすべて埋まったのである。

 会社近くの喫茶店で会い、事業構想についての話を聞いた京極は、事業が軌道に乗ることを確信した。

「素晴らしいです。宇松さんにはこんなにも協力していただけるなんて」

「僕の会社のためでもあるんですよ。鴻円商事さんとお取引ができるなんて、僕としても願ったりかなったりです」

「そう言っていただけると、わたしもうれしいです。さっそく事業に関連する予算案をたててきます」

「よろしくお願いします。こちらも準備をしますので」

「おまかせください」

 京極は上機嫌で会社に戻った。まだまだプロジェクトは始まったばかりであったが、もう成功したような気分だった。

 宇松の用意してきた資料は大雑把で細部も詰められていなかったが、現段階ではこんなものだろう。これから予算をつけて具体化していけば、事業規模や収益見込みも固まってくる。具体的な数字が示されていれば、会社としても手厚いサポートをしてくれるようになるだろう。

 まったくゼロの状態から事業を立ち上げ、事業部長に就任する──その椅子に収まる夢は、麻薬のように京極の脳に染みた。今の課長からの大出世だ。大勢の部下を従え、事業を思うがままに展開できる。

 やがて会社の柱に育てあげれば、重役にも抜擢されるやもしれない。この事業の成否は、京極の将来を左右する重要な事柄だ。その成功の確率はいよいよ上がってきたといえた。



「蟹山くん、加工会社の調査とプレゼンの資料作成、お願いできるかしら」

 永盛は京極課長から呼ばれ、新たな事業に関する仕事を言い渡された。

「わかりました」

 永盛がメモを受け取ると、

「いつになく陰気な顔をしているねぇ。もっとシャキッとしなさい」

 課長は、切れ味のいいナイフのような目つきで言ってくる。

 誰のせいだと思っているんだ──永盛はそう言いたかったが言い返せず、唇を引き結んでデスクへと戻っていった。

 課長はそんな永盛の態度にいちいちかまわなかった。永盛は、プライベートでは夫という立場ではあったが、会社では何人かいる部下の一人にすぎなかった。命じたことをやってくれる兵隊か機械を動かす歯車のようにしか見ていなかった。

 新事業が成功すれば事業部にかかわる全員の待遇もよくなる。その成否は、先頭に立って指揮するわたしの肩にかかっているのだ、だから積極的に動いてしかるべきだし、感謝して働くべきだと思うのだった。

 しかし永盛にはそんな課長の思いなど伝わっていない。正論を振りかざしてアリサを遠ざけた、という事実が永盛の腹に重く沈み込んでいた。

 もともと会社での成績が思わしくなく上昇志向もない永盛にとって、新事業はこれまでの通常業務の上にさらに加わった「負担」であるとしか思えなかった。が、そうであっても、気持ちはともかく期日までに資料を作成しないといけない。

 永盛は、メモの指定された加工工場の設備と生産能力から、新事業の規模と予算についての資料作成にとりかかった。黒字化までの年数やその後の事業としての見通しなどを数値化していき、具体的な形に落とし込むたたき台とし、他の協力会社との調整に使用するのだ。そのうえで、さらに詳細を詰めていき、次第にプランを「見える」ようにしていく。

 事業が事業として走りだすためには、様々な関係者を巻き込む。彼らを説得できるかどうかが、その資料にかかってくる。より精密になればなるほど、事業は成功に近づく。

 残業になるな、と永盛は思った。通常の業務が少ないわけではない。課長が新事業に邁進すればするほど、永盛ら部下もいよいよ忙しくなってくる。

(アリサのことは、もう過去のこととして、あきらめてしまうしかないのかな……)

 仕事が忙しくなってくれば、どのみちアリサとの音楽活動もできなくなってくるだろう。事業が本格的に立ち上がり、新たな事業部として活動を始めたら、プライベートを楽しむどころではなくなるに違いない。

 アリサとの出会いは、ほんの束の間に見た夢だったのだ。潤いのない砂漠のような永盛の心に一時的に湧き出したオアシスだったのだ。だがもうオアシスは干上がってしまった。

 いつまでもそんな夢にかまっていてはいけない。現実を見ろ。

 大した実力もないのに会社は社員として雇ってくれているし、しかも課長と結婚までしているではないか。このうえなにを望むのだ。

 アリサがいない、ということは、以前のような日常が続くことにすぎない。

 永盛は日々、乾いた心でそう思うことにした。

 マンションに帰って課長に冷たくあしらわれても、命じられた家事をやらされていても、そこから脱出する気概もなく、窮屈さを感じつつも、それが永盛の生き方であり、自分の居場所であった。

 そんな諦観した気持ちが永盛の心をすり減らしているのも気づかずにいた。



 そんなとき、永盛の実母から電話がかかってきた。

 どうしたのさ、と尋ねると、

「あんたの家に一度、行ってみようと思ってね。ほら、あんたたち結婚式も挙げなかったでしょ? 永盛のお嫁さんに会ったのは一度きりだったし、どんなところに住んでいるのか全然知らないというのも変でしょ?」

 親として息子を気にかけるのは理解できた。

 これまでアパートには何度かやって来たことがあった。父親といっしょだったこともあれば母親ひとりのときも。都会でたった独り、まともな暮らしをしているのだろうかと、仕事ぶりがどうかというよりも生活そのものを心配していた。きちんと食事はしているのだろうかとか、しっかり休みはとっているだろうかとか、やつれたりしていないだろうかとか、そういうことが気になってしまうのだ。一人暮らしも長くなった最近は、来る頻度も以前ほどではなくなっていたが、結婚して環境が変わったら変わったで、またのぞきに来たくなったのか。

 だいじょうぶだよ、なにも心配いらないよ――。

 陽気な口調でそう返したかったが、うまく切り替えられない永盛だった。

「僕ひとりで勝手に決められない。京極課長に尋いてみないと――」

「課長って、あんた――」

 しまった、と永盛は渋面をつくる。普段の習慣が出てしまった。

 とっさに、「じゃなくて、ええっと……天亜蘭ティアラさんに……」と訂正したが、考えてみれば京極課長を「天亜蘭さん」などと気安く呼んだことは、両親のもとへ連れて行ったときの一度きりだったことを思い出した。

 下の名前(ファーストネーム)で呼ぶな、と釘をさされていたということもあって言い慣れず、とっさに名前が出てこなかったのもいけなかった。母親にいらぬ想像をさせてしまったかもしれない。

「今度の仕事の休みに合わせて母さんひとりで行くわ。ほんのちょっとお邪魔するだけだから、なにも気を遣わなくていいから。また電話するわ」

 永盛がなにか言う前に、通話が切れてしまった。なにか思うところがあったのかもしれなかった。

「困ったな……」

 永盛はつぶやく。

 京極課長に相談しなければならない。つまらない用事を増やさないで、と文句を言われそうな気がした。

 今日も課長は遅くまで仕事だった。九時を過ぎているが、まだ帰ってきていない。

 永盛は気が重かった。



 先に残業を終えた永盛は、京極天亜蘭のさらに遅い帰宅を待って話を切り出した。

 母親が訪ねてくるかもしれない、と言ったとき、新事業などの仕事で頭がいっぱいだった京極課長は、最初はなんの話なのかとぴんとこず、それから、

「ああ、そういうことね」

 と、気がついた。

「こっちは忙しいから、適当にもてなして、帰ってもらって」

「まだ日は決まってないのですが、たぶん土曜か日曜だと思うのですが……」

 母親に顔を見せてもらえないかと、暗に願い出たつもりだったが、

「それがどうしたの?」

 と、まるっきり自分とは関係ない話だと決めつけている様子。

「蟹山くんに会いにくるわけでしょ? このリビングを使ってくれればいいわ。掃除は蟹山くんの担当だし、そこはきちんとしてくれるから安心だわ」

「いや、それはありがたいですが……」

「まさかと思うけど、わたしに会えと言うんじゃないでしょうね?」

 拒否の意志が込められた台詞だった。

「母親は、課長に会ったのは一度きりだったから、また会ってみたいと……」

「会ってどうするのかしら」

 建設的でない面会は無駄だと割り切った口調で、京極課長は言った。息子の結婚相手がどんな女性おんななのか、嫁としての務めを果たしているのかなどと見られるなどうんざりだ、と言わんばかりだった。

 そんな課長の気持ちを永盛は察し、同時に理解できなくもなかった。

 京極課長は、仕事でいかに成果を上げていくか、という点が人生で大きなウエイトを占めていた。だからこそ、同期入社組のなかで一番の出世頭でいられるのだ。

 今度の新事業でも、おそらく会社が期待する以上の成果を上げ、収益の柱として成り立たせ、立派に成功に導くだろうと、永盛はもちろん、京極課長を知る誰もが半ば確信している。

 しかしそこに至るには、平社員が想像すらできない努力があってこそなのだ。仕事以外にかまけている時間はないのだと、連日激務に追われている姿を見ているだけあって、永盛も強くは言い出せない。今日も遅くまで仕事をしていた。土日だろうと関係ない。社外の人間とも会う機会も多いため、三百六十五日、なにかしらの仕事をしているのだ。

 夫とはいえ、それはあくまで形だけの関係である永盛の母親に対してリソースを割くつもりがないのは仕方ないのかな、と妻としての京極課長の特別な対応はあきらめざるをえない。

「わかりました」

 永盛はそう言いつつ、さて、どうしたものかと思った……。



 永盛の母親は次の土曜日に訪ねると言ってきた。

 マンションには来たいだろうし、かといって長居させるわけにもいかないだろう。少しの間、部屋を見てもらったら、あとは外へ食事にでも連れ出そう、と考えた。

 母親としては、ぜひ妻である天亜蘭に会いたいのだろうが、その希望はかなえてあげられず、そこはまたいつか機会があるだろうと、今回のところは納得してもらおうと思った。

 土曜日の朝、母親から「新幹線に乗って十一時ごろに着く」との連絡を受けて、リビングを念入りに掃除していると、自室から身支度を整えた京極課長が出てきた。会社は休日であるのにスーツを着ている。どうやらこれから仕事――誰かと打ち合わせでもするらしい。

 新事業は、鴻円商事一社とその関係会社だけでどうにかなるものではない。さまざまな企業を巻き込んで、協力していかないと成立しない。卓越した技術を持っているなら、町工場にでも出向いていく気概がなければプロジェクトは動かない。

 しかし……と、永盛は課長の装いが、どことなくいつもと違う華やかさがあるように思えた。

(まぁ、そんなこともあるか)

 と、想像をたくましくするほどでもないと、掃除を続ける。

「蟹山くん、これを持っていきなさい」

 課長は永盛に紙袋を差し出した。

「なんですか?」

 ハンディモップを動かす手をとめて尋ねる。

「鏡栄堂のお菓子よ。お義母さんに持って帰ってもらって」

「えっ? わざわざ母のために買ってきてくださったんですか? 申し訳ないです。おいくらでした?」

「お金なんかいいわよ。いいこと、蟹山くん、こういう恥ずかしくない手土産を売っているお店を知っておくことは大事よ。社外の人とどんなことで付き合いが生じるかわからないんだから」

 はぁ……そうですね、と反射的に口から出そうになり、

「でも、僕は営業職ではありませんし」

「いつまでも社内向けの仕事をやり続けられるとは思わないで。新事業が軌道に乗れば、いまとは違って他社の人間やお客様とのやり取りをやってもらうこともあるんだから。そうでなくても、転勤や配置転換されることもあるわけだし」

 朝から説教が始まった。だが課長の言うことは正鵠を射ているわけで、正論を前に永盛は押し黙るしかない。

「それと、お昼はどうするつもり?」

 さらに訊いてきた。

「いや、特になにも……どこか適当なところですまそうと……」

 母親相手に気取った店で昼食をとるつもりなどなかったから、近くの定食チェーン店にでも入ろうと思っていた。

 京極課長はため息とともに、

「だめねぇ……そんなことだと思ったわ」

 と言うと、ハンドバッグからスマホを取り出し、

「ここへ行きなさい」

 画面を見せてくれる。そこには、紺色ののれんが下がる和風建築の玄関が写っていた。

「えっ、こんな高そうな……」

「わざわざ来てくれるんだから接待ぐらいしなさい。これも社会人としての勉強よ。きのうのうちに予約しておいたから、必ず行くのよ」

「えっ……?」

(ここ、いくらするんだよ……。勝手に予約なんかして……)

 最初にそんな心配をした。

 が、永盛の動揺を察した課長は、

「ランチタイムだからそんなに高くはないわ。それに友だちもいない蟹山くんは土日も部屋にいて、お金なんか使わないじゃないの? ここで使っても、たいしたことないでしょ」

 確かに友人はいない。唯一の交友であった村川アリサとも、もう会っていない。だから土日の休みは部屋にこもっていることが多かった。仕事で気疲れしていたからゆっくり休み、任されている家事をしていると、すぐに月曜になった。

「じゃあ、わたしは出かけてくるから、よろしく言っておいて」

 言い残すと、もう用はすんだとばかりに玄関へと歩いていく。時間をムダにしないひとであった。



 最寄り駅の改札口で母親を待っていると、いま乗り換えたとか、あと三駅で着くとか、いちいちメールで実況中継してきた。

 電車が到着して、降りた客がさざ波のように改札口へと流れてくる。そのなかに、おしゃれをした母親の姿が見えた。

「永盛、元気だった?」

「わざわざありがとう」

「駅から遠いの?」

「いや、五分ほどだよ。それより、ごめん。彼女は用事があって、今日は会わせられなくて。新しい事業の立ち上げに休みなくあちこち飛び回ってるんだ」

「課長さんだったわね。いずれは部長に?」

「たぶん、この事業が走り出せば」

「たいしたものね……。そんな女性ひとが永盛のお嫁さんだなんて」

 肩を並べてマンションへの道を歩きながら、お嫁さん、という言葉が似合わないな、と永盛は京極課長の顔を思い浮かべる。妻、というイメージすらわかない。

 駅からマンションまでの間には、都会っぽい洗練された外見の商店が立ち並び、賑やかだ。

 永盛はひとつひとつ、それらを歩きながら説明していく。

「すごいところに住んでいるのね。結婚前は下町って感じの住宅街だったのに」

「うん。生活環境はずい分変わったよ」

 ボロアパートに住んでいた頃を思えば、大層な出世であった。

 マンションの玄関についた。

「ここだよ」

「あれまぁ……」

 見上げるほどの高層マンションの正面には、セキュリティドアのある玄関。キーを差して開いた自動ドアを抜けると、きれいに清掃のいきとどいたエントランスの床が光っていた。

「まるで御殿のようね……」

 と、感心する母親。

 エレベーターで十階へ。一フロア三戸しかないのは、それぞれの部屋が広くとってあるというより、地価の高い都会でまとまった面積の土地がなかったという事情からだが、永盛の母親の目には、選ばれた裕福層のみが住んでいると映った。

 しきりに「すごいわねぇ」を繰り返す。

 玄関のドアを開け、「入って」と永盛。

「あらぁ……いいところねぇ……」

 余計なものがいっさい置いていないリビングは広々としており、住人の性格が表れていた。

「お茶をいれるよ、適当に座ってて」

「ありがと」

 そう言いながらも、母親はテレビの前のソファにもダイニングテーブルの椅子にもつかず、部屋の隅々まで見て回っている。ベランダからの見晴らしは新鮮らしい。

 その間永盛はキッチンに立ち、電気ポットで紅茶をいれる。食器はないので紙コップを使う。味気ないが、洗い物をするのは非合理的という京極課長の方針に、永盛も従っていた。料理もしないからシンクが汚れることもない。

「こんないいところに住めるなんて、永盛はいい女性ひとと結婚したわね」

 ベランダに立つ母親は振り返る。

「あんたはほんっとに女っ気がなかったからね。母さん、心配してたのよ。お見合いの相手でも探さないといけないかしら、と思ったし」

 永盛は苦笑する。母親は、これまで、そんなことは一度も言ったことはなかった。なかったが、思うところはあったのだ。だからこれで安心してもらえてよかったと思う。世の中の既婚者のみんながみんな、どこかしら妥協しているのだろうから、この自分も、これでじゅうぶん幸せなのだと納得する。

「これ、天亜蘭さんから」

 忘れてはいけないと、言付かっていたお菓子の紙袋を差し出す。

 ベランダから戻った母親は、

「あら、これ、テレビで見たことある鏡栄堂のお菓子じゃないの。悪いわね、気を遣ってもらって。ほんとにできたお嫁さんね」

 できたお嫁さん……。確かに卒がない。出世していく人は、スマートにさらりとこういうことができる人なのだろう。

 が、ダイニングテーブルに置いた紙コップを見て、

「あら、食器がないの?」

 椅子に腰をおろした母親は目を丸くしている。

「そうなんだ……」

「なんでも必要なものがあったら言いなさいよ。一人暮らしじゃないんだから、野菜でも送ってあげようか」

「いらないいらない」

 野菜なんか送ってもらってもダメにしてしまうのがオチである。永盛は料理ができないし、京極課長もしたことがない。そもそも食器さえないのに、調理器具なんかあるわけがないのだ。ナイフどころか鍋さえなかった。必要ない、と徹底していた。

「そうお?」

 母親は紙コップの紅茶をすする。好みはわかっていたから、グラニュー糖とミルクはあらかじめ入れていた。

「まぁ、これまでは仕事仕事で頑張ってきただろうけど、赤ちゃんができたら生活が一変するわよ」

「…………」

 永盛は相槌さえ打てなかった。

 京極課長が子供を欲しがっていないのは明白だった。本心では欲しくても、キャリアに影響するからあきらめている、のではなく、出産・育児など考えたこともない。少なくとも永盛の子供を産みたいなどとは絶対に思っていない。婚姻してはいても、夫婦ではない京極課長と永盛は、互いの手さえ握ったことがなかった。新事業に心血を注いでいる京極課長と、今後夫婦らしい関係になっていく可能性があるようには思えないし、そんなことを口にできる雰囲気はない。ひとつ屋根の下に寝起きしていても、そういった話を切り出す空気すらないのだ。

 親が一人息子の孫の顔を期待するのは当然だろう。しかしそれをかなえてあげられないのが心苦しい。

「天亜蘭さんはあんたより四歳よっつも年上なんでしょ? あまり先延ばしにはできないしね」

「そろそろ昼食おひるに行こうか。お店を予約してあるんだ」

「あら、そうなの?」

「うん、課長――天亜蘭さんが知ってる店なんだ」

「どんなところなの?」

「行ったことはないから知らないけど、いい店だよ」

「そうなの……。楽しみだわ」

 二人で食事に行ったことがない、ということに、いま改めて思い至った。それをへんに思われなかったろうか、と永盛は懸念する。が、

「とにかく行こうよ。すぐ近くなんだ」

 と言い、椅子から腰を上げる。

「そうね、お腹もすいてきたし」



 京極課長が予約してくれた料亭は、都会のなかにあって、上品なたたずまいの落ち着いた静かな店であった。

 駅の近くにこんなところがあるとは、永盛はちっとも知らなかった。確かに接待で使っていても失礼がない。おそらく課長は一度ならず利用しているのだろう。

 だが、こんなところに入ったことのない永盛は、接待でもないのに緊張してしまう。

 予約していた京極です、と告げ、臙脂えんじ色の作務衣を着た店員に奥の座敷へと通される。小ぶりの部屋だが、坪庭もあり、畳はいぐさの香がした。

 店員が説明する。ランチとはいってもコース料理らしい。

 出てきた料理に、母親はいたく満足していたから、永盛もこれでよかったのだと、課長の気遣いに感謝した。同席できないといっても、まったくの無関心ではなかったのが少し意外な気がしたが、その後ろには「一人前のビジネスマンとして接待ぐらいできるようランクアップせよ」と、永盛を教育する意図があるのが課長らしかった。

 久しぶりの母親とのゆっくりした食事。

 永盛に話すことなどなにもなかったから、もっぱら聞き役だった。同居しているだけの京極課長との関係をあまり詮索されたくはなかった。仕方なく料理の感想でごまかす。

 といっても、正直、食べ慣れないメニューにピントのぼやけたことしか言えず、本当なら夫婦でこういう場所に来ていてもおかしくないのだと気づいた。

「今日はありがと。来て良かったわ」

 駅の改札口での別れ際、母親は言った。

「天亜蘭さんは、しっかりしてるから、永盛も負けないようにね。でもつらかったら、静岡に帰ってきてもいいのよ」

 モデルハウスのように生活感のない部屋や、課長とのプライベートがひとつも話に出なかったことで、感じ取るものがあったのだろう。

 帰っていく母親の一言は、のどに引っかかる魚の小骨のように永盛の心に残った。


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